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メダカちゃんの近況は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月14日(金)12時39分13秒
返信・引用 編集済
  ははは・・・一つの容器で共同生活してるよ (^^♪

・4/29購入 親メダカ(赤・白つがい)はオスが1匹ずつ残っている。
・5/27産まれ 3匹 ・・・1~1.5cmの幼魚に成長したね。
・6/17産まれ 3匹 ・・・1cm程度の幼魚に成長してるよ。
  1cm以上になると、色(赤と白)がでるね、それぞれの親から産まれたんだろうね。
・6/29産まれ 3匹 ・・・5~6mmでまだ稚魚だろうね。

もう1ヶ月もすれば、全員成魚になるんだろうね。

えっ、残り4~50匹は?
     稚魚の時近所の小川に放流したよ、元気に暮らしていると思いたいね(笑)。
 
 

メダカちゃんの雌雄の見分け方

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月 9日(日)15時22分55秒
返信・引用 編集済
  メダカちゃんが更に一匹減ったよ。

赤と白が一匹ずついなくなった、産卵後は多くのメダカはライフサイクルを終えると言うが・・・となれば、オスが一匹ずつ残ったという事だろうか?

そこで・・・どうやってメダカちゃんの雌雄の判別をするんだろう。。。
    ---------------------------------------------------
オス・メスを見分けるには

 ・口の向き オス・・・口が上向き

 ・背びれ  オス・・・背びれに切れ込みが入ってる
         メス・・・背びれに切れ込みがない

 ・尾ひれ  オス・・・尾びれのふちが平らで大きい

 ・尻ひれ  オス・・・尻ひれが長くギザギザしてる
         メス・・・尻ひれが短くギザギザしてない
    ----------------------------------------------------

背びれが明確だね、という事で観察してみたが、メスが死んだみたいだよ。
 

メダカちゃんが一匹死んでるよ(泣)。

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月 1日(土)19時23分54秒
返信・引用 編集済
  メダカの寿命ってどうなってるんかいな?

なんと通常の寿命は約1年とされているようだ。なんて短く儚い命だろう・・・・そんな短い命を飼育をする気にならないよね。しかし、人工的な飼育環境下では3~4年はあたり前のように飼育できるようだよ(ほっ)。

自然のメダカのライフサイクルを簡単に書くと5~6月に誕生し、そのまま春から夏・秋へと成長を続ける。それから厳しい冬の低温状態を冬眠状態でのりきり、動きが活発な春に産卵が始まりそこで多くのメダカは命のサイクルを終えるようだ。その時の卵が5~6月に誕生しまた次の世代のライフサイクルが始まるわけだね。

そうか、産卵後の自然死だったんだね。

それにしてもなんという短い命!だろうか、人工的な飼育下だと栄養価の高い人工餌またはミジンコ・ゾウリムシなどの餌が人間により与えられ病気になれば薬浴・塩浴などで病気を回復できるようだ。そういった恵まれた環境で育てれば自然下ではあり得ないような長寿が実現できるという。メダカの老化による運動能力の低下などがおこれば弱肉強食の自然界では即、死につながるが人工的な飼育下なら手厚い看護がうけられるので寿命が違うという・・・(納得)。
 

観賞用に飼ったつもりが・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月30日(金)11時04分41秒
返信・引用 編集済
  こんな筈じゃ~なかったよ(苦笑)。

メダカさんがどんどん増えていく、それに比例し容器も増えていくんだよ。

・親(赤・白つがい)4匹の容器、 ・・・4/21購入
・5/27産まれ稚魚用容器、・・・10mm程度に成長してるよ、幼魚かな?
・6/17産まれ稚魚用容器、・・・3~4mm
・6/29産まれ稚魚用容器、・・・1~2mm

・スペアー(週一汲み置き)交換用容器×3個(親・稚魚・幼魚用)、

もう限界だーーー
次に産まれたら、親と同居させるぞーーー可哀想だな、小川に放流するしかないかな。
 

知らぬ間に・・・駄目だねぇ~

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月29日(木)11時26分57秒
返信・引用 編集済
  あれぇ~~~・・・スペアーの汲み置き容器に・・・稚魚がワンサカ・・・。。。

またもや、知らぬ間に・・・メダカちゃんの卵がふ化していたよ。

ホテイ草を移動させた時点で、卵が付着してることに全く気付いていなかったよ。
観察をやってない証拠だね、飼うならさ、特に産卵の確認はすべきだよね(反省)。

それにしても・・・メダカさんって産卵時期には何回も産むんかいな(苦笑)。

 

メダカの成長 ~卵から孵化、そして成魚へ~

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時32分47秒
返信・引用 編集済
  2017.06.23 7~8mmに成長した幼魚は親と同居させたよ、もう喰われないみたい。

ーー「メダカの飼育方法」ーーーーーーーーーーーーーー
   http://tokuze.livedoor.biz/archives/cat_50025719.html

【メダカの卵から稚魚へ】

メダカの卵は直径が約1mm程度で、ほぼ透明。
10日ほどで卵から稚魚がふ化してくるよね。
ふ化したばかりの稚魚の体長は数mmで、しっかり探さないと気が付かないね。

稚魚用の餌又は成魚用の餌を擦り潰して、ごく少量を与えましょう。与え過ぎに注意だよ。
少しずつ成長していくが、餌を上手に食べれない稚魚は残念ながら★になります。
水温や水質のちょっとした変化でも★に至ることもあります。

【稚魚から幼魚へ】
孵化してから約1ヶ月~1ヶ月半で1cm程度に成長します。
まだまだひ弱そうな感じですが、ここまでくれば★になる確率は格段に減りますよ。

【成魚まであと少し】
さらに1ヶ月程度で2cmまで成長します。ここまで成長すれば、成魚までもう少し。
 

子供専用容器は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時27分54秒
返信・引用 編集済
  2017.06.10(土)

日増しに稚魚(1~2mm)が増えてるよ、相当産卵してたんだろうね。

親に食われず生き残ったメダカの稚魚(十数匹)は、ふ化して5~6mm程度に大きくなってるよ、体格差が明確だね。
 

メダカさんを引っ越しさせたら・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時16分8秒
返信・引用 編集済
  2017.05.27(土)

あれぇ~、何か動いているぞ???、蚊の幼虫(ぼうふら)かな?
メダカさんのエサに丁度良いかな・・・と思いつつ・・・じぃ~っと観察する。

大変だ!!!メダカの赤ちゃんじゃないか、それも20数匹泳いでいるよ。
ホテイ草にメダカさんが卵を産み付けていたんだね、全く知らんかったよ。
ベランダに汲み置き水を一週間放置してたら、ふ化してたんだ(驚き)。

それを知らずに親メダカを移しちゃったんだよ。
おやおや、大変だ!子供達がどんどん食べられているよ。

慌てて、容器を掃除し、親を元の容器に移したよ(ふぅ~)。

さぁ~て、どうしたものか? 生き残った子供達(十数匹)はどうすれば???

「容器は掃除せずそのまま飼いなさい、1~2ヶ月位は大丈夫だよ、容器に付着した水苔をエサにするからね」「親の餌を指ですり潰して少量だよ」・・メダカ屋 吉田さん談。

予備は子供専用の容器にしたから、百均にてサラダボールをもう一個購入しちゃったよ。
 

ホテイ草ってどんどん増えるんだね。

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時14分7秒
返信・引用
  2017.05.20(土)

一株買ったのに・・・今日現在8株に増えちゃったよ。

相変わらず週一にメダカさんの引っ越しを継続してるよ。
 

メダカさんに癒されてるよ (^^♪

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時11分55秒
返信・引用 編集済
  メダカ日記を「癒し処」に移しました。参考になれば・・・

◆メダカさんって、凄く種類がいるんだな。

幹之・楊貴妃・東天紅・鳳凰・紅・イエロー・パンダ・スーパーブラック・だるまメダカ・・・・などなど・・・、初めての飼育だから一番安い奴にしたよ(笑)。

2017.04.21  メダカさんの飼育開始

・メダカ 赤2匹・白2匹(当然つがい)、100円/匹で400円

・水草(ホテイ草)80円

・飼育容器:百均のサラダボール(4~5L・透明)×2個

  ※一週毎にメダカさんの容器を掃除するので、予備としてもう1個用意したんだよ。
  予備容器には水道水を汲み置きしてカルキ抜き、それにメダカさんを移動するんだね。
  つまり、一週間毎に容器を交代させながら飼育していこうってことだよ。

・メダカの餌:これも百均

 ■ 合計:780円
 

好天に恵まれ・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 2月19日(日)19時47分23秒
返信・引用
  太宰府天満宮にて満開の梅の花と戯れたよ (^^♪

本殿右側の「飛び梅」、茶屋と「枝垂れ梅」、曲水の庭の「梅の花」
                       今年の曲水の宴は03.05予定  
 

(無題)

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月16日(月)14時25分22秒
返信・引用 編集済
  >こんにちは   投稿者:一寸法師   投稿日:2016年 5月16日(月)12時01分20秒

濃姫さん「釣り」すごいですね!!!
北海道でも負けそうです。
釣り船 乗船料いくらですか???

(濃姫) こんにちは、一寸法師さん、お久しぶりです。

釣り船料金・・・貸切と乗合があり、我々は貸切(撒餌無)を利用しています。
貸切(6人乗り)近場 50.000円・・・よって、10.000円/人でした。
             中場 60,000円
             遠場 70,000円

※ご参考:漁港発5:30~ 漁場6:30~終了14:00~漁港着15:00
 

玄界灘ってホント、すごかばい! No-1

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月15日(日)16時11分47秒
返信・引用
       5/12恒例の船釣りに行ってきました。(^^♪

驚くほどの好天と仲間(5名)にも恵まれ大漁でしたよ。

全体釣果は、
ヤリイカ×27、真鯛×13(最大75cm、5kg)、めばる×22(最大39.5cm)、
あらかぶ(カサゴ)×138(最大41.5cm)、カワハギ×4、ハタ×2

悔しいかな、
濃姫だけは「ヤリイカ」は坊主。船長と仲間達からお裾分けで4ハイお持ち帰り。

No-1好天に恵まれて、No-2 真鯛75cm、5kg No-3 水深は?
 

玄界灘ってホント、すごかばい!No-2

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月15日(日)16時06分36秒
返信・引用 編集済
  No-4あらかぶ(カサゴ)本日一41.5cm、No-5メバル本日一39.5cm
 

好天に恵まれ

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月 8日(日)14時09分1秒
返信・引用 編集済
  ご近所の「武蔵寺藤まつり」に行ってきました。

 

玄界灘ってホント、すごかばい!

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月 5日(木)07時55分3秒
返信・引用
       明日5/6は、恒例の船釣りで、ザラバは留守しま~す(^^♪

よって、NY市場5/05、東京市場5/6の結果報告は後報します。悪しからず。

■■===■■■===■■■===■■■===■■■===■■■===■■

自宅をAM3:30に出発し5:00頃「鐘崎漁港」到着、出港は5:30頃予定ですよ。

漁場は玄界灘に浮かぶ沖ノ島(神宿る島)を中心に中間漁礁・大島・小呂島、周辺です。

毎春、真鯛やイサキにメバル、サビキ五目釣でアラカブ(カサゴ)等を楽しんでます。

今回は船長から余興で昼イカ釣り?もやってみようとのこと、通常はオモリ50~60号を使用してますが、100号オモリの準備指示、仕掛けは?で興味芯々。

さ~て、釣果は如何に??? 
 
    (管理人) 延期になりましたよ(残念)。

明日は強風波浪注意報(強風1.5~2m、大波1~2m)にて順延で~す。
 

大河ドラマ「真田丸」

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 1月11日(月)10時36分28秒
返信・引用 編集済
  ◆真田丸のキャスト(NHKさん、視聴率関係ないのに、豪華過ぎるんじゃないの?)

真田信繁(真田幸村):堺雅人
きり:長澤まさみ(真田信繁の生涯のパートナー)
梅:黒木華(真田信繁の初恋の女性)
真田信之(真田信幸):大泉洋(真田信繁の兄)
松(村松殿):木村佳乃(真田信繁の姉)
真田昌幸:草刈正雄(真田信繁の父)
薫:高畑淳子(真田信繁の母)
とり:草笛光子(真田信繁の祖母で真田幸隆の正室恭雲院)
小松姫:吉田羊(兄・真田信之の正室)
高梨内記:中原丈雄(きりの父)
堀田作兵衛:藤本隆(宏梅の兄)
佐助(猿飛佐助):藤井隆(真田信繁に仕える忍者)
出浦昌相(出浦盛清):寺島進(真田家の忍者を操る)
室賀正武:西村雅彦
矢沢頼綱:綾田俊樹

徳川家康:内野聖陽
阿茶局:斉藤由貴(徳川家康の側室)
本多正信:近藤正臣(徳川家の名参謀)
本多忠勝:藤岡弘(徳川家の猛将で小松姫の父)
服部半蔵:浜谷健司
石川数正:伊藤正之

織田信長:吉田鋼太郎              豊臣秀吉:小日向文世
織田信忠:玉置玲央                北政所:鈴木京香
上杉景勝:遠藤憲                  千利休:桂文枝
直江兼続:村上新悟                小早川秀秋:浅利陽介
北条氏政:高嶋政伸                加藤清正:新井浩文
北条氏直:細田善彦                片桐且元:小林隆
板部岡江雪斎:山西惇              茶々(淀殿):竹内結子
武田信玄(亡霊):林邦史朗          石田三成:山本耕史
武田勝頼:平岳大                  大谷吉継:片岡愛之助
小山田信茂:温水洋一              豊臣秀次:新納慎也
小山田八左衛門:八田浩司          豊臣秀頼:中川大志
穴山梅雪:榎木孝明                大蔵卿局:峯村リエ
木曽義昌:石井愃一
明智光秀:岩下尚史

◆登場する多くのお城(城郭)も見逃せないですね。

   新府城、岩櫃城、上原城、高島城、岩殿城、高遠城、前橋城、沼田城、
   岡崎城、二条城、安土城、小田原城、上田城、海津城、八王子城

◆知ってましたか? 昨日のド迫力冒頭シーンのお馬さん(堺雅人騎乗)は、米ハリウッドの最新技術を駆使した「ロボット馬」で、使用されるのは日本初だったそうですよ。

真田丸の全景と真田家相関図とキャスト
 

ようこそ、歴史好きの皆様方へ

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月26日(日)09時37分57秒
返信・引用
  ようこそ、いらっしゃいました、「濃姫の癒し処」へ。

当館では、コーヒー、紅茶、ケーキなどセルフサービスとなっております。

特に、NHK大河ドラマ「真田丸」に関心ある方、ご自由に閲覧ください。

   ◆第一次・第二次上田合戦(総集編・・・目録紹介)
          13項目

   ◆大阪冬の陣・夏の陣(総集編・・・目録紹介)
          15項目

   ◆関ヶ原の戦い(総集編・・・目録紹介)
          17項目

物語は皆さんが読み易いように、3編共、上から順に並び変えております。

                        癒し処館長
 

第一次・第二次上田合戦(総集編・・・目録紹介)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時08分30秒
返信・引用 編集済
  NHK大河ドラマ「真田丸」を視聴する前に・・・

******  上から順に読み易くしてますよ♪  *****


  NO-  1【真田氏一族の背景】
  NO-  2【真田幸隆兄弟と戦国真田一族】
  NO-  3【戦国以降の真田氏一族】

では、人物像「真田三代」って誰?

  NO-  4 真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは-攻め弾正-
  NO-  5 真田三代「真田昌幸」(1547~1611)とは
  NO-  6 真田三代「真田信繁(幸村)」(1567~1615)とは
  NO-  7 信繁の実兄「真田信幸(信之)」(1566~1658)とは

いよいよ、第一次・第二次上田城の攻防戦となるのだが、その前に・・・

  NO-  8 真田幸村(信繁)と徳川家康の確執

さて、ここらで《 幕間休憩 》「真田十勇士」のご紹介など。。。

  NO-  9【第一次上田合戦】とは
  NO-10 真田討伐「鳥居元忠」天文8(1539)~慶長5(1600)とは
  NO-11 第一次上田合戦(神川の戦い)の後は
  NO-12「石川数正」(1533~1593)、出奔事件の謎

  NO-13【第二次上田合戦】とは

関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信之とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
 

NHK大河ドラマ「真田丸」を視聴する前に・・・NO-1【真田氏一族の背景】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時05分44秒
返信・引用 編集済
  NO-1【真田氏一族の背景】

天狼、天を駈ける孤高の狼。戦国時代、仇敵の許で家を再興した父の跡を受けて、大名の家臣から、小粒とはいえ戦国大名となり、周囲の大大名と渡り合い、ついには天下人をも翻弄しながら己の領地を確保した漢。

秀吉を利用し独立を維持し、家康に煮え湯を飲ませた漢。息子の一人は、秀吉の遺児に与力し、大坂の陣で家康の本隊を敗走させ、一時は家康を窮地に追い込んだ。父(幸隆)と息子(幸村)で真田三代と喧伝されるその中心人物、徳川の天敵。それが真田昌幸である。

天下人に表裏比興の者と言わしめた傑物である。幸隆(幸綱)・昌幸・信繁(幸村)の三代が「真田三代」と喧伝されるが、信繁の実兄の信幸(信之)も幕府と渡り合い、お家騒動を押さえて真田家を大名として近代まで存続させる礎を築いた名君である。

真田家は、幸隆・信綱・昌幸(信綱実弟、兄の戦死後、武藤家より復籍して家督を継承する)・信幸(信之:初代沼田城主、後二代上田城主、後初代松代城主・初代松代藩主) と戦国真田家の嫡流は継承された。

信繁は部屋住のまま秀吉直臣となり、二代目上田城主継承権者となるも、関ヶ原の合戦の時には、父と共に西軍方として、徳川秀忠を上田城の戦い(第二次上田合戦)で翻弄し、関ヶ原の合戦に遅参(合戦に間に合わず)させ、家康を激怒させた。

関ヶ原では東軍が勝利し、信繁(幸村)は、父と共に上田城を追われ、紀州久度山へ配流となり、上田真田家は滅亡し、信繁が大名になる道は閉ざされた。

真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣で討ち死に、嫡男大助も大坂城で自刃するが、その死後も伝説を残す(秀頼の九州落ちの伝説や讃岐真田氏の誕生など不可解な謎を残す)。真田幸村は大名にはなれなかったが、秀吉の晩年には豊臣姓を許されているし、幸村自身の関知しないところで、豊臣秀次の血脈を残す事になる。真田家と豊臣家の不思議な縁である。

真田氏の系譜は、滋野氏の末裔とされる海野氏の傍系の可能性が高いが、真の真田氏系図や遺跡は抹殺され、正系の確定が難しい。戦国真田家は、海野流真田氏の直系ではなく、真田氏傍系の可能性も考えられる。現状では、真田幸隆以前の系譜を確定させる術はないが、少なくとも海野幸義の末裔とする説は疑問である。

【真田氏一族概略系図】 ・・・下表の通り

海野幸義の末裔とする説は、各種系図の比較分析により疑問が浮上している。疑問というより否定の方向という方が正しいかもしれない。海野氏嫡流でないとすれば、真田氏はどういう系譜なのであろうか? 郷土史家や系譜研究家の先達の研究によれば、海野氏嫡流の姻戚関係であり、鎌倉時代に海野氏から分かれたか、古代豪族の流れということになるらしい。

戦国の真田氏が幻の真田氏の直系か、或いは傍系か正確なところは分からない。推定真田氏系図に関しては、別記の「滋野氏と天狼の系譜」の「推定真田氏系図」を参照されたい。本項では、「幻の真田氏系図」を切り離した形で検討した。
 

NO-2【真田幸隆兄弟と戦国真田一族】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時03分51秒
返信・引用
  真田幸隆(幸綱)は、真田氏の中興の祖であり、戦国真田家の事実上の初代であるが、何人の兄弟がいたのであろうか。三人とも、四人とも、五人とも記され、各系図にも食い違いがある。各種系図や地元の史料などをベースに研究された先達の著書などによれば、矢沢・常田・鎌原氏の祖は、真田幸隆の弟と考えられる。

彼らの子孫は、やがて武田家への臣従を経て、真田家が独立大名となると、臣従し重臣となった。各家は、本来小土豪の系譜だが、真田氏から養子を迎え、或いは復活名跡として真田家の同族となり、近世幕藩体制下では、真田家の譜代として、真田家を支えた。萩原氏に関しては疑問な部分もあり、更なる史料の裏付けが必要であろう。

真田一族の子孫は、矢沢氏や常田氏は、武田家家臣から、真田家与力、真田家家臣となる。金井氏は、後に帰農した。真田家は、幸隆の没後、信綱が継承するが、勝頼の命により長篠合戦に出陣し、弟の昌輝と共に戦死、一年ほどの当主であった。その跡は、武藤家を継承していた昌幸が、武藤家より真田家に復籍して兄の家督を継承した。

加津野家を継承していた信昌も、時期は不明(恐らく武田家滅亡後)だが、真田姓に復帰し、武田家滅亡後は、紆余曲折を経て徳川家康に仕え、幕臣真田家の祖となる。昌幸の次兄昌輝の子孫は、越前松平家に仕えたという。昌幸以降の真田家は、戦国から近世への激流を生き抜き、信之の子孫は、大名・旗本の系譜を伝えた(表の真田家)。

弟の信繁(幸村)は、関ヶ原合戦の時には、父と共に西軍方に属し、徳川秀忠を上田城の合戦で苦しめ、西軍が敗北すると、九度山へ配流となり、大坂の陣の時には、浪人部隊として豊臣家に与力し討ち死にした。しかし、その血脈は密かに生き残った。同族縁者の助けもあり、裏の真田家(正史では、幸村の系譜は、大助の自刃で断絶)も近代・現代に至っている。
 

NO-3【戦国以降の真田氏一族】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時02分55秒
返信・引用
  戦国時代、一度は没落した真田氏は、仇敵の武田家に仕える事により、旧領回復を狙い、幸隆やその子供達は、必死で仕え、信玄の信頼を得て、信濃攻略や西上州攻略に取り組んだ。結果、領国再興の足掛かりを得、武田領内に於いて、事実上旧領を回復する。その結果、武田家滅亡後は戦国大名として独立する。

その後、周辺の大大名と渡り合い、上杉景勝との提携をきっかけに豊臣秀吉にも接近する。真田家は、家康と秀吉の思惑に振り回されるが、自立を保ち、秀吉に仕える。秀吉と家康が和解、その後の小田原征伐で北條家が没落すると、信濃の小大名は、家康の与力扱いであり、家康の関東移封により転封となるが、家康に仕えた信幸(後の信之)は、上州沼田城主の地位を家康にそのまま認められ、事実上の沼田藩が成立した(形式的には、父の領国の一部)。

父の昌幸は、家康の与力大名になる事をよしとせず、信繁(俗伝では、幸村の名で知られる)を秀吉に出仕させ、自身も秀吉の直臣となり、信州上田を中心とした本領を支配した(豊臣家直臣上田真田家と徳川家康幕下の沼田真田家に分裂)。これが、関ヶ原の合戦の時に、信之が徳川幕下に残り(東軍方)、父の昌幸と弟の信繁が、犬伏での会合の後、真田賞幸・幸村親子の上杉家討伐軍からの離脱(反徳川=西軍方と同類)となる。

結果として、上田の真田親子は徳川本軍(総大将徳川秀忠)と戦うことになる(第二次上田合戦)。しかし、この戦では、上田城は落城せず、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。関ヶ原の合戦が東軍の勝利となると、上田の真田家は改易されたが、当時の作法により、父の本領は信之に与えられ、尚かつ徳川家への忠義により加増され、上田・沼田九萬五千石の大名となる。大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して八年後、上田から松城(のち松代)へ加増の上で転封となり、永年の領国である上田領を失った。

以後、真田家は松代藩主となる。この間、沼田三藩三万石(真田信吉)(埴科藩一萬七千石=真田信政一萬石+真田信重七千石)を分封し、信之は十萬石(直轄領松代八萬三千石と埴科領一萬七千石)を支配した。埴科藩は二代で廃絶・本藩吸収で松代藩主は十萬石となる。こうして真田家は戦国大名から近世大名へと移行する。沼田藩三萬石は、その後分封藩から独立藩となるが、五代目の真田信利の時に改易となる。松代藩十萬石は生き残り幕末に至る。

松代藩真田家は外様であるが、幸貫(ゆきつら・松平定信の息子)は老中となる。先代が井伊家からの養子であったので、譜代格となり、幸貫が徳川吉宗の血脈であった事も老中就任に繋がったのであろう。幸貫は、佐久間象山を息子幸良の近習とし、幸貫が海防係となると象山を顧問に登用した。幸貫の後は、孫の幸教が家督を継承した。その後は、宇和島藩主伊達宗城の次男が家督を継承(真田幸民)、戊辰戦争では新政府軍に参加する。幸民は藩籍奉還の後は藩知事となる。

華族制度が導入されると子爵に叙され、その後伯爵に叙される。大名真田家は、昌幸の男系は絶えたが、家系は現在まで続いている。真田と言えば、幸隆・昌幸・幸村の謀将真田三代が有名だが、藩祖の真田信之も父の昌幸に劣らず謀将であり、信之が長命であったことが、お家騒動(三代目の家督争い)を乗り切り、松代藩主真田家を幕末まで存続させたのである。

関ヶ原合戦以降の真田家は、旧上田領主真田家の没落により、信之を惣領とする上田藩主真田家(上田・沼田九萬五千石)が一族の中心となる。その後、信之が松代へ転封(四萬石を加増され十三萬石余)となると、信之は松代の経営に専念(十萬石で直轄領八萬三千石)、沼田(三萬石・真田信吉)、埴科(一萬七千石・真田信政、直轄一萬石、七千石・真田信重)を分封した(沼田は半独立、後に正式に独立)。沼田藩は五代で改易、埴科藩(松代分封藩)は二代で消滅、本藩へ併合となる。

結局幕末まで存続したのは松代藩のみである。この家系は、本来の真田氏の血統は途中で断絶し、養子が継承した。八代藩主の真田幸貫(さなだ・ゆきつら)は、天狼・真田昌幸の天敵・徳川家康の末裔である。幸貫は譜代格の扱いで老中に就任した。幸貫は海防係になると、相談役として佐久間象山を登用した。

最後の藩主は伊達家より養子に入り、明治の華族制度導入で伯爵に叙される。この系譜が現代に至る。幸貫の庶子の血脈は、明治時代に男爵となる。
 

では、人物像「真田三代」って誰?NO-4真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは?

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時01分50秒
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  NO-4真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは     -攻め弾正-

真田幸隆は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。
六文銭を旗印に定めてチート一族真田氏のスタートを飾った武将であり、「攻め弾正」の異名で知られる戦国時代の智謀の士であり、武田信玄の家臣として二十四将に数えられる名将。

別名は「真田幸綱」で、長男・真田信綱との通事つながりから「真田幸綱」が本来で「真田幸隆」は隠居後の名とする説がある。「真田幸隆」の名は、孫・真田信之が初代藩主となった松代藩編集による家系図に記載されている。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。

出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。幸村の祖父でもある。

【生涯]

信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされている。幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541年)に同盟関係にある諏訪頼重や村上義清と共に小県へ侵攻する。同年5月の海野平合戦により海野一族は駆逐されており、幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。武田方の初見史料となる『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しており、『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたという。

一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の伝説的軍師として知られる山本勘助の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は3~400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸隆を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[5]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦で上杉勢を上野から駆逐していることから、幸隆の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸隆であったと推測している。

武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸隆の要請にもよるものと言われている(柴辻による)。戸石城攻めで幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。しかし翌天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復する。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。

この頃、関東へ進出した後北条氏は上野で上杉憲政を庇護した越後の長尾氏と対峙するが、幸隆は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている(柴辻による)。

弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。『軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、越後上杉氏との第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸隆が調停に関わっている。

永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである。

永禄10年(1567年)、病気のために家督を信綱に譲って隠居していたとされている。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺にある。肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。

【人物・逸話]
幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。

【旗印「六文銭」】

真田氏の旗印とされる「六連銭」所謂「六文銭」は、三途の川の渡し賃として遺体と一緒に埋葬するものという不吉な意味ではあるが、元々は信濃北部一帯に勢力を張った海野氏の旗印する説も出ているが、真田幸隆にまつわる逸話の中では、長野業正を頼って上杉憲政に仕えたものの、最終的には見限って武田信玄の家臣となる際に、不惜身命の決意を現す為に、自身はいつでも三途の川を渡れる準備を完了している事を明示する為、六文銭を旗印にしたとされている。

なお、六文銭の代名詞・真田信繁(真田幸村)は、「真田日本一の兵」と評された大坂の陣では、兄で徳川方の藩主を務めた真田信之の事を思って、六文銭の旗印は使用していない。
 

NO-5 真田三代「真田昌幸」(1547~1611)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時59分42秒
返信・引用
  「表裏比興の者」(後背が定かではない)の名前のとおり、ともかく生涯でアッチコッチを色んな意味で裏切りながら駆け抜けていった人物である。あまりの裏切りっぷりに昌幸が元々どこの所属だったか、敵も味方も分からなくなってしまうほど裏切りを重ねていった生涯であった。反省はしていない。なお嫌いな物は徳川家である。

【誕生】

1547年に信濃の豪族の三男として生まれる。父は元々武田に攻められて信濃を追放されて上野国の長野業正(武田信玄と敵対していたスーパー爺ちゃん)の世話になっていたのにいつの間にか武田信玄に帰服しているあたり、裏切りの遺伝子は父より受け継がれたものであろう。

幸隆長男であり兄である真田信綱、同じく兄であり次男である真田昌輝がいる。しかし兄達は立派な武者ではあったが、猪武者でおつむが弱かったために幸隆が「嫉妬に狂った昌幸の罠にかかり暗殺されないように」昌幸を武藤家に養子に出す事になる。だがこの程度で昌幸の野望が止まるわけがないのである。

【家督相続】

1574年、父の幸隆が死去する。口うるさい上に自分を養子として追放した憎っくきジジイを病気に見せかけて始末したのはもちろんの事ながら昌幸である。着々と真田家奪取作戦を遂行する昌幸の次のターゲットはもちろん自分が家督を相続するのに邪魔な兄の信綱と昌輝である。だが暗殺すればさすがにバレてしまう。

そんなこんなで1575年、長篠の戦い。昌幸はこのとき、ふとアイデアを思いつく。「俺が殺せないのなら、織田と徳川に殺してもらおう。」この戦いの前に昌幸は兄達を訪問し「織田とか徳川とかザコっしょ!アニキ達の突撃でぶっ潰してやってくださいよ!」と兄達を油断させ、さらに夜なべして作った真田家の六連銭の旗を送るのである。

これは三途の川の渡し賃である六文の銭を意味しており、「死をも恐れぬ」という事だがもちろん昌幸の本音は「とっとと三途の川を渡っちゃってください><」という事である。昌幸の期待通り、兄達は織田徳川連合軍をナメくさって何も考えずにアタマから突っ込み壮絶な犬死討死。昌幸は兄二人と父を失った可哀想な子という哀れみの眼で見られながら「計画通り」と真田家の家督奪取に成功したのである。

【御館の乱】

昌幸の野望は果てる事を知らない。当主が武田バ勝頼に代わり、有力家臣がバカスカ死んで武田家中の仲も悪くなった所を見てますます悪い事を考え出すのである。1578年、信玄と長年敵対していた越後の戦国大名上杉謙信の跡継ぎ争いである御館の乱が発生すると勝頼は北条家に依頼され、北条家一門である上杉景虎の支援を行うため上杉景勝と一戦交えるべく出兵する。しかしここで昌幸が勝頼を騙すのである。

「北条の言うとおりに支援しても儲けとかあるんですかね?」「景勝殿は味方してくれれば黄金数万を用意すると言っているらしいですぞ」おバカな勝頼はそれももっともであるなと、突如景虎を裏切り景勝に味方するのである。結果的に景虎は敗死したが、これに北条は激怒し武田はかなり恨まれ戦争になったのである。

昌幸も上野に出兵し、北条方の沼田城等を奪取するのだが、北条方にはしっかり「いやあ、今回は勝たしてもらいましたけど北条さんは強いですなあ。勝頼のアホな命令で動かされるこっちはたまったもんじゃないッスよ」とコビも売っておき、上杉には「俺のお陰っすよ。困った事があったら相談するから助けてね」と恩を売っておいたのであった。

事実、上杉は第一次上田合戦から関ヶ原に至るまで真田と付き合うハメになっている。

【武田滅亡】

そしてすっかり武田が疲弊した1582年、織田信長による武田征伐が始まる。ボロボロの武田はあちこちで敗戦を重ねついに甲府まで追い詰められてしまう。勝頼は重臣を集めどこに逃げるかを相談したが、昌幸は「ここは我が岩櫃城においでください。兵もバッチリいるし、要害だから織田が来てもボッコボコにしてやんよ」と提案し、自分は戦の準備があるからと甲府から出て行った。もちろん沈みかけた船から逃げ出したのである。

勝頼はそれももっともであると思いながらも「昌幸とかマジ信用ならないッスよ」という小山田信茂の提案である岩殿城への撤退を決めてしまう。結果は小山田信茂の裏切りと天目山の戦いによる武田滅亡である。後世の人々は忠臣 真田昌幸の提案に乗らなかった武田勝頼を哀れんだと言う。

ただし。真田昌幸から北条氏に宛てたこんな書状が残っている。
「勝頼のバカがノコノコと沼田に来たら身柄をそっちに引き渡しますからヨロシク。」

~ 武田勝頼 について、真田昌幸
嘘ばっかりのこの記事であるが、これはガチである。結果的に勝頼は来なかったのであり、ここでは昌幸の思い通りにはいかなかった。

【本能寺の変と神流川の戦い】

こうして武田は滅んだ。そして昌幸はちゃっかり織田家に本領を安堵され、織田家の関東方面軍を指揮する滝川一益の指揮下に収まっていた。

だが、本能寺の変で事態は急転する。

そして昌幸の悪企みも再びむくむくと鎌首をもたげてくるのである。織田を裏切った北条軍が迫る中、昌幸は滝川に「関東武者はわりと一途だから感謝されて戦争でも活躍しますぞ!」と、関東諸侯の人質解放を具申する。普通ならありえない選択であるが、せっぱつまった状況に、滝川はイチかバチかこれを実行!これを見た関東武者たちはやる気を見せず(そりゃそーだ)、滝川は手勢だけで戦うハメになり、神流川の戦いでボロ負け。命からがら伊勢に逃げ帰った。

そして昌幸は北条へ臣従である。昌幸の辞書には義理とか人情とかは無いのだ。その後はタヌキ・上杉・北条の間を行ったり来たりして、わずか数ヶ月の間に5回以上の主君を変えるという不義理の限りを尽くした。

【第一次上田城攻防戦】

1585年、あまりの不義理っぷりについに徳川家康がキレて昌幸の居城である上田城に対して徳川の総攻撃がかけられる。徳川軍の兵数は実に7000人と本気で真田を潰すつもりで来たのである。が、それでも真田を甘く見ていたのは家康の方である。

とんでもない山奥にある上田城くんだりまで三河武士達はヒィヒィ言いながら攻めかかったもののビクともせず、おまけに奇襲や追撃戦でとんでもない被害を出して徳川は総崩れになったうえ、昌幸が石川数正をたぶらかして豊臣に出奔させるなど嫌がらせの限りを尽くした。

また次男信繁を上杉に人質として送って、上杉家も無理矢理巻き込ませた。結果的に猿の仲介などもあり、真田はまたも本領安堵されてしまうのである。殲滅戦の増えた戦国末期に死傷者21~40人(真田)対1,300人(徳川)って何コレ馬鹿にしてんの?

【豊臣政権下】

何だかんだで上杉の傘下に収まった昌幸だったが、豊臣政権が確立されるとあっさりと秀吉に臣従する。その時に昌幸は上杉家中に居た信繁を脱走させて、秀吉への人質とした。それを知った上杉景勝は珍しく大いに怒り、秀吉に訴えたが既に後の祭りだった。

さらに長男信之をかつて戦った家康の下へ出仕させて、家康の機嫌を取った。こうした抜け目の無さから、昌幸は秀吉から「表裏比興の者」と評されたと言う。また北条が自領にちょっかいを出して来たので秀吉を利用して叩き潰したりもした、その際に抜け目無くちゃっかりと自領を拡大したのは言うまでも無い。

【第二次上田城攻防戦】

1600年、関ヶ原の戦いが勃発。昌幸は次男信繁とともに豊臣方へ、長男信之は家康から本多忠勝の娘である鬼嫁小松姫(稲姫)を娶っていたため、徳川方に組する事になる。戦争前に長男の嫁と息子達を人質にしてやろうと「孫の顔が見たいので」とノコノコとやってくるが、嫁があまりにも怖かったために断念。

「ただ孫の頭を撫でようとしたら嫁がブチ切れて触んな、このお察し下さいと言われた。その時の顔は範馬勇次郎より恐ろしかった。もし連れ帰っていたら、自分の配下どころか西軍全員が殺されていた。」と言い残している。

今回、真田に迫ってきたのは家康の息子秀忠であり、その数実に30000人以上。「さすがにこの数では負けないだろう」と家康は秀忠に中山道を進めさせたが、昌幸の悪巧みと秀忠の戦争下手、そして相変わらず上田城のド田舎さは想像以上であり、またしても真田の前に徳川軍は潰滅してしまう。

散々な目に遭った秀忠は真田を無視して関ヶ原に向かうがもうとっくの昔に東軍勝利で終っており、秀忠は家康にこっぴどくしかられるのである。これぞ幕府の黒歴史。何食わぬ顔で徳川を文治政治にしちゃった張本人であろう。

「自分も15年前に真田に負けたのに」と思った秀忠はちょっとだけ家康と仲が悪くなり、昌幸の悪企みは徳川家の家庭事情に悪影響を及ぼし、伊賀甲賀忍者衆や裏柳生剣客軍団達を使った大御所VS二代将軍暗殺合戦にまで至ったのである。

【その後】

西軍は負けたので領地没収ではあったが、長男信之の必死のお願いにより九度山に配流され生涯を終える。九度山では大人しくしていると思いきや、信繁とともに長男へ「金送れ、元大名が真田紐製造で食いつないでいるんだが?」の手紙を連発し多大な迷惑をかけている。

恐妻家の信之は徳川のスパイである小松姫に隠れながらこっそりお金を大坂の陣まで送り続けさせられ、送られたお金は酒代やらの豪遊と信繁の女遊びに使われたと言う。
 

NO-6真田三代「真田信繁(幸村)」(1567~1615)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時58分23秒
返信・引用
  関ヶ原の戦いでは父・昌幸と共に西軍につき、徳川秀忠の軍勢を上田で苦しめ、徳川、豊臣手切れとなって行われた大坂の陣では冬の陣で大坂城南に出城(いわゆる「真田丸」)を築き、そこで防衛戦を行い、徳川方に大きく被害を与え、続く翌年の夏の陣では終盤徳川家康の本陣へ突入し、それに対し家康は大きく後退し逃げ切り、疲労がたまったところを松平忠直配下の足軽に討たれたとされている。

【大坂入城までの動き】

本名は真田信繁。幼名は弁丸、通称:源次郎。真田昌幸の次男である。(兄弟は兄・信之、弟の昌親、信勝がいたといわれる) よく知られる幸村の名は江戸時代以降、講談などで広まったもので、信繁の生前の頃の資料には幸村の名で書かれたものは一通も無いのだが、時代が下り幸村の名の方が知られる頃になると幕府編纂資料や兄・信之の子孫が治める松代藩の正史にまで「幸村」が採用されるようになる。

真田家は元は武田家に帰属する国衆であったが武田家が織田信長に滅ぼされた後は織田家に恭順し、織田信長が本能寺の変にて横死し甲信地方が勢力の空白地帯と化した後は上杉家に帰属し、信繁は上杉の人質として置かれる事となったがその後独立大名として自立し、その後は豊臣家に服属して豊臣家への人質として大阪に移り置かれ、この頃に秀吉家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎え従五位下左衛門佐に叙任される。(関が原以前の信繁の動向にはあまり目立ったものは無い働き盛りの時代に妻子連れてのニート状態だった。)(兄・信之の妻は本多忠勝の娘小松姫)

1600年の関が原の合戦では徳川方の武将(本多忠勝)の娘(小松殿)を嫁に貰っていた兄・信之と袂を分かち、父とともに豊臣側に付き、居城・上田城にて徳川秀忠率いる3万8千の主力を釘付けにし関が原の戦いに遅参させる結果を生み出す。

結果的には徳川側の勝利となり昌幸と信繁は敗軍の将となり切腹または斬首となってもおかしくなかったが、徳川方に付いた兄・信之と本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流されるにとどまったが、徳川と豊臣の対立が抜き差しならなくなった頃、生命を救われた恩を仇で返し父・昌幸の旧臣に参加を呼びながら長男・大介(真田幸昌)と共に九度山を脱出し大阪城へ入る。

後世の創作作品影響から、戦功が過剰にいわれる事が多いが、大坂の陣以前の真田氏による戦い(上田城での2度に渡る徳川軍の撃退など)の殆どは父・昌幸の主導によるもので、信繁が活躍したとする文献はほとんど存在しない。よって当時は「真田」と言えば昌幸もしくは信之を指すのが常識で、創作では幸村入城の知らせを聞いて「親の方か、子の方か」と家康が問いただし、子(幸村)の方だと聞き安堵したというのはこれが元になっている。

【大坂の陣において:冬の陣】

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では積極策を主張し諸将にも賛成されたが、軍権を持つ大野治長らに反対され受け入れられず、篭城決定後は大阪城の唯一の弱点といわれた三の丸南側に「真田丸」と呼ばれる出城をつくり、越前松平や加賀前田を撃退し全国諸将に真田信繁の名を知らしめた・・・・・・が、大阪冬の陣は講和成立後
に真っ先に破却される事となる。この直後、徳川方から10万石で勧誘を受けるが拒否している。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では後藤基次隊を打ち破った伊達政宗隊を撃破・後退させる戦果も挙げたが味方武将が相次ぎ戦死・討ち死にしていき疲労の色も濃くなる中、家康本陣めがけての大突撃戦を敢行して本陣に肉薄し家康は武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目の本陣馬印を倒され、自害を二度覚悟したほどだったが軍勢に勝る徳川勢に追い詰められ四天王寺近くの安井神社(大阪市天王寺区逢阪1-3-24)の境内で討ち取られた。享年49。

当初、大坂城に入城した際も兄信之が徳川方の大名だったこともあり大坂城内でも疑惑の目で見られるなどほとんど信用されなかったが、それ以前に武将としての実績が乏しかったからでもある。後藤又兵衛などとともに5人衆の扱いを受けてはいたが、これは信繁が元大名真田昌幸の血筋を引く者としての評価である(当時は何より血筋や格式がモノを言った時代である)。開戦前、大坂方主脳部の考える籠城策には反対し、出撃策を主張したが、退けられる。

また各種創作作品で見られるような、大坂方の軍事方面における総大将や軍師級の扱いを受けていたわけではなく、あくまで総兵力数万いる中での数千人規模の一方面の中級指揮官でしかなかった。

なお後述の夏の陣も含め、信繁は真田の代名詞でもある六文銭の家紋を旗印に使わなかったとされる。これは敵である徳川軍に参戦した信繁の甥にもあたる、信之の子の真田信吉らにはばかったものとされる。

【大坂の陣において:夏の陣】

夏の陣では緒戦の「道明寺の戦い」において伊達政宗軍を破り後退させているが、同戦いでは後藤又兵衛を戦死させており、この原因については真田隊の到着が遅れたためともされるが、一方で後藤又兵衛が信繁らの到着を待たずに戦端を開いたためともされ、敗因の責任についてははっきりしない(主脳部の作戦ミスともあるが、これについて言えば信繁には戦略的主導権はない)。この際、切腹を口にして、毛利勝永に止められている。

どちらにしても大坂方の戦況が俄然不利になったのは確かで、信繁ら豊臣方は家康の首を取ることに起死回生を図った。

最後の決戦となった「天王寺の戦い」において、まず大坂方は総大将豊臣秀頼の出陣を促して全軍を鼓舞させようとしたが、出撃は叶わなかった。この戦いにおける主な作戦は「敵の主力を引きつけて、戦線を出来るだけ伸ばして家康本陣を手薄にして本陣を急襲して家康を討つ」というもので、当初家康を討つ役割に充てられたのは信繁でなく明石全登であった。

しかしここにおいても諸隊の連携がうまくいったとは言えず、作戦開始前に戦端を開いた毛利勝永隊らの奮戦から思いもかけない混戦となり、結果として家康の本陣を急襲する役割となったのは信繁や勝永となった。しかし、家康の本陣を大混乱に陥れたものの、肝心の家康の首を挙げることはかなわず、信繁は疲労して休んでいる所を襲われ討たれるのであった。

同日、大坂城は炎上、翌日秀頼と淀殿は自害し(信繁の長男大助もそれに従い自害)、大坂の役は終わっている。

【死後】

信繁の子孫は信繁と共に九度山から大阪城に入り、豊臣秀頼らと共に自害した大介幸昌の他、片倉重長(2代目小十郎)に保護され、伊達政宗が実在しない真田家の武将の子と偽証までして保護した仙台藩片倉家家臣片倉守信、外祖父豊臣秀次の旧姓である三好姓を称した出羽国亀田藩士三好幸信、九度山で生まれ父信繁・兄幸信の死後に讃岐に脱出し讃岐国弘城(細川屋敷)主の細川(石田)民部大輔国弘の養子となったと言われる石田之親らがいたと言われ、その中で次男片倉守信の子・辰信が将軍家により真田の名を名乗る事を許されて復姓し「仙台真田家」として信繁系の真田の名を現代まで存続させており、賊軍の将の子としては破格の待遇を各所で受けることになる。

(余禄:仙台真田家の家督は途中で伊達家一族大條氏が養子に入っており、また兄信之の本家の方も伊予宇和島伊達家から養子を入れて家督を継がせるといった具合に両方の真田家とも伊達の血が入っている)

【評価】

「真田幸村」としての知名度もあって、過大に評価されているという声も大きいが、大坂の陣で圧倒的兵力の徳川勢を相手に僅か数千の兵で怒涛の攻勢を掛け、家康の本陣にまで斬り込むという神懸かり的な武力を発揮したのは紛れもない事実であり、島津忠恒が信繁を「日本一の兵(つわもの)」と評したのも紛れもなく史実に基づく事実である(ただし、島津忠恒は直接には大坂の陣には参加してなく伝聞によるもの)。

いずれの評価も同時代や後世の人間による評価であり、信繁自身が他人の功績を盗んだというわけでは無いが、毛利勝永らの評価が霞んだことには当時から批判の声が上がっている。

その性格は信之の言葉によると「物静かで怒る事は少なく、柔和で辛抱強い」という、勇猛な武将のイメージとはかなり違う。ただし、子供の頃に失敗した家臣を追いかけまわした挙句殺したという話もある(信之にも似た事例があったが、信之は家臣を許している)。

なお、大坂の時には出家していた為、丸刈りだったらしい。 背は小さく、大阪城入城時は髪の毛も禿げかけており、残った頭髪は白髪混じり。歯も抜けた冴えない風貌であった。
 

NO-7 信繁の実兄「真田信幸(信之)」(1566~1658)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時56分2秒
返信・引用
  気苦労を背負いこんで万全に処理する事に定評のある戦国時代のチート一族真田氏の一人であり、祖父・真田幸隆、父・真田昌幸、弟・真田信繁(真田幸村)ら華々しい活躍に定評のある一族中でも地味ながら、信濃国上田藩そして松代藩の初代藩主として、明治まで続く松代藩真田家の基礎をつくりあげた真田家最大の功労者。嫁は本多忠勝の娘・小松姫。

93歳の長命を誇り、徳川家光の嫌がらせもあって90歳まで現役の松代藩主を勤め上げたチート爺でもあり、智謀がチートの真田幸隆、全体的にチートな真田昌幸、戦闘面でチートな真田信繁(真田幸村)に対して、寿命がチートである。

【人質生活】

信濃国上田のチート一族最強武将・真田昌幸の長男に生まれる。弟は真田幸村の中の人・真田信繁。

※真田信之は別名源三郎に対して、弟・真田信繁は源次郎な為、実際の兄弟順は逆だったのではとの説もあるが、当時、長男の名前を次男より下にすることで長男に降りかかる災厄から避ける意図によるものとされている。

すでに幼少時から迷惑事を背負わされて確実に処理する運命にあったらしく、父・真田昌幸が武田信玄に臣従していた事から武田家にて人質生活を送り、武田勝頼の嫡男で最後の甲斐武田家当主・武田信勝と同時に元服し、武田信勝から一字をもらって「真田信幸」と名乗った。武田家滅亡後は上田に帰るも、父の駆け引きにより、徳川家康の人質になったりした事があった。

その後、領地を巡る争いから徳川家康と真田昌幸の間で起こった上田合戦の際に、よくある賢弟愚兄な評価をする人は、真田幸村を美化しすぎといわんばかりに父の片腕として活躍し、その器量を本多忠勝や徳川家康に認められ、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女として妻に娶り、徳川家康の縁者となった。

※夫婦仲は良く、妻を亡くした際には「我が家から光が消えた」と大変嘆いたという。

【関ヶ原の戦い】

関ヶ原の戦いに際しては、犬伏の別れにて父と弟が石田三成率いる西軍につき、徳川家康の与力だった真田信之は東軍につき、真田嫌いに定評のある徳川秀忠と共に第二次上田合戦に参加して、父や弟と戦った。なおこの戦いでは、真田昌幸の前に関ヶ原の戦いに徳川二代目でありながら大遅刻するという失態を演じた事が、徳川秀忠を真田嫌いにしたといわれている。

終戦後、敗軍の将となった父と弟に対して上田合戦で煮え湯を飲まされた事や後継者の徳川秀忠に重大な失点をつけた事から処断を決めていた徳川家康に対して、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、舅の本多忠勝も

「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る」

と家康に啖呵を切った事から、父と弟は九度山への流罪となった。その後、自らが領主を務めていた沼田と父の所領上田を加えた上田藩の藩主となり、空気を読んで名を「真田信之」と改めた。

その後も真田家存続を第一に徳川家へ忠勤に励みながらも、良妻・小松姫の協力もあって、藩費ではなく、自費で九度山の父や弟への支援も続けた。

【真田家存続第一】

徳川幕府が二代目・徳川秀忠の代となると、真田嫌いに定評のある徳川秀忠からのいじめが始まる。真田信之本人は病で参加できなった大坂の陣において、弟の真田信繁が豊臣方として大活躍した事から、真田信之は内通を疑われて取り潰されそうになったところを、父ゆずりの老獪さで渡りきった。

その後、真田氏の父祖の地である上田から、河川の氾濫などにより痩せた土地だった信濃国松代へ左遷同様の転封となり、同じ外様大名の仙石忠政が上田入りすることとなった。

真田嫌いに定評のある徳川秀忠からの命令もあって、やむなく父祖の土地を離れる事とした真田信之だが、その際に、藩政に関する書類全てを焼き払い、上田城の灯篭や植木を持ち去った。

藩政に関する資料の損失により、後任の仙石忠政は、真田ひいきの土地で苦労する事になる。

温厚で知られる真田信之が、いやがらせにも近い行為を行った事について、本多忠勝の実の娘で、徳川家康の養女として娶った小松姫の嫁ぎ先である真田家が、同じ外様で格下の仙石家に父祖の地を奪われる事に、幕府に対する腹立たしさを無言の抵抗として行ったのではとする説がある。

そして真田信之は、良妻・小松姫の倹約により蓄えていた20万両にも及ぶ蓄財と共に松代入りし、その後三代まで続く財力で松代藩を立て直して、明治維新まで続く藩の基礎を築くのだった。

【現役最高齢大名】

幕府が徳川家光の代になっても真田家へのいじめは続き、真田信之は、すでに跡取りの真田信政が60歳を越えているのに、伊豆守(真田信之)は天下の飾りであるとして徳川家光から隠居させてもらえずにいた。

念願かなって隠居したものの、後を継いだ真田信政は高齢により2年後に死去し、真田信政の後継候補の真田幸道と沼田城主真田信利との間で後継者争いが起こり、当時から家中の失態を見逃さずに取り潰す幕府と駆け引きしながら、真田信利を独立させる事で松代藩は真田幸道が継ぐ事が決まったものの、この時真田幸道は
まだ2歳だった為、隠居していた真田信之が現役に再度復帰する事となった。

そして1658年、先に旅立っていた愛妻・小松姫の元へと旅立った。享年93歳。

【賢弟愚兄に非ず】

真田家には、「吉光のお長持」という逸品が代々伝わっていた。

家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がつく程だったが、江戸幕府が倒れていじめっ子がいなくなった明治になって開封した際、とんでもないものが入っていた。

中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされていたが、その実は、石田三成からの書状等の、当時露見していたら確実に徳川家康に取り潰されていたであろう証拠の書類の数々だった。

温和な人物で、時に「真田日本一の兵」の武名を残した弟・真田信繁(真田幸村)との偏った比較から、賢弟愚兄とされることのある真田信之だが、危険な証拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、仇敵徳川家に対する反骨精神のあらわれと考えられ、真田信之もまたチート一族「真田」の血の者であったと言うことであると思われる。

さすが、家名を守った最大の功労者はその中身も一味違っていた。
 

いよいよ、【第一次・第二次上田城攻防戦】となるのだが・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)20時57分25秒
返信・引用 編集済
  その前にNO-8「真田幸村(信繁)と徳川家康の確執」
                            知らねばならない。

武田家が滅亡した後、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸は、織田信長→上杉景勝→北条氏政→徳川家康と寝返り、領土を守りながらも、混乱に便乗して上野国西部の吾妻郡から上野西部の沼田までを領土化した。

その後、対立していた徳川家康と北条氏直が和睦する。この和睦の条件が、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏直の領土とするという条件だった。

このため、徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野(群馬県)の吾妻・沼田の引き渡しを求められたが、代替地を与えられていない事を理由に吾妻・沼田の引き渡しを拒否した(真田昌幸の沼田領土問題)。

徳川家康と真田昌幸の関係は険悪になりつつあったが、徳川家康は真田幸村の沼田領土問題を黙殺して、信濃北部を支配する上杉景勝との決戦を挑もうとしていた。

■室賀正武の降伏のあらすじ

天正11年(1583年)、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を拠点とする真田昌幸は、信濃国小県郡(長野県上田市)の反徳川勢力を駆逐して、信濃国小県郡の大半を平定した。

一方、信濃国佐久郡にある春日城の城主・依田信蕃は、佐久郡の反徳川勢力を撃破し、佐久郡の大半を平定したが、天正11年(1583年)2月に岩尾城を攻めたさい、鉄砲で撃たれて死亡してしまう。

天正11年(1583年)3月、徳川家康は上杉景勝が支配する信濃北部への侵攻を命じ、同年4月には徳川家康が甲府に布陣する。

天正11年(1583年)9月、徳川家康は信濃国へ出向いて、信濃国の仕置きを行い、真田昌幸は本領を安堵された。

さて、真田昌幸は信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武と対立しており、真田昌幸は徳川家康から本領を安堵されると、対立する室賀正武への圧力を強めた。

すると、室賀正武は不本意ながらも和睦を願い出たので、真田昌幸は室賀正武との和睦に応じた。

■真田昌幸の上田城のあらすじ

さて、真田昌幸が支配する信濃国小県郡上田(長野県上田市)に尼ヶ淵の古城(尼ヶ淵城)があった。

尼ヶ淵城は信濃国(長野県)の交通の要所だったので、真田昌幸は尼ヶ淵城を信濃北部へ侵攻する拠点にするという名目で、徳川家康の兵を借りて尼ヶ淵城を大改修を開始する。

こうして完成するのが、真田家の居城となる上田城で、一説によると、真田昌幸が上田城と名付けたことにより、この地域を「上田」と呼ぶようになったという。

(注釈:徳川家康は信濃北部侵攻を狙っていたので、尼ヶ淵城の改修を大いに支援した。実質的には徳川家康が上田城を普請し、真田昌幸に与えたことになる。)

さて、真田昌幸が上田城の普請を開始すると、上杉景勝は上田城の普請を阻止するため、上田城の北西部にある虚空蔵山城に兵を集結させ、上田城を攻めようとした。

しかし、徳川側の松本城の城主・小笠原貞慶が、その隙を突いて上杉景勝の青柳城を攻めたため、上杉景勝は青柳城の援軍に向かった。

このため、上杉景勝の上田城攻めは中止となり、真田昌幸は徳川家康の力を借りて天正12年(1584年)に「上田城」を完成させると、上田城を居城とした。(注釈:これまでは戸石城を居城としていた。)

上田城は信濃(長野県)の交通の要所で、平地に築かれた平城だったが、当時では珍しい総構えを有し、千曲川や湿地帯などを利用した要害である。

こうして、真田昌幸は信濃北部侵攻を口実に、徳川家康を利用して上田城を手に入れたのである。

■徳川家康と豊臣秀吉の対立

織田信長の後継者となった豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、織田信雄(織田信長の次男)と対立を深めていた。

徳川家康は織田信雄(織田信長の次男)を擁立して、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立し、四国の長宗我部らと同盟を組んで、豊臣秀吉(羽柴秀吉)を封じ込めようとした。

徳川家康は「小牧・長久手の戦い」で勝利して優勢にあったが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は政治力を駆使して織田信雄(織田信長の次男)と和睦に持ち込んだ。

このため、徳川家康は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と戦争をする大義名分を失い、停戦したものの、徳川家康と豊臣秀吉(羽柴秀吉)は一触即発の状況に合った。

そこで、徳川家康は早急に、北条氏直との同盟を強化し、背後の安全を確保する必要に迫られた。徳川家康は2方向の敵と戦うほどの余裕は無かったのである。

以前に徳川家康と北条氏直が和睦したとき、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡するという条件が交わされた。

このため、上野国の吾妻・沼田領を支配する真田昌幸は、徳川家康から吾妻・沼田領を北条氏直に引き渡すように求められていたのだが、真田昌幸は徳川家康から代替地を貰っていない事を理由に引き渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。

徳川家康は、上杉景勝の信濃北部へ侵攻するため、この「沼田領土問題」を黙認していたのだが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立したため、

ところで、徳川家康と北条氏政が和睦したさい、和睦の条件として、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡することが決まり、領土交換が行われた。

徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領を北条氏政への引き渡しを求められたが、徳川家康が代替地を用意できなかったため、引き渡しを拒否し続けていた。

徳川家康は真田昌幸と険悪な関係になりつつあったが、信濃国(長野県)北部を支配する上杉景勝との対立もあるため、沼田領土問題を黙殺していた。

徳川家康は北条氏直から吾妻領・沼田領の引き渡しの督促を受けていたこともあり、豊臣秀吉との対立を切っ掛けに、北条氏直との同盟を強化するため、真田昌幸の沼田領土問題の解決に乗り出したのである。

そこで、徳川家康は大久保忠隣を派遣して真田昌幸に上野国吾妻領・沼田領の引き渡しを命じたが、真田昌幸は断固として拒否した。

■室賀正武が真田昌幸を暗殺

ところで、信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武は、不本意ながら真田昌幸に属していたので、徳川家康に真田昌幸への不満を漏らしていた。

そこで、天正12年(1584年)6月、徳川家康は室賀城の城主・室賀正武に「謀りごとを持って真田を討つべし」と、真田昌幸の暗殺を命じた。

しかし、室賀正武の家臣・室賀孫右衛門が真田昌幸に内応していたので、この命令は真田昌幸の知るところとなる。

これを知った真田昌幸は囲碁の観戦を口実に室賀正武を上田城に招くと、室賀正武の家臣・室賀孫右衛門に命じて徳川家康に報告させ、室賀正武は徳川軍を上田城に引き入れる計画を立てた。

しかし、室賀孫右衛門は既に真田昌幸に内通しているので、室賀正武の計画は上手くいかず、室賀正武は上田城に入ると、真田昌幸に処刑された。

室賀正武の死によって信濃国小県郡で真田昌幸に対立するような勢力は全滅し、真田昌幸は信濃国小県郡を完全に支配するようになる。

■真田昌幸が徳川家康に激怒

天正13年(1585年)4月、真田昌幸の暗殺に失敗した徳川家康は、大軍を率いて甲斐(山梨県)へ入ると、大久保忠隣を使者に送り、軍事力を背景に、真田昌幸に上野国沼田の明け渡しを求めた。

しかし、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地ではなく、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と拒否した。

これは事実上の断交宣言で、これ以降、真田昌幸は越後(新潟件)の上杉景勝との交渉を本格化させたが、真田昌幸は過去に上杉景勝から北条氏直に寝返った経緯があるため、簡単に上杉景勝の信用は得られなかった。

しかし、粘り強い交渉の結果、上杉景勝は人質を出す事を条件に、天正13年(1585年)7月に真田昌幸の帰属を認め、本領安堵などを約束する9ヶ条の起請書を送った。

(注釈:真田昌幸は信濃国小県郡から上野国の吾妻・沼田にまで支配が及んでいることから、真田昌幸を大名として扱う説がある。真田昌幸を大名として扱う場合は、真田昌幸は上杉景勝に帰属したのでは無く、対等な同盟関係を結んだと考えられている。)

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さて、ここらで《 幕間休憩 》「真田十勇士」のご紹介など。。。

真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のこと。あくまで伝承上の架空の人物といえるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。

立川文庫以来、基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっているが、作品によって差異が見られる。

原型は、江戸時代中期の小説『真田三代記』に見られるが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫である。以後の「ヒーローとしてのイメージ」は、立川文庫という創作物によって定着した。

現在に至るまで、多くの派生作品が制作されており、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されている。

実在を唱える説、実在の人物がモデルであるとする説もある。真田氏の領地付近に戸隠流忍術の戸隠の里があり、そこから真田イコール戸隠忍者の主人との考えから生まれているという考えもある。

【十勇士の成立】

「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物『難波戦記』である。元禄期には小説『真田三代記』が成立し、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。この『真田三代記』において猿飛佐助と望月六郎をのぞく8人の原型が登場し(筧十蔵、霧隠才蔵の元になったと思われる筧十兵衛、霧隠鹿右衛門が記載されている)、「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなった。明治後期の講談は神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演速記本が書き残されている。講談師たちは『真田三代記』にはない忍術つかいの「猿飛佐助」を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていった。

1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって講談を読み物として再編集したもので、その後の大衆文学に大きな影響を与えた。

この立川文庫において、『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、
1.『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(第40編、1914年)
2.『真田三勇士由利鎌之助』
3.『真田三勇士忍術名人霧隠才蔵』(第55編)

を「真田三勇士」とする三部作が創られた。次いで『真田家豪傑三好清海入道』など、真田家の豪傑の逸話をあつめた作品が刊行され、のちに『真田十勇士』が刊行された。立川文庫は人気作品となり、新しいメディアである映画でも忍術使い猿飛佐助を中心とする作品群が作られた[2]。今日の真田十勇士という枠組みは、ここに起源を持っている。

【猿飛佐助】

猿飛 佐助は、真田十勇士でも屈指の実力と人気を持つ。架空の忍者といわれているが、モデルになった人物には、木下藤吉郎家臣の猿飛仁助の子孫、上月佐助、三雲佐助賢春の名が上がっている。

【霧隠才蔵】

霧隠 才蔵は、「霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者」とされる。

伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされている。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、その中でキャラクターが構成されたと考えられている。真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、主役を務めることもある。

【三好清海入道・三好伊三入道】

この兄弟は、『真田三代記』では出羽国亀田の領主出身、立川文庫では三好氏出身の破戒僧と設定されている。

三好清海入道のモデルは、大坂の陣において豊臣方で討死した三好政康(入道名・清海)と考えられている。政康の弟の三好政勝(法名・為三)が伊三入道のモデルとされるが、史実の政勝は徳川方について大坂の陣に出陣した。いずれも80代という高齢での出陣であった。

なお、信繁と側室・隆清院(豊臣秀次の娘で、三好吉房の孫)の間に生まれた三好幸信は父の死後、亀田藩に仕えており、この史実が『真田三代記』の記述にも影響している。

【穴山小介(穴山小助)】

『真田三代記』によれば、「武田旧臣の穴山信君(武田氏の家臣)の縁戚」と言われる。十勇士の穴山小介は、「史実の彼を元にしている」という説と、「創作された架空の人物」という説がある。

生没年、出自など永禄11年(1568年)? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))穴山信光の長男。名は安治とも伝わる。通称、岩千代。号は雲洞軒。実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。真田幸村の家臣。役割、最期大坂夏の陣(1615年)において幸村の影武者を務め、戦死したとされる。

【由利鎌之介】

『真田三代記』にも、由利鎌之介の名で登場する。講談本の立川文庫には、『真田三勇士 由利鎌之助』の巻がある。十勇士の由利鎌之介は、「史実の彼を元にしている」という説と、「創作された架空の人物」という説がある。鎖鎌の名手。

生没年、出自など天正元年(1573年)? - 慶長20年(1615年)?)名は基幸とも伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。真田氏との関係本来は真田氏と敵対していた。真田昌幸・幸村親子を繰り返し狙っていたが、幸村に捕まり、それをきっかけに家臣となったという。以後、真田親子の配下として戦闘で功績を挙げた、と言われる。最期「大坂の陣以前に死んでいた」とも言われ、また「大坂の陣で討ち死にした」とも言われる。

【筧十蔵】

『真田三代記』では筧十兵衛の名前で登場する。火縄銃の名手。十勇士の筧十蔵のモデルは、筧十兵衛、又は筧金六郎、あるいはその息子と言われる。また、「創作された架空の人物」という説もある。

生没年、出自など天正元年(1573年)? - 慶長20年(1615年)?)姓名は筧十兵衛とも伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍豪胆な性格だったといわれる。針などを使いこなし、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめた、と伝えられる。最期夏の陣で戦死したとされるが、実態は不明。「九州落ちに同行した」と、兵庫の一部地域の筧家には伝わっている。十蔵の父父の筧虎秀は真田昌幸の家臣であったが、当初は足軽でしかなかった。丸太を使って敵軍の囲みを破った功績により大将に出世し、家来を持てるようになったと言われている。子孫真田側についた筧家は九州から兵庫に多く、家康側についた筧家は静岡や関東全域に多いとされている。

【海野六郎】

『真田三代記』には、海野六郎兵衛利一として登場する。十勇士の海野六郎のモデルとしては、他に海野小平太の名も上がっている。

生没年、出自など元亀2年(1571年)? - 慶長20年(1615年)?)海野輝幸の三男と伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍、最期大坂夏の陣では、幸村の命で敵軍にニセ情報を流し、大いにかく乱したと言う。夏の陣で戦死したという説があるが、実態は不明。真田氏との関係真田氏は東信濃小県郡の海野氏の出身とされるが、海野氏直系が絶えた後、城代や家老級の重臣に海野姓を与えている。従って、海野姓であっても、真田一族に連なっている保証は無い。幸村の家臣になった経緯次のエピソードが伝わっている。海野六郎は出雲阿国の歌舞伎踊りが好きで、ある日、それを見に行った。そして六郎が一緒に踊ったところ、その演出に幸村が感激したため、影武者役に任命したという。

【根津甚八】

モデルについては、禰津小六、浅井井頼などがある。

生没年、出自など永禄12年(1569年)? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))通称、小六。諱は貞盛。実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。真田幸村の家臣。活躍、最期水軍の指揮に長けた人物とされている。大坂の陣で真田幸村の影武者として討ち取られる。真田氏との関係真田家は海野氏の出自を名乗っている。根津甚八の出自については、その海野氏と同じ滋野三家の一つである禰津氏(根津氏)の禰津政直の子とする説や、浅井長政の子を自称する浅井井頼とする説などがある。禰津氏は諏訪神党に属する神氏であることから、「根津神八」とする事もある。

【望月六郎】

爆弾製造に長けていた。『真田三代記』では、望月卯左衛門幸忠として登場する。モデルは望月宇右衛門、望月甚左衛門、望月卯兵衛、望月卯左衛門幸忠など、諸説あり。

生没年、出自など元亀3年(1572年)? - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍、最期大坂の陣では、幸村の嫡男・大助配下となった。敵を情報でかく乱させ、さらに武力を行使して徳川方を尼ヶ崎に敗走させた、と伝えられている。同年、大助に殉死したと言う説もあるが、実態は不明。真田氏との関係真田氏は、海野氏(東信濃の名族、滋野氏嫡流を名乗る)の出自。一方、望月氏も滋野氏から分かれており、佐久郡望月を拠点とした一族である。このことから、望月六郎も同族出身の可能性がある。
 

NO- 9「第一次上田城の決戦」

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時39分45秒
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  ●籠城の背景と真田家の立場

上州真田家は天正10年(1582)武田家滅亡後、家名存続のために 織田信長~北条氏直と主を変えて後、徳川家康に仕えていました。同六月、信長が本能寺にて死後、徳川家康は旧武田領の甲斐(山梨県)へと侵攻し、相模(神奈川県)の北条氏直と対立した。信濃は上杉・北条・徳川が三つ巴で争う場となります。

徳川家康は本能寺の変後、勢力拡大と三方ヶ原合戦で失った多くの家臣の穴を埋めるために武田旧家臣団の吸収に努めていました。故に北信濃の要衝を押さえる真田家に好意的だったのです。

真田家当主安房守昌幸は北条家に臣従しましたが、やがて北条家との関係は立ち行かず、この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土とすることが決まった。

甲斐・南信濃での徳川家康の経略が優れていたので、昌幸は同10月、大久保忠世・依田信蕃を仲介に徳川家に臣従します。

徳川家康に帰属した真田昌幸は、この講和条件により、上野(群馬県)の吾妻・沼田の明け渡しが迫られたが、真田昌幸は代替地を貰っていない事を理由に吾妻・沼田の明け渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。

昌幸は織田信長の信濃仕置き以来、本領である小県を支配の中心として上田城築城を家康に打診します。当時、家康は上杉景勝の北信濃侵攻を阻止するため甲府まで出陣していました。昌幸の上田城築城の申し出は家康にとって信濃防衛に好都合であり、周辺城主達にも築城を援助するよう取り計らいます。

代替地を与えられない徳川家康は、真田昌幸の沼田領土問題を黙殺していたが、「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立した事を切っ掛けに、後方の安全を確保する必要に迫られ、北条氏直との同盟を強化する必要が出てきた。

家康は北条家に和の代償として、当主:昌幸に無断で真田家の沼田城を北条家に割譲する約を結んでしまいます。昌幸はこの家康の処遇に激怒。

徳川家康は、室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じたが、真田昌幸は室賀正武の家臣を味方にしていたので、室賀正武の暗殺計画は全て真田昌幸に筒抜けになっており、室賀正武は真田昌幸に処刑されてしまう。

そこで、徳川家康は天正13年(1585年)8月、真田討伐を発動したのであった。

●第一次上田城の戦い(神川の戦い)

天正13年(1585年)8月、徳川家康は真田討伐に鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら7000の軍勢を派遣した。徳川家康は出陣していないが、相手は弱小の真田だったので、徳川軍の士気は高かったという。

このとき、徳川家康は真田昌幸に信濃方面の面目を潰された事に激怒していたのか、「根切り(皆殺し)肝心」と真田家の殲滅を命じてる。

対する真田昌幸は、越後の上杉景勝に援軍を求めた。真田昌幸は上杉景勝から北条氏直へ寝返った過去があるため、なかなか帰属を許して貰えなかったが、第1次上田城の戦い(神川の戦い)の直前になってようやく帰属が認められた。

そして、真田昌幸が次男・弁丸(真田幸村)を人質に出すこと、上杉景勝は援軍に応じ、上杉軍は上田城の北東に延びる曲尾筋に布陣し、真田昌幸の後詰めとなった。

さて、天正13年(1585年)閏8月2日、徳川軍の鳥居元忠ら7000が信濃国小県郡真田郷に着陣し、上田城へと攻め寄せた。

一方、真田昌幸の勢力は、住民を含めて2000で、真田昌幸が上田城に入り、上田城の北東にある戸石城に嫡男・真田信幸を入れ、上田城の南東にある矢沢城には、矢沢頼康と上杉軍を入れて守りを固めた。

徳川軍は上田城を包囲すると、上田城から「高砂」が聞こえてきたので、徳川軍は怒って鉄砲を撃って攻撃した。

このとき、上田城に籠もる真田昌幸は、悠長に長岡寺の坊主と碁を打っていた。業を煮やした家臣・根津長右衛門が「この碁は勝ちです」と叫んで、碁盤をひっくり返すと、真田昌幸はようやく戦の準備を始めたという。

碁を打っている間に徳川軍を十分に引きつけた真田昌幸は、突然、反撃に転じた。上田城の二の丸まで攻め込んでいた徳川軍は、突然の反撃に驚き、撤退を開始したが、真田昌幸が芦の簀を千鳥掛けに張った物を仕掛けていたので、徳川軍は足を取られて倒れ、大勢が折り重なって倒れて圧死した。

大久保忠世らが反撃に転じようとしたところに、戸石城と矢沢城から真田軍が打って出たので徳川軍は大混乱した。

徳川軍は神川まで撤退したが、神川が増水していたので、真田軍の追撃を受け、増水した神川で大勢が溺れ死んだ。

一説によると、真田昌幸が神川の水を堰き止めておき、時機を見て堰を切って神川を増水させたのだという。

この戦いは真田昌幸の圧勝に終わり、真田軍の被害は40人に対して、徳川軍の被害は1300人だったと伝わる。

●上杉景勝の援助

昌幸は今度は上杉家海津城代:須田満親を介して信濃国境で対立していた上杉景勝に次男:弁丸(後の信繁=幸村)を人質として差しだし和を乞い上杉の援軍を要請。景勝はちょうど川中島周辺を固めていたところなので、昌幸の行動(一旦離反した真田だった)には疑念を持ちつつも、真田を味方に付ける事は上杉にも利があったし、北信濃の磐石を見越して臣従を認め援助を約束します。

当時上田城はまだ完成していなかったが、上杉軍の援軍も得て完成を急いだ。また後詰の兵も北信濃には出したと思われる。

8月29日付(合戦の3日前)矢沢三十郎(矢沢頼綱の子)宛て海津城代須田満親書状

「未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 今度御証人(人質)として御幼若の方(信繁)御越し申し痛み入り存じ候。その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候。(信繁から聞くところでは軍支度等、仕方が無い次第と存じます)先日曲尾筋(真田町)へ助勢申し候ひき、重ねて今日人数さし遣わし候 御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候。洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 何様面談を以って申し承るべく候 恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 則ち春府(春日山城)へ申し達し候」

●昌幸、上田城に籠城す

かくして天正十三年(1585)八月二日、 籠城史に名高い、第一次上田合戦(神川合戦)が開始されます。 家康は秀吉と小牧長久手の合戦後に講和を終えると、地方小大名:真田家の離反・独立によって傷つけられた威信を回復するために、鳥居元忠を総大将として平岩親吉、大久保忠世らにおよそ7000~1万の兵を率いさせ 真田領に侵攻させます。

昌幸は是を受けて築城の途中である上田城での籠城を敢行。 徳川軍は上田城東方の国分寺方面に押し寄せました。 主将:昌幸は自ら率いる4~500余を
上田城本丸に、
・城の横曲輪(よこぐるわ)を初め諸所にも兵を配置、
・城の東南の神川(かんがわ)に200の前衛部隊、
・伊勢山(戸石城)には嫡男:信之の800余、籠城方総勢2000余りを配置します。
・上田城下には千鳥掛け(互い違い)に結いあげた柵を設け、
・複雑な並びの町家・山野に約3000の武装農民を配し、紙幟(かみのぼり)を差し連ねさせ伏兵としました。

『武家事記』によれば上田城は南を千曲川(ちくまかわ)、西・北は千曲川の支流:矢出沢川を控え土塁中心の石垣の無い、簡素な平城だったと伝えられています。小田原城は100を超える支城・砦があり、既におびただしい武器・兵糧・弾薬・衣服が集積されていました。

一説には、

真田昌幸と徳川家康が戦った上田合戦は、「上田城籠城戦」として紹介されますが、実情は違います。少なくとも第一次上田合戦については、籠城戦と言うよりも、野戦に近い戦いです。

1600年の”関ヶ原の戦い”の際に発生した第二次上田合戦も、完全な籠城戦ではなく、真田昌幸としては徳川秀忠軍をいかに上田に引きつけて遅延させるかが目的ですし、徳川秀忠としてはいかに味方の損耗を少なくして敵を屈服させるかが目的でしたから、ちょっと他の籠城戦とは様子が異なります。結果としては、両者にらみ合いとなり、何かの拍子に小競り合いが発生しても、大きな戦いには発展しないうちに数日が過ぎてしまい、肝心の本戦は一日で決着が着いてしまうというあっけない幕切れになってしまいました。

神川の戦いでは、家康本人が直接指揮をしていなかったとはいえ、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉、柴田康忠といった徳川譜代の将のほか、信濃の諏訪、保科、下条、知久、遠山、芦田といった中信南信の諸将を従え、圧倒的な兵力で攻めました。通常の籠城への対応なら「城攻め三倍則」に従えば、これは徳川軍が優位に
戦えます。

しかし、真田昌幸はその策略で籠城戦を、一発逆転の可能性がある野戦に変えてしまい、まさに一発逆転させてしまいました。

この”まさか”の神川退却戦では、徳川軍各隊が指揮系統を失ってバラバラになり、我先に川を越えて逃げようとするのみであったところが異質です。たとえば有能な指揮官がいて、川を隔てた河原に鉄砲隊を配備して、川を渡って追撃してくる真田軍に対して迎撃を行えば、追撃の勢いが鈍って時間を稼ぐことができ、あるいは味方の体制が整って反撃の機会が生まれたかもしれません。

当然と言えば当然であるこの迎撃陣地の設置提案に対して、信濃の諸将は言うに及ばず、後に伏見城の玉砕戦を指揮した鳥居元忠も、尾張藩の発展を支えた平岩親吉も、ただ震えるばかりで返事もしない。

大久保彦左衛門の『三河物語』では徳川勢を指して

~ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し~

と評している。徳川諸将への怒りの言葉であり、徳川の旗本が敗北を認めたということになります。

● 神算鬼謀:真田昌幸

徳川勢の先手が城の東南の神川(かんがわ)に差し掛かると200の真田前衛部隊はこれを迎え撃ち、槍を数回あわせると後退し始めます。昌幸自身は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわずに城下の戦況を尻目に家臣と碁を打っていました。真田勢が小勢で抵抗も無いので、徳川勢は一気に城を落とそうと城内になだれ込みます。 城外にいた200の前衛部隊は押し捲られて、横曲輪(よこぐるわ)に後退・集結します。

なおも昌幸は三国志の諸葛亮が街亭の敗戦で司馬仲達を退けた、『空城計』のように碁を打ち、ついには若侍に手鼓で調子を打たせ名高い『高砂の謡』をうたって徳川勢を挑発します。

ここで鳥居元忠が司馬仲達のように退けば戦いは長引いたことでしょうが、あまりに城内に易々と入れたため、勇猛な三河兵は勢いとともに鬨の声を上げて大手門も突破しようとします。 このとき、昌幸は城門上に隠した丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を撃ち掛けました。さらに城内の500の兵と横曲輪(よこぐるわ)に集結した兵を押し出させ、 上田城の町家には折からの強風に乗せて火を放ちました。

山野に伏兵していた武装農民はこの火を合図にいっせいに陣太鼓を鳴らして徳川勢に打ちかかり、真田信之の指揮する800は戸石城より討って出て徳川勢の退路を遮断します。

徳川勢の先手は状況が急転し四方に敵を受け指揮系統が乱れますが、手柄を目指して猛進する後続の兵士達は急に止まれず籠城方の挟撃を受けました。しかも設置してあった千鳥掛けの柵に引っかかり、複雑な町家に退路を見失い、徳川勢は大混乱に陥ります。

城壁にたどり着いた徳川兵士達も鉄砲隊に次々と撃ち落とされます。 甚大な被害を受けて北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信之の突撃を腹背に受けて陣は崩され、 四散した兵は神川で溺死するという被害も出しました。

真田信之書状によると、この戦いでのによると徳川方の死者は1300余、大久保忠教によれば300名余とされています。一方の真田方の死者は40余とされています。
 

NO-10真田討伐「鳥居元忠」天文8(1539)~慶長5(1600)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時34分10秒
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  1539年、松平家家臣・鳥居忠吉のもとに生まれる。忠吉は家康(竹千代)が人質であった時代に、苦しい藩政をやりくりして家康の帰還を待っていた超忠臣である。

【三河武士・鳥居元忠】

元忠は鳥居伊賀守忠吉の三男で、幼名は鶴之助、のち彦右衛門と称した。天文二十(1551)年、元忠十三歳の時に十歳の家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕えて以来数々の合戦で戦功を挙げるが、三方ヶ原の戦いの際に負傷し片足が不自由になる。同年父忠吉の死去により家督を相続、典型的な三河武士として徳川家中に重きをなした。

天正十(1582)年の本能寺の変の際には、甲斐古府中(甲府)で北条氏勝勢を破った功により家康から甲州郡内の地を与えられ、同十八(1590)年、秀吉の小田原征伐では家康に従って出陣し武蔵岩槻城を落とすなど活躍、秀吉からも感状を受けた。家康の関東入国の際には下総矢作四万石の主となっているのだが、ここで彼のエピソードでよく知られている話を一つご紹介する。

武田氏滅亡後、「武田四臣」と呼ばれた重臣馬場信房の娘がさる所に隠れ住んでいるとの情報があり、家康はこれを捕らえるため元忠に命じて捜索させた。元忠は捜索に当たったが、やがて「どこにも見あたりません」と報告し、捜索は打ち切られた。ところが、この情報を先に家康に知らせた者が後に家康と話す機会があり、家康はこの旨を告げたところ、その者は家康の膝近くに進み出てこう言った。「その娘は元忠の家に住み着いて、今は本妻のように振る舞っておりますよ」これを聞いた家康は、「あの彦右衛門という男は、若い頃から何事にも抜かりのない奴じゃわい」と言って高笑いしたという。

【家康との訣別】

さて、家康は上杉景勝征伐へと向かう。六月十六日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以。増田長盛らの見送りを受けて大坂を出陣、伏見へ向かった。同夜に伏見に到着、元忠は自ら杖を突きながら不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったという。翌十七日、家康は伏見城の守備を本丸は元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・家忠へそれぞれ命じ、鉄炮二百挺を預けた。

その際、家康は「四人とも、今回の会津征伐への出陣が叶わず、こうして留守居を務めることを残念に思うではないぞ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なく皆には苦労を掛ける」と言ったところ、元忠はこう返答した。

「私はそうは思いません。会津征伐は重要事、家人一騎一人たりとも多く連れて行かれるべきです。京大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正で事足ります。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦は出来ないでしょう。ということは、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」

この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせた。元忠が家康に仕えた頃、すなわち家康がまだ今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったろうと思われる。主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていった。

やがて元忠は「もう寝られませ」と言って退出しようとしたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じた。小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康が泣いた。

翌六月十八日午前七時頃、家康は元忠ら四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣した。その後の詳細は省くが、元忠の予見した通り三成らは挙兵、真っ先に伏見城がその標的となったのである。

【伏見城の戦い】

宇喜多・毛利ら西軍方は伏見城攻めを協議していたが、増田長盛の「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。またこれを守る元忠以下の四将は、内府(家康)の若い頃から仕込まれた武辺者ばかり。さらに近隣に後詰めの城もなく兵卒に至るまで死にもの狂いで戦うであろうから、容易に城は抜き難い。幸い私は元忠を長年に渡って知っているので、城を明け渡すようまずは申し送ってみては如何であろう」という意見に宇喜多秀家が同調して評議は一決、西軍方は増田家臣山川半平を使者として伏見城へ派遣した。

元忠はこの申し出を一蹴した。彼は答えて曰く「御口上は承った。しかしながら、内府は出陣の際に堅固に守れとの仰せである。内府直々の命令ならばいざ知らず、各々方からの申し出により開城することは出来申さぬ。どうしてもというなら、軍勢を差し向けなされ。この白髪首を引き出物に、城をお渡しできるであろう」

かくして伏見城攻めは決行された。その際、近江の代官岩間兵庫(光春)・深尾清十郎は甲賀衆五、六十人を引き連れて籠城勢に加わることを願い出、また家康の恩に報いようと、宇治の茶商上林(かんばやし)竹庵も共に籠城を願い出た。元忠は竹庵に「その方は町人、討死にしなくとも恥ではあるまい。我々も窮する余り町人まで籠城させたと言われるのも残念である。

早く宇治へ帰られよ」と諭すが、竹庵は聞き入れず「私は内府に受けた恩は大で、今こそ町人にはなっているが、心まで町人ではない。今、当家の危急に臨んで去るのは人の道に外れる。願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならば、この場において腹を切る」と顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は彼らの入城を許したという。

話は少し横道にそれるが、この上林竹庵は彼の言葉に見える通り、元は丹波の武士であった。近江佐々木義賢の後裔と伝えられ、丹波何鹿(いかるが)郡上林に住んだことからこれを姓としたという。名は政重と言い、通称は又市、越前守を称した人物である。彼は元亀二年三河に赴き家康に仕え、土呂郷で百石を与えられて郷吏となった。後、長久手の合戦で首二級を挙げ、家康から感状と槍を賜って岡崎町吏となり、天正十八年に宇治に帰り茶道を志し剃髪して竹庵と号した
という経歴の持ち主である。

七月十五日(『家忠日記』では十八日)、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、四万の大軍で城を包囲した。これに対して元忠は、自らは本丸を守り、二の丸には内藤家長・元忠と佐野綱正を、三の丸には松平家忠・近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀(甲賀とも)作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配し、徹底抗戦の構えを取った。

十九日から西軍の猛攻が始まった。二十一日には外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されたが、元忠らは頑強に抗戦して十日余り持ちこたえた。しかし三十日、攻囲陣の中にいて甲賀衆を抱えていた近江水口城主長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と申し送らせた。

藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じ、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得た。そして、これがその通り実行されたのである。

八月一日未明、伏見城の一角に火の手が上がり、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊し、西軍を引き入れた。もはやどうにもならない。松平家忠・近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の元忠は奮戦して三度敵を追い返したが、もう彼の周りにはわずか十余人しか残ってはいなかった。そして、遂に元忠の最期の時が来た。

「元忠本丸に有て門を開かせ、門際より七八間しさりて、士卒三百余白刃を抜そろへ、しづまりかへって待かけたり。寄手しばし攻入兼てためらひけるに、元忠大音あげ、『一人にても敵を討て死するぞ、士の志なれ。吾三方ヶ原にて足に手負ひ行歩心にまかさざれども、逃んとせばこそ足も頼まめ。いざ最後の軍せよ』と下知する声を聞て、一同に切って出面もふらず戦ひて、一人も残らず討死しけり。

元忠戦ひ疲れて玄関に腰をかけ、息つぐ処に雑賀孫市重次、死骸を踏越てすゝみよれば、『吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ』とて物具脱で腹を切たりしかば、雑賀其首を取りたり。本丸に二つの門ありけるを、大手の外はみな堅く鎖してければ、一人も逃ちる者なく討死しけるとぞ」(『常山紀談』巻十四の七 第三百十六話 「伏見落城の事附鳥居忠政、雑賀孫市を饗れし事」より抜粋)

元忠享年六十二歳。首は大坂城京橋口に晒されたという。この時の彼らの血潮に染まった床板が、後に京都市内の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今もなお「血天井」として現存している。
 

NO-11第一次上田城の合戦(神川の戦い)の後は

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時23分18秒
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  第一次上田城の合戦(神川の戦い)で大敗した徳川軍の鳥居元忠は、真田側の丸子三左衛門(または丸子平内)が守る丸子城(長野県上田市上丸子)を攻めたが、成果はあがらず、天正13年(1585年)閏8月28日に信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)へと引き上げた。

すると、真田昌幸は上杉景勝からの援軍を利用して、上田城(長野県上田市)の改修を行った。上田城は上杉景勝にとっても、徳川家康の押さえとなる要所だったので、上杉景勝は上田城の改修を大いに支援した。

こうして、真田昌幸は、徳川家康の力を利用して手に入れた上田城を、上杉景勝の力を利用して、さらなる要害にしたのであった。

これに対して徳川家康は、北条氏直に沼田城への侵攻を要請した。北条氏直は下野国(栃木県)へと侵攻して宇都宮国綱と争っていたので、天正13年(1585年)9月、北条氏邦・北条氏照を総大将に、上野国東部にある真田昌幸の沼田城を攻めさせた。

越後の上杉景勝も上田城の真田昌幸も沼田城に援軍を送れなかったが、沼田城の城主・矢沢頼綱(矢沢綱頼)は僅かな兵で沼田城を守り抜き、北条氏邦・北条氏照を退けた。

さて、小諸城(長野県小諸市)の徳川軍は上田城の改修を尻目に、井伊直政の援軍を受け、虎視眈々と上田城を攻める機会を狙っていたが、徳川家康の重臣中の重臣・石川数正の出奔という事件が起こり、撤退を余儀なくされることになるのであった。

●真田昌幸が豊臣秀吉に帰属する一方、中央政権では、織田信長の後継者としての地位を確立した豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、天正13年(1585年)7月に関白に就任し、豊臣政権を樹立していた。

そして、天下統一を目指す豊臣秀吉は、四国征伐を開始する一方で、信州・信濃・甲斐方面への調略を開始しており、徳川家康に属していた信濃(長野県)の豪族・小笠原貞慶や木曾義昌を寝返らせていた。

詳しい経緯は不明だが、第1次上田城の合戦(神川の戦い)で徳川軍を撃退した真田昌幸は天正13年(1585年)9月に豊臣秀吉への帰属を申し出で、天正13年(1585年)10月に豊臣秀吉から帰属が許された。

江戸時代の家伝「藩翰譜」によると、このとき、真田昌幸と豊臣秀吉の間を取り次いだのが、大谷吉継である(注釈:後に真田幸村は、大谷吉継の娘を正室に迎える)。

●石川数正の出奔

さて、徳川軍の鳥居元忠は、第1次上田城の合戦(神川の戦い)に失敗した後、井伊直政・松平康重5000の援軍を得て軍を立て直し、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)で、虎視眈々と上田城攻めの機会をうかがっていた。

しかし、天正13年(1585年)11月に入ると徳川家に重大な問題が発生し、徳川軍の状況が一変する。なんと、徳川家康の右腕である石川数正が、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。石川数正は徳川家康が今川義元の人質だった時代からの家臣で、徳川家の重臣中の重臣だった。

小牧・長久手の戦い以降、徳川家康と豊臣秀吉の関係が悪化すると、徳川家の非戦派の重臣・石川数正が豊臣秀吉との関係修復に当っていたのだが、その石川数正が天正13年(1585年)11月13日に突然、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。(注釈:石川数正が徳川家を出奔した理由は不明だが、豊臣秀吉の調略に応じて出奔したとされる。)

徳川家の軍事機密を知り尽くしている石川数正が出奔したことにより、徳川家の軍事機密は全て豊臣秀吉の知るところになり、徳川家は大混乱に陥った。このため、徳川家康は天正13年(1585年)11月、信濃国(長野県)で真田昌幸と対峙していた徳川軍の鳥居元忠らに撤退を命じたのである。

このとき、信濃国(長野県)では、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方がが上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていた。

武田信玄の次男・海野信親は既に死んでいたが、次男・海野信親の子・武田信道(顕了道快)が生き延びており、信濃(長野県)で隠れ住んでいたので、真田昌幸がこれを利用して噂を流したと言われている。(注釈:武田信玄の次男・海野信親は目が悪かったので出家し、武田信玄の家督は四男・武田勝頼が継いだ。次男・海野信親は武田家滅亡の時に自刃して死んだ。)

さて、信濃国に駐留する鳥居元忠らは、徳川家康からの撤兵命令が出たと言えど、真田昌幸の押さえを残しておかなければならなかったが、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方がが上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていたため、残留を名乗り出る武将は居なかった。

そこで、徳川軍の大久保忠世は、弟・大久保忠教に真田昌幸の押さえを命じると、弟・大久保忠教は「私は所領が欲しくて残るのではない。主君のために残りましょう」と引き受けた。

喜んだ大久保忠世は、徳川家康に属する信濃国の豪族に、「それぞれの居城に籠もって大久保忠教の指示に従え」と命令を出すと、弟・大久保忠教を真田昌幸の押さえとして、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)に残し、撤退を開始した。(注釈:鳥居元忠と菅沼定利も他の城に入って、真田昌幸の押さえとして信濃国に残った。)

このとき、援軍として信濃国(長野県)に来た徳川軍の井伊直政・松平康重の両将は、未だに一戦もしていない事を無念に思い、「敵が追撃してきたら迎え撃つ」と言い、殿(軍の最後尾)を務めた。

さて、真田昌幸の元に、徳川軍が撤退を開始したという知らせが届くと、家臣は「井伊直政・松平康重が4~500騎で、本陣から離れて退いています。追撃すれば、漏らさず討ち取ることができるでしょう」と意見した。

しかし、真田昌幸は、重臣・石川数正が徳川家を出奔したという徳川家の事情を知らなかったので、「若いからと言って井伊直政を侮ってはいけない。井伊直政は確かに小勢ではあるが、軍の退き方を見るに、追撃してくれば、一戦しようと企んでいる。決して敵の思惑に乗ってはいけない」と言い、
追撃を禁止した。

このため、井伊直政・松平康重の両将は父・真田昌幸の追撃を受けること無く、易々と信濃国から撤退することが出来た。

こうして、小笠原貞慶・木曾義昌・真田昌幸らが豊臣秀吉に属したので、信濃国の大半は豊臣秀吉の支配下になったが、井伊直政らが真田昌幸の追撃を受けずに引き上げることが出来たので、徳川家康は信濃国の佐久郡・諏訪郡・伊那郡の3郡を確保した。

一方、真田昌幸は石川数正の出奔により、徳川家康の上田城攻めという危機を逃れたのであった。

●徳川家康の軍事再々編

さて、徳川家を知り尽くしている重臣・石川数正の出奔により、徳川家の軍事機密が全て豊臣秀吉に漏洩したため、徳川家康は軍事再編を迫られた。

そこで、徳川家康は、武田家の旧臣に武田家の軍事資料などを提出させ、武田家の軍事編成を元にして新たな軍事編成を行った。こうして、出来た新たな軍事編成は、後の江戸幕府の基礎となる。つまり、江戸幕府の基礎は武田家の軍事編成なのである。

こうして、徳川家康は新たな軍事編成で徳川家の混乱を収め、三河一揆を平定すると、豊臣秀吉に対する備えを増強したのである。
 

NO-12「石川数正」(1533~1593)、出奔事件の謎

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時13分57秒
返信・引用 編集済
  家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の石川義基が石川源氏・石川氏の祖となったという。数正の家は三河に下った石川氏の与党である。石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたる。

天文2年(1533年)、石川康正の子として三河で生まれる。徳川家康が松平竹千代の幼名を名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて松平氏(徳川氏)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時、今川氏の人質であった松平信康を取り戻した。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で戦ったときには、先鋒を務めて活躍した。

永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河で一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。このため戦後、家康から家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになった。家康の長男・松平信康が元服すると、その後見人となった。永禄12年(1569年)には家康の命令で、叔父の石川家成に代わって西三河の旗頭となった。

また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。

天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加するが、このとき家康に秀吉との和睦を提言したともされる。

徳川家康の人質時代から近侍として仕える。本多忠勝や榊原康政らよりは一つ上の世代で家康よりも年上。桶狭間の戦い以後は今川家から独立した家康の下で酒井忠次と共に三河時代の家康を支え、東三河の忠次と併せて徳川家の双璧をなした。

天正十三年(1585年)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、小牧長久手の戦い後に一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。これにより徳川家の軍事機密が秀吉に筒抜けになってしまったため、家康は軍制を改めるハメになる。

【戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・】

なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康の幼少の頃からの補佐役、あの人質時代にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。

その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・。

その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。

そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻ったわけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。

そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んだのです。

もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。

後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。

しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。

その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。

その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。そして、元亀元年(1570年)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。

この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。

ところが・・・です。

天正七年(1579年)に事件は起こります。その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。

通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています。

もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。

が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページで書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。

『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。

あれだけ手塩にかけた若君ですよ。岡崎城の城代家老ですよ。
この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考え難いです。

おそらくは、この時の数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?

そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。

しかし、それでも数正は、天正十年(1582年)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越えの時には、家康を守って行動をともにしています。

ただ、その直後です。

信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。

ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。

もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。

この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。

かくして、天正十三年(1585年)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。

ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。

彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。

あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)の名護屋まで、兵を率いて赴いています。

ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからなのかも・・・

なんせ、徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。

結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。

北条氏が滅び、家康が関東に写されたのちに信州松本10万石に移封された。 現在の国宝松本城の天守やその城下町を整備したのは数正とその息子康長である。

1593年に死去。享年61。

武功も上げているのだが、武闘派だらけの三河軍団で外交を担当できる貴重な人材であるため、割と文官のイメージが強い。「家康の懐刀」と評されることも。
 

NO-13「第二次上田合戦」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)14時01分57秒
返信・引用 編集済
  昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。

昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されている。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信之と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものだった。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、兵力差が圧倒的だったこと、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこと、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読みやすく御しやすい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し。乗ればなお良しの二段構え。狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向ける。徳川首脳陣には真田一族である信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせることによって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。

信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げる。これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。

このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、一旦全軍を小諸へと撤収させた。しかしその直後の九月八日になって家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった[2]。驚愕した秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。

また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで秀忠軍は美濃で行われた関ヶ原本戦に遅参したとされるが、実際は秀忠軍の当初の任務は中山道制圧であり、本戦の遅参は転戦を命じる使者が利根川の増水で到着が遅れたことに所以する。ゆえに「昌幸が秀忠を遅参させた」というのは正確ではない。

関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信之とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
 

大阪冬の陣・夏の陣(総集編・・・目録紹介)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)13時56分48秒
返信・引用 編集済
  「関ヶ原の戦い」が終われば、「大阪冬の陣・夏の陣」が自然の流れでしょう。

  ******  上から順に読み易くしてますよ♪  *****

・関ヶ原の戦い が終わって・・・さて、その後は・・・
・大阪冬の陣のきっかけ  方広寺鐘銘事件
・大阪冬の陣(1614年)
・大阪冬の陣における「真田丸」とは・・・NHK大河ドラマ化
・天下無双の大阪城
・大阪夏の陣とは
・大阪夏の陣の主戦場【道明寺】  慶長20年(1615年)5月6日
・豊臣軍の武将「後藤基次」とは
・豊臣軍の武将「毛利勝永」とは
・幕府軍の先鋒大将「水野勝成」とは
・幕府軍の総大将「松平忠輝」とは
・幕府軍の後見役「伊達政宗」とは
・豊臣軍の武将「木村重成」とは、智・仁・勇の三徳を兼ね備えた男
・豊臣軍の武将「大野治房」とは
・【追加】大阪夏の陣(詳細編)天王寺・岡山での最終決戦

《道明寺の戦い・午前》(上)、《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》(下)
 

【関ヶ原の戦い】が終わって・・・さてその後は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)13時36分39秒
返信・引用 編集済
  家康は関ヶ原の戦いで勝ち、幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手には、いろいろ難しい問題が残されていました。

それは豊臣氏をどうするかということです。

関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼は、わずか65万石(9万7500トンほどの米がとれる領地)の大名に落とされましたが、攻めても中々落ないと言われた大阪城におり、また豊臣氏に心を寄せる大名も少なくなかったのです。

豊臣氏では、秀吉の子秀頼が大きくなれば、家康も政権を返すだろうと考えていましたが、その臨みも無くなり非常に徳川氏を恨むようになりました。

こうして、豊臣氏と徳川氏の仲がだんだん悪くなってきました。

家康は、全国の大名から幕府の命令に叛かないと言う誓いの書きつけを取ったりして万一の場合に備えました。家康は、もう70才になっていました。秀頼は20才を越えて中々優れた若者になってきました。家康は、もし、自分が先に死んだら徳川の天下もどうなるかわからないと心配しました。そして、どうにかして自分の生きている間に豊臣氏を滅しておかなければならないと考えるようになりました。

こうしておこったのが方広寺の鐘銘事件です。

家康は秀頼に勧めて、大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させましたがその鐘に貼り付けた文字に「国家安康」とあったのを家康の名な二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて豊臣氏を攻めました。

豊臣氏では、いろいろ弁解しましたが家康は聞き入れず、とうとう戦いが初まりました。

豊臣氏は、秀吉の恩を受けた大名に助けを求めましたが、多くの大名は幕府のカを恐れて、豊臣氏に味方をしませんでした。けれど真田幸村などの優れた武将や浪人が、たくさん大阪城に入り、その中には キリスト教の信者も少なくありませんでした。

こうして、1614年(慶長一九年)に大阪冬の陣が初まりました。

  
 

大阪冬の陣のきっかけ

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)10時20分4秒
返信・引用 編集済
  関ヶ原の戦いから14年。徳川家康はついに慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに豊臣家を挑発し、同年10月大阪城に向けて兵を挙げました。これが、大阪冬の陣の始まりです。

それでは、大阪冬の陣についてちょっと詳しく見てみましょう。

1600年の関ヶ原の戦いは、石田三成VS徳川家康の争いであり、徳川軍にも豊臣家に恩のある大名が多くおりました。つまり、この時点では、豊臣VS徳川という形式には家康もできなかった訳です。慶長8年(1603)に、家康は征夷大将軍として任命され江戸に幕府を開きますが、それでも豊臣秀吉の子、秀頼は家康に擦り寄ってくる様子もみせない。家康が亡くなった後は、政権を秀頼に返すだろうと楽観ししていたともいわれます。その証拠に、家康の孫娘、千姫も秀頼にとついでいますし・・・。

しかし、徳川家康は、将軍の座をわずか2年で退き、子の秀忠にその椅子を譲ってしまう!これは、「今後政権は徳川家によって世襲されていきますよ~、豊臣方には渡しませんよ~」という家康からのメッセージでもありました。

将軍の座を降りたとはいえ、幕府の実権は家康に握られていました。江戸には秀忠、自身は駿河に移り住み軍事、外交、文化、経済などは実質、家康が判断を下します。

慶長11年(1611)、70歳となった家康は、豊臣秀頼との面会を求めます。秀頼が拒んだら、それをきっかけに豊臣家を潰す作戦です。豊臣家の家臣、加藤清正らはそれを理解しており、上洛を拒む秀頼の母、淀殿を説得し二条城にて家康と秀頼との面会を実現させます。

豊臣秀頼というと、なんだか弱々しいイメージを持っている方も多いと思いますが、家康はこの時、家臣の本多正信に「秀頼は、なかなかの人物に成長した。」と語ったそうです。

「御所柿は独り熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼」

御所柿とは家康のことであり、家康が死ねば、後の政権は秀頼が拾うだろうといった意味の当時の落書です。

70歳という自分の年齢と立派に成長した豊臣秀吉の息子、秀頼。さすがの家康にも焦りが見えてきます。

この頃、家康には幸いなことに加藤清正、浅野長政、池田輝政らの豊臣家の重臣たちが相次いで他界していきます。

そして、慶長19年(1614)の《方広寺鐘銘事件》です。これは、豊臣家が再建を進めていた方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたことに家康がいちゃもんをつけたことがきっかけとなります。国家安康は家康の字を切り離し、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願う下心が見えると難癖をつけ、豊臣家を挑発するのです。

これに、豊臣家も弁明をしますが、家康は聞く耳もたず・・・。逆に「淀殿を人質としてよこせなど」と豊臣方が聞き入れられない無理難題をつきつけ話をこじらせます。この嫌がらせに、秀頼母子は、堪忍袋の緒が切れたとばかりに浪人たちを大阪城に集め軍備を整えるのでした。

「豊臣方が挙兵した!」

この知らせに73歳の家康は、ただちに諸大名に出動命令をだし、大阪冬の陣が始まります。

大阪冬の陣のきっかけは、方広寺の鐘銘の言いがかりから始まり、豊臣方が軍勢を集めたことにより開戦するのでした。

この争いでは、真田幸村らの活躍により、大阪城に籠る豊臣方は善戦します。攻めきれない家康は和議を持ち込むのですが、この和睦の条件も家康によるしたたかな計算でありました・・・。


 

大阪冬の陣(1614)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月23日(木)20時42分46秒
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  関が原の合戦後、ほぼ天下を手中にした家康はついに豊臣家の滅亡を図る。
ほぼ全国の大名を動員し、11月に大阪城を包囲した。
徳川方20万、豊臣方10万。

真田幸村は豊臣家に招かれ入城。金200枚、銀30貫を贈られている。
しかし招かれたとはいえ、大阪城内での待遇はけっして良いものではなかった。
軍議の席での幸村の提案を豊臣の上層部はなかなか受け入れようとはしなかった。
城の外に出て野戦で勝負しようという幸村の提案もはねつけられている。
また、真田丸にて活躍をするほど幸村の立場は悪くなってゆく。

このとき幸村は 「奥意図り難し」と評されているのである。これは兄の信之や叔父の信尹など真田一族の多くが徳川方についていたことと豊臣家臣団がいわば外様の家臣である幸村の活躍により自らの存在価値の低下をおそれたことにもあろう。城の外に真田丸を築いたことでさえ、敵と内通するためであるという噂まで立ち始めた。

幸村は姉夫婦に宛てて、「よろず気遣いのみにて御座候」 =「万事、気遣いばかりで過ごしています」との手紙を書いている。幸村は真田丸で孤軍奮闘することとなる。

真田丸での戦法

真田丸とは、大阪城の外に幸村が築いた出城である。直径およそ200メートルの半円形をなし、円の外側には空掘と土塀、そして三重の柵が設けられていた。物見台として井楼を設け、さらに七つの櫓が守りを固める。堀の内側は武者走りとよばれる幅2メートルの通路で2段に分けられ、上下の銃眼から外の敵を狙う。

難攻不落といわれた大阪城も南側だけは敵の侵入を防ぐ川も水堀もない弱点だった。そこに幸村は真田丸をつくり、純粋に真田の兵で固め、戦いの最前線に身をさらしたのである。真田丸は敵の動きをつかみやすい反面、突出していて攻めやすい場所でも あった。そこに敵を集中させて、集中して出てきたところを引きつけて叩くという戦法をとったのである。

たとえば、真田丸の前方にある篠山に兵を送り、徳川・前田の軍勢に鉄砲を撃ちかける。前田勢が篠山に攻め上ると、真田の部隊はすでにそこにはいない。すると目の前の真田丸からどっと笑い声が沸き上がる。「雉子(きじ)撃ちにでも来られたか、わはは」と。怒った相手方は我先にと堀に飛び込み一斉射撃の的となり、退くこともできず総崩れとなり、死者300人、負傷者は数え切れぬほどの大敗を喫している。冬の陣の徳川方の死者のうち、8割は真田丸の攻防で討たれたといわれる。

幸村は、功名を争う徳川方の武将の心理を読み、一隊が出てくれば他の部隊も出てくると分かっていた。我先にと一度に集中して出てきたところを、身動きができないところまでひきつけて一斉射撃を浴びせかけるという作戦をとっている。

寝返りを拒否

徳川は大阪城での幸村の立場を知り、寝返りを促している。味方になれば10万石を与えるという条件から、さらに信濃一国を与えるとまで拡大されてゆく。しかし幸村はこの誘いに応じようとはしなかった。

なぜだろうか?

騙されるであろうことが分かっていたからだろうか。それもあるかもしれない。しかし、決定的なのは、幸村は立身出世や世俗的な欲望のために豊臣方についたのではないからであろう。父昌幸が徳川を二度にわたって破っていながら、しかし倒すことができず、最後は家康により九度山に幽閉され無念の死を遂げた。その家康に一矢報いたいという気持ちからであろう。

冬の陣は徳川軍の大砲が大阪城の天守閣に命中したことを契機に和睦にいたる。侍女二人が即死し、淀殿(秀頼の母)は秀頼を説得し、和睦がなされた。このとき幸村は、和睦直後の気の緩みをついて家康を暗殺しようという計画を申し出ている。 しかし、この計画も受け入れられず、幸村は「豊臣家も二代にして滅びん」とつぶやいたという。
 

大阪冬の陣における「真田丸」とは・・・NHK大河ドラマ化

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月23日(木)20時36分59秒
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  ◆真田丸(さなだまる)とは

1614年、徳川家康が大阪城を攻めた「大坂冬の陣」の際、豊臣方の武将・真田信繁(幸村)が大阪城の平野口に築いた出城の名称。

東西約180メートルの半円形で、土塁の高さは約9メートル、外周の壕の深さは6~8メートル。主部の他に西側にも柵で囲われた土塁(二の丸)があったとされる。大阪城の弱点である城南に造られ、同年12月4日の真田丸の戦いなどにおいて、防御・攻撃に多大な戦果を挙げた。一説には、徳川方の死者のうち8割は真田丸の攻防によるものとされている。同年12月20日に両軍の和平が成立し、その条件の一つとして真田丸は取り壊された。

ー背景ー

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した信濃国上田城(長野県上田市)における上田合戦(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

12月4日早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。跡地と考えられる場所には、元々あった三光神社が建立されている。

◆真田幸村(1567? ~ 1615)とは

本名は真田信繁。幼名は弁丸、通称:源次郎。真田昌幸の次男である。(兄弟は兄・信之、弟の昌親、信勝がいたといわれる) よく知られる幸村の名は江戸時代以降、講談などで広まったもので、信繁の生前の頃の資料には幸村の名で書かれたものは一通も無いのだが、時代が下り幸村の名の方が知られる頃になると幕府編纂資料や兄・信之の子孫が治める松代藩の正史にまで「幸村」が採用されるようになる。

真田家は元は武田家に帰属する国衆であったが武田家が織田信長に滅ぼされた後は織田家に恭順し、織田信長が本能寺の変にて横死し甲信地方が勢力の空白地帯と化した後は上杉家に帰属し、信繁は上杉の人質として置かれる事となったがその後独立大名として自立し、その後は豊臣家に服属して豊臣家への人質として大阪に移り置かれ、この頃に秀吉家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎え従五位下左衛門佐に叙任される。(関が原以前の信繁の動向にはあまり目立ったものは無い働き盛りの時代に妻子連れてのニート状態だった。

関が原の合戦では徳川方の武将(本多忠勝)の娘(小松殿)を嫁に貰っていた兄・信之と袂を分かち、父とともに豊臣側に付き、居城・上田城にて徳川秀忠率いる3万8千の主力を釘付けにし関が原の戦いに遅参させる結果を生み出す。

結果的には徳川側の勝利となり昌幸と信繁は敗軍の将となり切腹または斬首となってもおかしくなかったが、徳川方に付いた兄・信之と本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流されるにとどまったが、徳川と豊臣の対立が抜き差しならなくなった頃、生命を救われた恩を仇で返し父・昌幸の旧臣に参加を呼びながら長男・大介(真田幸昌)と共に九度山を脱出し大阪城へ入る。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では積極策を主張し諸将にも賛成されたが、軍権を持つ大野治長らに反対され受け入れられず、篭城決定後は大阪城の唯一の弱点といわれた三の丸南側に「真田丸」と呼ばれる出城をつくり、越前松平や加賀前田を撃退し全国諸将に真田信繁の名を知らしめた・・・・・・が、大阪冬の陣は講和成立後に真っ先に破却される事となる。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では後藤基次隊を打ち破った伊達政宗隊を撃破・後退させる戦果も挙げたが味方武将が相次ぎ戦死・討ち死にしていき疲労の色も濃くなる中、家康本陣めがけての大突撃戦を敢行して本陣に肉薄し家康は武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目の本陣馬印を倒され、自害を二度覚悟したほどだったが軍勢に勝る徳川勢に追い詰められ四天王寺近くの安井神社(大阪市天王寺区逢阪1-3-24)の境内で討ち取られた。享年49。

信繁の子孫は信繁と共に九度山から大阪城に入り、豊臣秀頼らと共に自害した大介幸昌の他、片倉重長(2代目小十郎)に保護され、伊達政宗が実在しない真田家の武将の子と偽証までして保護した仙台藩片倉家家臣片倉守信、外祖父豊臣秀次の旧姓である三好姓を称した出羽国亀田藩士三好幸信、九度山で生まれ父信繁・兄幸信の死後に讃岐に脱出し讃岐国弘城(細川屋敷)主の細川(石田)民部大輔国弘の養子となったと言われる石田之親らがいたと言われ、その中で次男片倉守信の子・辰信が将軍家により真田の名を名乗る事を許されて復姓し「仙台真田家」として信繁系の真田の名を現代まで存続させている。

(余禄:仙台真田家の家督は途中で伊達家一族大條氏が養子に入っており、また兄信之の本家の方も伊予宇和島伊達家から養子を入れて家督を継がせるといった具合に両方の真田家とも伊達の血が入っている。)
 

天下無双の大阪城

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月22日(水)00時29分19秒
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  1583年、天下人秀吉は大阪城の築城に取り掛かり、城全体で400ヘクタールという前代未聞の城を築き上げました。何万の兵が押し寄せようとも落ちることは無いと言わしめたその城は、誰もが「一度はここに籠って戦いたい」と野望を抱かせるに十分な城だったことでしょう。

秀吉亡き後、豊臣秀頼には太閤が残した莫大な財産とこの大阪城が手中に入りました。その後、豊臣の天下は徐々に徳川家に傾きかけ、それを不満とする大阪方は戦火の火種をくすぶりだし始めました。

このとき、秀頼にこの不満を抑える器量か、もしくはこの大阪城がなかったら豊臣家は存続できたかもしれません。財力があり落ちることのない城にいる人々にはどんな相手にも負けることはないという錯覚にとらわれ、1614年ついに大阪冬の陣の火蓋が切られてしまいました。

一説には太閤崩御の際、伊達政宗が秀頼を大阪から離し、徳川家康のもとで育てるようにと進言していたということですが、事実とすればこれらを見越してのことだったのでしょう。
 

大阪夏の陣 とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時54分53秒
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  大阪冬の陣では、真田幸村らの活躍により豊臣方が善戦します。徳川家康は、戦いが長期に渡るのは得策ではないと判断し、和議を持ちかけるのですが、豊臣方としては、断固戦うべきか?和議に応じるか?なかなか答えがでない。

しかし、そこに徳川家康からの揺さぶりがかかります。城内へのトンネルを掘ったり、連日に渡り大砲を打ち込んだり・・・。これらの揺さぶりは秀頼の母、淀殿を震え上がらせ、ついに和議に応じることになるのです。

家康の出した講和条件は、城の外堀を埋めること。そのかわり、秀頼や淀殿を含め城にいる者たちには責任を一切問うことはない、というもの。豊臣方にとっても悪い条件ではない。これには、大阪城にいる者たちも安心して講和をのむことにします。

しかし!!!

家康の真の目的は、城の堀を埋め尽くして大阪城を丸裸にしてしまうことでした。秀吉の築き上げた難攻不落の大阪城では、この堀を埋め尽くさなければ落とすことは不可能。そこで、家康は最初からいったん和睦し、大阪城の堀を埋めることも計算の内であったといわれています。

講和がなった翌日より家康の軍勢は一斉に外堀を埋め始めます。まぁ、ここまでは豊臣方も約束どおりなので、ただ見ているわけですが、次に三の丸、二の丸と、どんどん城に向かって堀を埋めていく・・・。

ちょっと約束違うんじゃない?

と、慌てふためいてもすでに遅い・・・。わずか1ヶ月も経たぬうちに難攻不落の大阪城は、平地に立つ裸の城になってしまうのです。これには豊臣方も黙ってみている訳にはいきません。堀の一部を掘り返し、大量の兵糧を城へ運び込み、浪人を雇います。

これを知った家康は、「おっ、やる気なの?」とばかりに豊臣方に最後通告をだします。
秀頼が大阪城を出て地方に国替えするか、城内の浪人をすべて解雇するか選べ!

当然、そんな条件を豊臣方も呑むことはできません。拒絶を家康に伝えると、作戦通りとばかりに家康の攻撃が始まります。

さぁ、大阪夏の陣の始まりです。豊臣軍10万(一説には6万)VS徳川軍20万(15万)

冬の陣で総掘りを埋められた大阪城にはもはや大群を相手に篭城する能力は残っていませんでした。籠城であれば、勝利も見えてくる兵力差ですが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかありません。しかも、大阪城に集められていた兵は寄せ集めの軍兵。

そんな中でも、豊臣方の真田幸村が冬に陣に続き、大阪夏の陣でも活躍を見せます。もう一人の武将「後藤基次」らも大阪城の南から押し寄せる徳川軍を城外で迎え撃ちます。

戦場となった【道明寺近辺】では「伊達政宗」率いる徳川軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、基次は伊達軍の鉄砲隊の前に倒れました。その後伊達隊は追撃し、真田隊と激突するも両者譲らず一旦兵を引き上げます。

真田隊は3000の兵にて家康の孫である松平忠直隊(13000)を死に物狂いで撃破すると、家康の本陣へと突入。この時、真田幸村の隊は、家康本陣を2度に渡って攻撃し、その距離12キロも後退させたといいます。その為、家康はこの時、真田隊によって討ち取られており、後は家康の影武者が代わりと努めたという風説が立つほどです。

しかし、3度目の突入にて真田隊は力尽き、真田幸村も無名兵士の槍に倒れ討ち死にすることになるのでした。

このとき、死を覚悟した真田幸村は息女、阿梅に自分の戒名を持たせて伊達軍の片倉小十郎に預けたとされ、宮城県白石市には幸村の供養碑があります。その後大阪方では次々と敗戦、ついには幸村も討ち取られます。

もはや、落城目前に迫った大阪城では、大野治長により秀頼と淀殿の助命を求めますが、家康はこれを断固拒否。燃え上がる大阪城内にて2人は自刃するのです。秀頼23歳、淀殿は49歳前後だったといわれています。

1615年5月8日、繁栄を極めた豊臣家はわずか2代で歴史に幕を下ろし、戦国の世は終焉。その後は、島原の乱を除き、明治維新まで約250年もの間、平和な時代が続くことになるのでした。
 

大阪夏の陣の主戦場【道明寺】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時31分44秒
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  道明寺の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗[要出典]など総勢34,300の兵で構成されていた。

4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。

5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。

5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めた。

◆《道明寺の戦い・午前》慶長20年(1615年)5月6日

5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。

作戦が既に破綻してしまっていること認めた後藤は、石川を渡り小松山に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。

午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。

小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。

正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、彼の部隊は壊滅した。

◆《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》慶長20年(1615年)5月6日

このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るい奮戦したが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。

そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。

片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になった。

午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。

◆【豊臣軍の遅参について】

・後藤基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊がことごとく驚くべき遅参をしてしまった原因については、濃霧で出立時刻を誤った。

・寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった。

・もともと後藤勢は、後続が布陣するまでの遅滞戦術を行う作戦だった。

など諸説ある。

《道明寺の戦い・午前》(上)、《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》(下)
 

豊臣軍の武将「後藤基次」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時22分10秒
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  播磨国の地侍・後藤家に生まれる。通称は又兵衛。黒田家、豊臣家に仕えて数多の戦で活躍し、その智略と武勇を敵方からも絶賛された名将である。後藤家が没落すると基次は仙石秀久に仕え、仙石家の改易後は黒田家に仕えて九州征伐や文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いで活躍した。その後主君との折り合いが悪くなった基次は出奔。再就職を妨害されて京都に引き篭もった。

やがて豊臣家と徳川家の対立が深まると、基次は豊臣家に誘われて大坂城に入城。豊臣秀頼に信頼された基次は牢人衆の筆頭として豊臣軍を指揮し、徳川幕府軍と激しく戦った。基次は智勇に優れ、大坂方の将兵の信望を集めた。翌年、夏の陣でも基次は活躍。しかし迎撃のために出陣した後藤勢は、運悪く発生した濃霧のせいで友軍の到着が遅れたため孤立してしまう。基次は徳川方の水野勝成や伊達政宗等の大軍を相手に奮戦、壮絶な討死を遂げた。

【前半生】

黒田家を出奔したこと、最終的には敗者となったためか、後藤基次の前半生に関する資料は少ない。基次が元服した頃、播磨は東西から織田・毛利の大勢力が侵攻し、地元の有力大名が次々と没落した。播磨の後藤家は本家が播磨春日山城に拠って織田軍と戦い敗北したが、基次の後藤家の動向は不明。

播磨で織田家が優勢になった頃、後藤基次は、
・黒田官兵衛に仕えた
・仙石秀久に仕えて、仙石家の改易後に黒田家に仕えた
他にも黒田家の直臣になる前に黒田家家老の栗山利安に仕えたなど、諸説ある。黒田も仙石も羽柴秀吉の麾下で活躍しているので、後者の場合でも基次は黒田家主従と面識を得る機会はあったと思われる。

【出世街道】

黒田家に従い九州征伐に参加した後藤基次は、戦後に豊前の大名となった黒田家が在地の名門城井家との抗争を始めると、城井家との戦いに参加。それから4年後、文禄の役が始まると後藤基次も黒田勢の一員として従軍。山場となった第二次晋州城攻略戦では、他の武将と一番乗りを争うなど城の攻略に貢献した。続く慶長の役で後藤基次は先鋒の将となり活躍しており、戦役の前後に重臣となっている。

豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは、黒田長政に従い黒田勢の先鋒を務めて石田三成勢と戦う。石田勢は精鋭揃いだったが、基次は敵の勇将を一騎打ちで仕留めるなど奮闘した。主従が抜群の手柄を立てた黒田家は戦後筑前に加増転封となり、基次はこれまでの働きを讃えられて益富城と一万六千石の所領を与えられ、遂に大名となった。

【転落】

だが関ヶ原の戦いから6年後、後藤基次は長年の働きで手に入れた地位を捨てて出奔してしまう。黒田長政との不仲が原因とされるが、黒田家で二人は兄弟同然に育てられたという話や関係が険悪だったことを示す逸話は後世作られたものである。この頃の黒田長政は細川忠興と仲が悪くなっており、細川忠興と親しかった後藤基次は彼らの喧嘩の巻き添えにされたという説もある。

出奔の真相は不明だが、黒田家から離れた後藤基次は細川家を頼った。細川忠興は後藤基次を歓迎したが、基次を雇用した細川家に黒田長政は激しく抗議した。細川忠興も激怒したので、両家の争いを危惧した徳川家康が介入した結果、後藤基次は細川家から退去した。

放浪の身となった後藤基次だが、諸大名は天下の名将を召抱えようと先を争って基次を勧誘した。基次は故郷の播磨を治めていた池田輝政の勧めに従い、池田輝政の息子・忠継に仕えた。だが旧主・長政は奉公構の措置を取って池田家に抗議したため、池田輝政が亡くなると後藤基次は池田家から離れた。

諸大名は後藤基次に仕官を求め、その度に黒田長政が妨害し、一武将の仕官先を巡って対立を繰り返した。その状況を徳川幕府は危険と判断し、基次を黒田家に帰参させようと仲裁を行ったが失敗している。後藤基次はその後、京都あるいは大和で隠遁生活を送った。畑仕事や軍学の講義を行ったとされる。この時期の基次は乞食にまで落ちぶれたと言われるが、後藤基次ほど名声のある武将を支援する者が全くいなかったというのは考えにくい。

【豊臣氏に仕官】

後藤基次が隠居生活を送っている間に、世間では徳川幕府が豊臣氏や朝廷内の親豊臣派を屈服させるべく圧力を掛けるなど慌ただしくなっていた。徳川幕府の圧力に耐えかねた豊臣氏は、上方で盛り上がる反徳川の機運に後押しされて豊臣秀頼が開戦を決断。徳川幕府軍を迎え撃つために将兵の募集を始めた。

後藤基次も豊臣家の重臣・大野治長から誘いを受け、帰農していた親類や旧臣たちを集めていち早く大坂城に駆けつけている。前歴は豊臣家から見れば陪臣だが、後藤基次は豊臣軍を率いる大将の一人に抜擢された。開戦前の閲兵式では総指揮を任され、寄せ集めの豊臣軍を指揮して軍事演習を見事に成功させた後藤基次は、軍神・摩利支天の再来と絶賛された。

大坂城では大野治長が軍団の編成と兵站の総指揮を執っていたが、基次は大野を補佐して豊臣軍の陣容を整えるなど活躍。当時大坂方の人物の中で徳川幕府から警戒されていたのはこの二人だった。ちなみに開戦前の軍議で真田信繁たちが出撃を提案して後藤基次が賛成したものの、淀殿や大野治長が反対して案を潰したという話には、確かな史料はない。

大野治長は1614年から主戦派に転じた人物であり、彼の恩人で恭順派だった片桐且元を失脚させて開戦を主導している。軍議で後藤基次と衝突したことを示す当時の史料は見つかっていない。淀殿は邪魔をするどころか、豊臣秀頼と一緒に後藤基次に手厚い贈り物をしたという逸話がある。二度の落城を経験した淀殿はむしろ牢人衆を当てにしていた、と考える方が自然かもしれない。そして豊臣秀頼は後藤基次を誰よりも重用し、後藤家の家臣たちにも気を配った。

豊臣の主従と10万の将兵から最も篤い信頼を寄せられた武将が後藤又兵衛であり、彼の名声は確かな戦歴と采配によって裏付けされていた。

【冬の陣】

豊臣氏が開戦準備に費やすことができた時間は短く、また畿内の要所には徳川幕府に味方する有力大名が大軍を抱えていたため、豊臣軍は大坂城の周囲に陣地を構築、襲来する徳川方を迎え撃つ構えで臨んだ。後藤基次は当初豊臣秀頼の傍にいたので、大坂城で参謀を務めながら各戦線を救援する友軍を率いる立場だったのかもしれない。大坂城から退去して幕府に味方した片桐且元の軍勢が堺に襲来したが、後藤基次の家臣たちが撃退し、豊臣秀頼から褒賞を与えられている。

徳川幕府は全国から20万人の大軍を動員した。幕府軍は兵数で優ることや諸大名が手柄争いで必死だったこともあり、四方八方から豊臣軍の陣地を攻撃、犠牲を省みない強襲を繰り返した。豊臣軍も善戦したが、徐々に各地の陣を捨てて後退した。

その中で発生した今福の戦いで、後藤基次は活躍した。まず大坂城の北東に位置する豊臣方の陣地を佐竹家の軍勢が襲撃。陥落寸前のところを豊臣軍の木村重成が救援した。戦況を観察していた豊臣秀頼は後藤基次に出撃を命じ、基次は兵を率いて出陣。今福村へは川を大きく迂回しなければならなかったが、後藤勢は速やかに木村勢と合流し、協力して佐竹勢に猛攻を仕掛けて追い立てた。佐竹勢は家老の渋江政光が戦死するほどの窮地に陥った。この時、川を挟んで南では大野治長たちが率いる豊臣軍が上杉家の陣地を襲撃していたが、上杉勢の奮戦と諸大名の参戦により敗退。幕府軍は北上して川を渡り始めたので、後藤・木村勢は速やかに撤収した。

後藤基次は真田信繁や長曽我部盛親と協力して真田丸の守備にも参加し、城内の内通者を欺いて敵軍をおびき寄せ、返り討ちにしたという記録を後藤基次の家臣が残している。他にも大野治長の弟治房から戦の相談を受けるなど、諸将から頼りにされていた。諸将との関係は終始良好だった。

両軍共に大軍を動員したのでやがて兵糧や弾薬が不足し、和議の話が持ち上がった。
和議について後藤基次がどう判断したかは不明だが、城を包囲された豊臣方は補給が難しく、主戦派の秀頼や大野も最終的に和睦に賛成した。だが徳川幕府は和睦の条件を破って堀を埋め立て、さらに引き上げた後は様々な口実を設けて豊臣氏を糾弾した。

【夏の陣】

徳川幕府は豊臣氏に圧力を掛けて再び開戦に追い込んだ。大坂城では和議の結果として多数の将兵が城から去っており、兵が10万から7万余りに減少していた。籠城戦は不可能になっていたので、豊臣軍は大和や和泉に進出して徳川方と交戦。緒戦は豊臣軍が優勢だったが、幕府に味方する諸大名が軍勢を率いて次々に到着すると、豊臣軍は戦線の維持ができず後退するしかなかった。

劣勢の状況で基次たちは、大和方面から侵攻してくる幕府軍を河内方面で迎撃する作戦を提案。国分村という土地を戦場に選び、先に周囲の丘を豊臣軍が押さえて、徳川軍が国分村に進出したところを叩くという作戦だった。豊臣軍はこの作戦に2万の兵を割き、後藤基次は先鋒を引き受けて三千の兵を指揮した。道明寺の戦いの始まりである。

河内に進出した豊臣軍は道明寺へ向かい、石川を東へ渡って国分村へ移動するはずだった。先鋒の後藤勢は予定通り夜間に道明寺へ到着。だがこの時、幕府軍の諸大名の軍勢はすでに国分村に進出していた。
また豊臣軍は後続の友軍が遅れていた。物見から報告を受けた後藤基次は後続の到着を待たず、退却も選ばず、兵を率いて川を渡り国分村の西にある小松山を目指した。この時点で基次は、作戦の失敗だけでなく豊臣家に残されていた僅かな勝機も潰えてしまったと考えたのかもしれない。

後藤勢は要地の小松山を確保しようと進軍していた幕府方の奥田勢、松倉勢を攻撃して山から追い払い、救援に駆けつけた水野、堀勢との交戦を開始した。孤立無援の後藤勢3千に対し、幕府軍は伊達、松平、本多など諸軍も加わって総勢2万を超える大軍が小松山を包囲した。山を登って猛攻を仕掛けてくる幕府軍を後藤勢が撃退し、逆に突撃を繰り返して幕府軍に多大な損害を与えたが、数で劣る後藤勢は次第に追い詰められていった。およそ七時間にも及ぶ激戦の末、後藤基次は遂に討死。大将の遺骸を守ろうと多くの将兵が奮闘して戦死し、残存兵は三男の後藤一意が率いて小松山から離脱し、道明寺へ向かった。

※濃霧が発生したとはいえ友軍の到着が遅れすぎていて不自然なこと、そもそも本当に濃霧が発生したかどうかも不明のため、上記の説には異論も唱えられている。真田勢などの迎撃部隊主力は、幕府軍が大和川を越えて北上する可能性も考え、道明寺よりもずっと北の土地に布陣していた。国分の地形なら寡兵でひとまず幕府軍を足止めできると豊臣方は判断、基次がその任務を引き受けた。

一方、大和方面の幕府軍は豊臣方の予想を上回る軍団規模と速度で西進し、国分一帯を制圧。豊臣方の目論見がこれで崩れてしまう。後藤勢が小松山を押さえた時点で幕府軍は国分から更に西へ向かっていた。

いずれにせよ幕府軍の進軍があまりに速かったことが、豊臣軍の戦術を破綻させたと考えられる。小松山の戦いで諸大名は友軍と連携せず我先に攻め寄せて後藤勢に順次撃退されたことや、緒戦で同士討ちも起きている(伊達政宗が味方の神保勢を殲滅した等)ことから、戦後の生き残りを賭けた諸大名の熾烈な功名争いが窺える。

【死後】

後藤勢の救援に向かった豊臣軍は道明寺に到着して後藤勢を収容し、後藤勢を追いかけて石川を渡ってきた幕府軍と激突した。戦況は豊臣軍が優勢だったが、別方面でも味方が敗北したことを知った豊臣軍は退却を開始。幕府大和方面軍を率いる水野勝成は追撃を主張したが、後藤勢との戦いで多大な損害を被っていた諸大名は拒否した。

牢人衆の筆頭であり豊臣軍の精神的支柱でもあった後藤基次の死に衝撃を受けた豊臣軍の諸将は翌日、最後の戦いに挑むこととなる。後藤勢と戦った敵軍はあまりに甚大な被害を受けたため、この決戦ではほとんど動かなかった。後藤勢は結果的に豊臣軍に最後の勝機をもたらしたことになる。

後藤基次の活躍は味方だけでなく幕府方の諸将からも賞賛され、特に徳川家康や細川忠興は最大級の賛辞を贈っている。戦後、毛利家と肥後加藤家にそれぞれ仕えていた後藤基次の長男と次男は切腹させられたが、細川家に仕えていた四男は細川忠興が守り抜いた。
 

豊臣軍の武将「毛利勝永」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)22時53分36秒
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  「毛利勝永」(1577~1615)とは、忠義と武勇に優れた豊臣秀頼配下の大坂方武将内での大名首朱功記録保持者であり、真田幸村と共に徳川家康を後一歩まで追い込み、豊臣秀頼最期の時まで付き従いながらも、後世の評価を全て真田幸村に持っていかれている為に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」 と評される事に定評のある「もっと評価されるべき」真の戦国無双。

【勇士の栄光と流転】

豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子として尾張国にて生まれ、豊臣秀吉の九州征伐後に豊前国内に父・森勝信が10万石を拝領した際に、豊臣秀吉のはからいにより毛利輝元の許可をとった上で、森勝信父子は毛利姓へと改姓することになり、毛利勝永となった。

慶長の役に参加して明・朝鮮の連合軍を破り、関ヶ原の戦いにおいて西軍について伏見城攻略戦にて戦功をあげて毛利輝元や宇喜多秀家より感状を賜る等、武勇に優れた父・毛利勝信の血を受け継いだ勇将ぶりを発揮した毛利勝永だったが、関ヶ原の戦いの決戦の際は、毛利秀元隊の指揮下にいた為、吉川広家の邪魔により戦いに参加することが出来ずに撤退することとなり、城を黒田孝高に引き渡した豊前小倉毛利家は改易され、毛利勝永は父・毛利勝信と共にその身柄を、加藤清正そして山内一豊といった父の旧知で親交もあった大名家に預けられた。

決戦に参加していない事もあったが徳川家康旗下の最古参の一人であり、伏見城主だった鳥居元忠が落城と共に自害した事から、感状を発行される程の活躍をした毛利勝永に対して死罪の可能性もあったが、豊臣秀吉の存命中に命令された伏見城の普請にて木材が足りなくて困っていた徳川家康を、奉行を務めていた父・毛利勝信が裏から手を回して助けた事から死罪は免れたのだった。

そして山内一豊の元に送られた毛利勝永と父・毛利勝信は、山内一豊より1000石を与えられ、弟は山内姓を与えられて山内吉近を名のるなど罪人の身には恐れ多い厚遇を受けた。

【忠義の士・大坂へ】

父・毛利勝信が死去した後も土佐で暮らしていた毛利勝永に豊臣秀頼からの召集をうけると、毛利勝永は妻に対して、自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう。と一度は大坂入りに難色を示したものの、妻より君の御為の働くは家の名誉です。残る者が心配ならば、私達はこの島の波に沈み一命を絶ちましょう。

とのエールを受けて子・毛利勝家と共に土佐から脱走して大坂に入城し、大坂に集まった諸将の信任を得た、真田信繁(真田幸村)長宗我部盛親 後藤基次(後藤又兵衛)明石全登らと共に大坂の五人衆と称され45000を預かる身となったが、大坂冬の陣においては真田信繁と共に出撃策を献じるも篭城策が選ばれた為、さしたる戦功を挙げる事なく豊臣秀頼と徳川家康は和睦した。

【大坂夏の陣】

和睦は破られ、再度、豊臣秀頼と徳川家康がぶつかる大坂夏の陣がおきると、掘を埋められて防御力をそぎ落とされた大坂城に篭城せずに出撃する事となった。

道明寺の戦いでは、発生した濃霧により、真田信繁と共に後詰を務めた毛利勝永が間に合わなかった事から後藤基次らが討死し、真田信繁は毛利勝永に対して、濃霧のために味方を救えず、みすみす後藤基次らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。

遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない。と弱音を吐いて、討死を覚悟したが、毛利勝永は、ここで死んでも益はない。 願わくば秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか。と言って真田信繁をなだめて退却の指揮をとり、無事に自軍を大坂城へと帰還させた。

【無双の士、駆ける】

徳川家康の軍との決戦となった天王寺の戦いに4000の兵を率いて出陣した毛利勝永は、大胆不敵にも徳川家康本陣の正面に布陣した。

そして天王寺の戦いが始まると、真田信繁と共に徳川方の陣につっこんだ毛利勝永は、ホンダムの次男で大坂冬の陣の際に酒がもとで失態を犯していた事から引かずに勇戦した上総大多喜5万石の本多忠朝を討ち取り、

本多忠朝・最期の言葉
「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」

続いて突撃した信濃松本8万石の小笠原秀政に、後の世の松本小笠原氏改易の際の助けとなる「父祖の勲功」となる重傷を負わせた。

※小笠原秀政はこの時の戦傷により戦場を離脱後すぐに亡くなった。

その後も突撃を続けて奮戦する毛利勝永は、浅野長重・秋田実季・榊原康勝・仙石忠政・酒井家次・諏訪忠恒らを次々と無双乱舞によって撃破し、真田信繁と共に徳川家康の本陣へと肉薄、徳川家康は切腹も考える事態にまで陥った。

【兵の跡】

徳川家康の首まで後一歩と迫った毛利勝永だったが、後に評価を独り占めする真田信繁の部隊が先に壊滅すると、四方より攻撃を受けはじめ、徳川家康の首に届かぬ事を見極めた毛利勝永は、反撃してきた藤堂高虎・井伊直孝・細川忠興の軍を打ち破って大坂城への撤収を完了した。

真田信繁が討死し、名実共に大坂方の一枚看板状態となった毛利勝永は、大坂落城の際に自害した豊臣秀頼の介錯を行い、自らも子・毛利勝家と共に自害して豊臣秀頼に殉じた。

【もっと評価されるべき】

大坂方の武将の中では、
三世代チートの例の一族出身で真田幸村効果で功績独り占め状態の真田信繁。
親父が四国最強のチート・長宗我部元親で逸話も多い長宗我部盛親。
主君・黒田長政との因縁により乞食にまで落ちぶれたエピソードに定評のある後藤基次。
みんな大好き中納言・宇喜多秀家の家臣であり、名前が読みづらいことに定評のある明石全登、といったネタ方面も含めてエピソードに恵まれずに影が薄いのが毛利勝永である。

しかし、彼の大坂城での活躍は真田信繁に劣ってはおらず、討死することなく何度戦い続けて徳川家康にも迫る等、将としての功績は一番ともいえるのだが、逆に大坂の陣の時のエピソードしかない為か各方面で評価されず完全に隠れた名将扱いであり、コーエーの「信長の野望」シリーズでも初出時の高能力がシリーズを重ねるごとに真田信繁と水を開けられ、「革新」でやっと再評価されたと思ったら、島津義弘や木村重成の様な「顔グラいじめ」にあうという状況である。

まさに毛利勝永こそ「もっと評価されるべき」戦国武将と言える。木村重成もね。
 

幕府軍の先鋒大将「水野勝成」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)22時28分41秒
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  1564-1651 江戸時代前期の大名。
永禄7年8月15日生まれ。水野忠重の長男。父に勘当され諸国を遊歴,徳川家康のとりなしで三河(愛知県)刈谷の遺領をつぐ。大坂の陣の功で大和(奈良県)郡山6万石藩主。元和(げんな)5年備後(広島県)福山藩主水野家初代となる。10万石。城下町をひらき,殖産につとめて藩政の基礎をきずいた。慶安4年3月15日死去。88歳。通称は六左衛門。

【徳川の譜代】

三河刈谷城主・水野忠重の嫡男。徳川家康の従兄弟にあたり秀忠とは乳兄弟になる。家康に仕え1579年の遠江高天神城攻めで初陣を飾った。1581年の高天神城攻めにも父と共に活躍し織田信長より感状と左文字の刀を与えられる。1582年に徳川軍が甲斐で北条軍と戦った際にも功があった。1584年の小牧・長久手の戦いでは一番首を獲る。

【浪人となる】

そのように戦功を重ねた勝成だったが、同年に父が伊勢桑名の守備についていた時に、遊女代で水野家の勘定方と揉めて斬り殺してしまう(父に讒言した家臣を殺したとも言われている)。困った勝成は家康に仲介を頼むが忠重がどうしても許さず「しばらく目立たないようにしておけ」との家康の命令で浪人となった。

1587年に九州征伐が起こると九州に行き佐々成政に仕える。同年に彼が肥後国主となった際に起きた肥後一揆では鎮圧に向かい首級を獲た。1588年に成政が改易され、小西行長が肥後宇土城主となると行長に仕える。その後、加藤清正、黒田長政に仕えるが長続きせず備中に行き三村家の世話になった。

【古巣に戻る】

1598年の豊臣秀吉が亡くなった後に京都に行き、家康に帰参を願い出て許される。1600年の関ヶ原の戦いの直前に加賀井重望によって父の忠重を斬られると、その遺領を継いで三河刈谷3万石の大名となった(この際に帰参を許されたとの説もある)。関ヶ原の戦いでは大垣城の開城をさせる。

【大坂の陣で活躍】

大坂冬の陣に従軍した。夏の陣では大和口の先鋒を務め、5月6日の道明寺の戦い 前半戦で活躍した。また翌日の天王寺・岡山での最終決戦でも明石全登隊と激戦を繰り広げ、桜門に入り一番に旗を立てる。陣後、松平忠明に継ぐ功があったということで、大和郡山6万石に移封された。

1619年に備後10万石に移封される。これは西国の押さえとしての意味があったと言われている。備後に来た勝成は3年の歳月をかけて福山城を築城し城下町を整備する。1637年の島原の乱にもおもむき原城攻めに参加した。1639年に隠居して宗休と号する。1651年3月15日死亡。福山市の賢忠寺に葬られた。

とにかく暴れん坊のイメージがあります。1585~1600年にかけては浪人して主君を何人も変えています。小牧・長久手の戦いの時ですが、目を患って兜を被らずに出陣したところ、忠重に「このような時に兜を被らずにいつ使うのだ」と注意され、「このように辱められた上は頭を被るか一番首を取るか、今日の勝負に賭ける」と単騎で突っ込み一番首を獲ています。無茶苦茶ですが、当時の戦国の人はこんなものだったんでしょう。

そんな勇猛な勝成ですが、福山では福山城を築く際に海を埋めて城下町を造り、新田開発を行い、反乱が頻繁にあった芦田川の治水を行い、寺社仏閣の再建などにつくしたそうです。以上、福山市の基礎を築いた水野勝成でした。
 

幕府軍の総大将「松平忠輝」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)21時54分0秒
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  【鬼っ子・辰千代】

1592年に徳川家康の六男として生まれる。母は茶阿の方(お久)といい、元々は遠江・金谷の鋳物師の妻であった。しかしその土地の代官が茶阿をものにしようと夫を無実の罪で謀殺したので、家康に訴えて仇を取り、そのまま側室となった人物である。

忠輝は下野長沼4万石の大名である皆川広照が引き取り、育てることになった。1600年の8歳の時に断絶しかけていた長沢松平家の名籍を継ぎ、さらにその2年後には下総佐倉5万石、さらに翌年には信濃川中島14万石と左近衛権少将の官位が授けられる。1605年5月には将軍となった徳川秀忠の名代として大坂城に行っている。

【大大名】

『身の丈低く、眼大にして、眉つり、色極めて黒く、性驍果暴慢』という、異相の男に成長した忠輝は1606年、仙台の伊達政宗の娘・五六八姫と結婚する。1610年には越後福島60万石を与えられた。1614年2月に堀家が建てた福島城から高田城に移城した。

【留守】

1614年10月に徳川家と豊臣家の関係が決定的になると、忠輝は江戸の留守を任される。忠輝は残されたことに不満を持ったのか、なかなか越後を動こうとしなかったが、両将軍の命令により渋々江戸に入城している。

【総司令官】

しかし夏の陣では大和路の総司令官を任され出陣した。ここで忠輝は思わぬ災難にあっている。忠輝の軍を追いぬこうとした秀忠の旗本を先鋒の者が切り捨てたのだ。これにより以前から上手くいっていなかった秀忠との関係がますます険悪なものになってしまう。

しかも肝心の戦場でも道明寺の戦いでは戦闘が終わった後にかけつけ、追撃は舅の政宗の反対で出来ず、天王寺・岡山での最終決戦でも首一つあげなかった。この時、キリスト教に理解のある忠輝がキリシタンの多い大坂城への攻撃をためらった、という噂がたつ。これにより両将軍の忠輝の印象は最悪となった。

【改易】

さらに忠輝は家康達の不興を買うようなことをしてしまう。理由は不明だが両将軍が朝廷に大坂の陣の勝利の報告をした際、舟遊びをしてついていかなかったのだ。数々の所業に激怒したのか、家康は遺言で忠輝を改易し伊勢朝熊山への配流を言い渡した。

【配流生活】

そこから忠輝は飛騨に移されたが、そこの大名・金森重頼に拒否され、最後は信濃諏訪の諏訪頼水に預けられた。その後の忠輝は住民と親しみ、一緒に湖で泳いだりして静かに余生を過ごしたという。忠輝は文化人としても一流で、この生活で諏訪地方の文化に大きな影響を与えている。1683年7月3日死亡。

結城秀康に続く「精力がありすぎて不幸になった男」二人目という感じですね。戦国時代が収束に向かうときではなく、もう少し戦が多いときに生まれていれば活躍できたし、疎まれずにすんだと思うのですが。

非常に長生きしてます。諏訪に移ってからは南蛮からの医術で住民達を治療していたとか。本当は優しい人て器量もあったけど、幼いころに愛を与えられなかったので屈折した(よくすねる)性格になったのかもしれません。義父はただ単に出世のために忠輝を貰い受けただけでしょうから、あまり愛情がそそがれているとは思えませんし。とにかく不幸という言葉が似合う忠輝さんでした。
 

幕府軍の後見役「伊達政宗」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)21時21分48秒
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  (文和2年/正平8年(1353年)- 応永12年9月14日(1405年10月7日)没)南北朝時代から室町時代の大名。兵部少輔、大膳大夫、五位下。入道円孝。父親は8代当主伊達宗遠。父・宗遠と共に置賜郡に侵攻して長井氏を滅ぼして置賜を伊達氏の拠点とし、17代政宗の時代に豊臣秀吉の奥州仕置により本拠を岩出山に移すまでの200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。

正室は室町幕府3代将軍・足利義満の生母の妹で足利将軍家と強い結びつきがあり、鎌倉公方が領土要求してきた時はそれを拒み、1399年大崎氏、蘆名氏などと同盟して戦うがこの時は破れ出羽に逃れるが1402年ふたたび反旗を翻し、鎌倉方の上杉禅秀と戦い上杉方へ大打撃を与える。「伊達政宗の乱」と呼ばれるこの2つの戦いは足利将軍家と鎌倉府の代理戦争でもあり、この戦いによって伊達家の名を近隣諸国に響かせる事となり9代政宗は「伊達家中興の祖」と称えられ、その名をあやかって17代政宗が命名される事となる。

【17代政宗】

伊達藤次郎政宗(永禄10年8月3日(1567年9月5日) - 寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、伊達家16代当主の父伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれた(・・・というのが一般的だが、米沢市中心部の現在上杉神社がある場所にあった米沢城ではなく、米沢市西部にあったという舘山城で生まれたという説が有力になり始めている)。幼名は梵天丸。母親は出羽国の最上義守の息女で、最上義光を兄にもつ義姫。妻は愛姫。

政宗という名は伊達家中興の祖である9代大膳大夫政宗にあやかって名付けられた。伊達氏は11代当主持宗から16代当主輝宗まで足利将軍の一人から一文字頂いていたが(補足として持宗は足利義持から、輝宗は足利義輝から)、17代目に対しては上記のとおり先祖の名を襲っている。

これには理由があり織田信長が足利義昭を京から追放し戦国の世も大詰めとなったところ、奥羽では群雄の勢いがますます強くなっていった。そんな奥羽で父祖を築いてきたものをどう保ち、またそれを発展するか、そして中央の大勢力にはどう立ち向かうべきか、これを考えた時に中興の祖といわれる大善大夫政宗のような武将になるのが望ましい、従ってこの名を襲名させようとして元服の際に名乗らせた。後に初陣で輝宗と共に相馬盛胤に奪われた領地の回復に成功しているため輝宗の願いは早くもここから始まったといえよう。

幼い頃に天然痘(疱瘡)にかかり右目を失明。一説によれば右目を失明した事を生母が忌み嫌い、それが後にお家騒動(生母が弟である伊達小次郎を次期当主に据えようと画策し、政宗を毒殺しようとした事件)につながったともされる。しかしもう一方の説は全く反対で、失明した事は伝説の高僧・万巻上人の生まれ変わりである証拠と感銘して上人の遺徳を大いに讃えたとも言われており、実際の所は不明である。

なお、政宗の代名詞である「独眼竜」という中二病臭い二つ名は後世に名付けられたものであり、小説・大河ドラマで使われた事で有名になったが、初出は明治34年(1901年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著、久保天随・校、大阪:鍾美堂)で、元々は唐末期の突厥系軍閥で後唐の太祖となった李克用(856 - 908)の別名の一つである。

政宗は17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく周辺の勢力(主に最上氏、芦名氏など)を討伐していった。しかし、中央では織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、政宗のところにも何度も停戦命令が届く。それを黙殺し続けていた政宗であったが、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階でとうとう秀吉の下に屈した。

この時の参陣の遅れについては、秀吉との駆け引きの他、参陣直前に母親に毒殺されかけるものの、解毒剤の撥毒丸(ばつどくがん)をすぐに使用したため一命を取り留めたものの、その後の療養のため、などの説がある。背後には最上義光がいて、義姫が弟の小次郎(幼名:竺丸)を寵愛しているため小次郎に伊達家を継がせて掌握しようという陰謀があったともされるが、いずれも不明な点が多い。

秀吉政権下では明らかにアヤシイ行動を咎められ、何度か謀反を疑われるが機転の利いた対処で切り抜け、東北地方の有力勢力として存在し続けた。

ちなみに、秀吉晩年期における政宗の石高は58万石であった(参考:前田利家→81万石、宇喜多秀家→57万石、上杉景勝→120万石、毛利輝元→121万石、徳川家康→256万石)。石高の順位(石高ランク第五位の“大大名”)から言えば、秀吉政権の中枢に政宗が入っていてもおかしくはない(※暴れん坊だから入らない方が良いという見方もある一方、虎視眈々と活動をおこなう政宗を抑え込むには逆に体制に組み込んで常に監視しておいたほうが良いのではないかという説もある)のであるが、なぜか入っていない。これは秀吉の親戚である宇喜多秀家の存在もあるだろうが(秀家自体は秀吉の一族ではないが一旦秀吉の養子に入っている事から扱いは一門になっている)、やはり「政宗ねぇ・・・」という危惧の声も大いに影響しているのではないだろうか。

◆関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、伯父の最上義光等東北諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制する役目を担う。この時、家康から秀吉の小田原征伐遅参の罰として没収された伊達家旧領6郡49万石を与えるという「100万石の御墨付」を得ていたが、小田原征伐に参加せず所領没収・改易された和賀郡の旧主・和賀忠親(所領没収後に政宗に保護されて胆沢郡に所領を与えられていた)による旧領回復の為の南部氏への反乱(和賀一揆)を煽動した黒幕である事がが露見した為に家康に「100万石の御墨付」を反故にされ、論功行賞は自力で奪い取った刈田郡2万石の加増のみとされ(その後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石が加増され)、仙台藩・伊達62万石が誕生し政宗は仙台藩の初代当主となった。

仙台藩初代藩主となってから、政宗は積極的に徳川家への接近を試みた。初代将軍・家康はこれを警戒しながら対応していたが、二代将軍・秀忠以降は御意見番として将軍の相談に応じており「仙台公」あるいは「仙台侍従殿」「仙台黄門」(「侍従」「黄門(権中納言の唐風官名)」は政宗の官職に由来する)とも呼ばれ、三代将軍・家光からは「伊達の親父殿」とよばれて親しんだ。その信頼の深さはさながら「副将軍」にも等しかったとされる。

晩年は美食研究などで知られ、日に1~2時間は二畳敷きの専用トイレ兼執務室に篭って朝夕の献立を考えるほどの熱の入れ様で、例えば「白鳥の塩漬け」は幕府に献上するほどの自慢の逸品だったとか。そうした政宗の美食研究の結果生まれたのが「ずんだ餅」「凍み豆腐」であると言われている。

尚、この美食が祟ったのか、晩年は肥満に悩まされたとも言い伝えられている。一方で健康には人一倍気を遣っていたようで、煙草を1日3回きちんと吸っていた・・・って、当時の煙草は薬扱いなんだから仕方ない。(仙台にある伊達政宗霊廟=墓所である「瑞鳳殿」の調査が行われた際に政宗の遺骨ならびに副葬品等々の調査が行われた。その中に喫煙具一式もあった。)

深刻な歯周病持ちで、晩年は上の両犬歯しか歯が残らなかったという。加えてかなりの下戸で、飲酒にまつわる失敗談も幾つか伝えられている(これも政宗墓所の調査で判明した)。

戦国の気風を晩年まで保っていたことで三代将軍家光に慕われており、もっと早くこの世に生まれていれば・・・そう思わせる人物である。寛永13年5月24日(1636年6月27日)江戸上屋敷にて死去。享年70歳。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く 」

戒名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士

墓所:瑞鳳殿(仙台市青葉区)この場所は政宗公が自ら自分の墓所の場所はここにと指定した場所であるが、墓所建築の際、地下から廟所が発見されて確認した所、政宗公が生まれ変わりだといわれていた満海上人(この人物も片目の人だったらしい)の廟所と判明し、政宗公の墓所を少しずらして建造したとの事。なお瑞鳳殿敷地内には満海上人供養塔があります。殿内には発掘のさいに調査された遺骨を基にして作った伊達政宗の木像が安置されている。

大河ドラマ『独眼竜政宗』最終回に政宗墓所である瑞鳳殿の調査の際に公開された政宗本人の遺骨が紹介された(大河ドラマ史上類例のない“本人出演”)。その際に骨格調査と血液型検査が行われた結果、「身長159.4センチ、血液型はB型」であると発表された。

【人物】

幼いころより禅僧・虎哉宗乙(虎載宗乙)に師事し、文武両道に優れた人物であった。若いころから、奥州の領土奪回・拡大を目指し成功しているため、戦略的な能力は高かったと見られる事が多い。

近年のゲームや小説・漫画のイメージから、戦場での華々しい武功を想像しがちだが、実際は敗戦の記録も多く、特に人取橋の戦いは伊達家滅亡の危機でさえあった(佐竹氏が家臣の暗殺や北条氏の影響で急遽撤退していなければ、この時点で政宗が死亡していてもおかしくなった)。

しかし、結果として約5年という短期間のうちに、周囲の大名・豪族を討伐、または傘下に加え、佐竹氏・上杉氏と同等、もしくはそれ以上の広大な領域(近年では小田原参陣直前に90万石以上であったと言われている)を有する事に成功したのは、苛烈な侵攻策による畏怖を与えつつ、調略による懐柔を繰り返し、武略だけではなく知略にも長けけた器の持ち主であったことを証明している。実際に、秀吉や家康といった権力者とに対する立ち回りや危機の切り抜け方などから、猛将型よりむしろ謀略等に長けた大名であったと評価する人も少なくない。

そんなこんなで、若年の頃より(かつ父が存命中であるのに)家督を継ぎ、伊達家の旗頭に立たせられる中、積極的な対外進出の上で磨き上げられた陰謀や画策の手練は必要であったどころか、もはや趣味の延長上に近い。これは師である虎哉禅師から「目に見える事(現実)だけが本当の姿(事実)ではない、目に見えぬ事(謀略や打ち合わせ)によって本当の姿が変わる事もある」=「騙されたくなかったらすべてを疑ってかかれ」という教えを叩きこまれていた事も大いに影響するであろう。

※なお、伊達政宗の破天荒な性格の根本を作り上げた人物こそ虎哉禅師こと虎哉宗乙である。この虎哉禅師は「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」の辞世で有名な甲斐・恵林寺の快川紹喜和尚の弟子。武田信玄・勝頼に教えを諭していた師に同じく、禅の問答から権謀術数を知り、それを政宗に叩き込んだのである。

いずれにせよ秀吉・家康はもちろんの事、秀忠・家光などからも危険視され一目置かれる存在となり、幕末まで続く仙台藩の基礎を確立した手腕は、政宗という戦国人間としての能力の高さ(と、相手を驚かせるようなパフォーマンスで難を乗り切るという世渡り上手な部分)を裏付けるものだろう。

反面、文化・教養人としても知られ、後水尾天皇より和歌を激賞されたこともある。後世、明治天皇はその文武両道性を高く評価し、大正天皇は従二位を追贈した。手先も器用であったようで上述の通り料理を趣味とし、竹細工も得意とした。晩年は能に傾倒し、鼓や太鼓の名人であった(政宗が従四位下右近衛権少将の官位を賜った際に秀吉の前で披露したという)。

しかし、政宗の後世の人を引き付ける魅力は、戦国時代が収束していく中でも、奥州の暴れん坊と呼ばれ、晩年まで衰えなかった野望と、それらを示唆するDQN的行動エピソードの数々である事は間違いないだろう。
小田原参陣の際は妻の実家・田村家に「参陣しないように」と指示を出しておきながら、自らは参陣。結果として田村家は改易され、田村領は伊達家に与えられた為、実質的に田村を乗っ取った形になった(後に田村家は妻・愛姫の遺言により再興された)。

大崎・葛西領で大規模な一揆が起きた際、裏で一揆を煽動する書状を記したことを秀吉に咎められたが、政宗は白の死に装束に金箔張りの十字架を背負った超デスパンクな出で立ちで出頭、「書状の鶺鴒(せきれい)の花押に針の穴が無いので、これは自分が書いたものではない」と言い抜けて処罰を免れた。それまでの他の書状は全て穴開きだった(ただし、現存する書状には穴開きのものは一つも無い・・・)。

秀吉の重臣であり、政宗との仲も良好であった浅野長政に対して突然「絶縁状」を突きつける。その理由は以下の十か条にまとめられた。
(1)知行を返上する旨の書状をだまして書かせた上に、その撤回をしていない
(2)朝鮮出兵においては勝手な指揮をし、自分の面目を潰した
(3)朝鮮での勝手な指揮について、伊達ではなく浅野に非があったという事を
    秀吉に報告していない
(4)同じく朝鮮の役において、秀吉から支給された扶持米が自軍に供給されなかった
(5)秀次事件の時に遅刻したが、その理由を自分のせいにした
(6)同じく秀次事件の際に秀吉から疑われたが、その時に何の擁護もしなかった事
(7)正当な手続きを取って帰国をしようとしたにも拘らず、不当な言いがかりをつけた
(8)自分と仲の悪い木村吉清と懇意である事
(9)自分と仲の悪い蒲生氏郷と懇意である事
(10)自分の家臣が秀吉の親戚である木下勝俊配下の者に殺された事件の際、
    秀吉との仲介を依頼したがこれに応えなかった。・・・
    ちなみに、この絶縁は一説によると政宗と長政が囲碁の最中に打ち手をめぐって
    口喧嘩となり、その“腹いせ”に起こしたという話も。なお、1994年に伊達家と
    浅野家は茶会を開き、これを以て400年以上にわたる絶縁は解消された。

関ヶ原(慶長出羽合戦)の際に南部領で一揆を煽動し、領土拡大を図ろうとした。これを重く見た家康によって「百万石の御墨付」を反故にされている(関が原合戦後に政宗は居城を岩出山から仙台に移すのだが、仙台に移した理由は百万石の御墨付で領地獲得した場合、岩出山では北寄りになる為、ほぼ中間に位置する仙台に移す事を考えたらしい)。

海外に目を向け支倉常長をスペイン・ローマに遣わすという先見性も持っていた。これには貿易による仙台の繁栄は勿論のこと、何よりこれらとの軍事同盟による家康への謀反を企てていたのである。しかし幕内のコネや新将軍候補が政争絡みの大疑獄(大久保長安事件)により処分された上、スペインとの交渉も不調に終わったことで頓挫。以後は佐幕に方針を転換し、二代将軍秀忠や三代将軍家光からは「伊達の親父殿」と慕われるほどになった(水面下での暗闘や牽制はともかく)。

極めつけは、晩年に遺した「酔余口号(酒に酔って興が乗ったので詠んでみた、の意)」という漢詩。
「馬 上 少 年 過
 世 平 白 髪 多
 残 躯 天 所 赦
 不 楽 是 如 何」
この詩は、「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが……(1行目~3行目)」と、ここまでは素直に読める。しかし、4行目については、「この余生を楽しまずしてどうしようか、いや楽しむべきである。(楽しまずんば是いかん)」、「楽しいと思えないとはいったいどういう事だろうか?(楽しまず是いかに)」と二通りの読み方ができてしまう。

すなわち、幕府成立後に太平の世となった事を愛でて、趣味・趣向の道に生きる事を悟った心を表したのか、太平の世となり自らの野心を捨てざるを得なくなった無念の心を表したのか、全く違う解釈が出来てしまうのである。

この詩の解釈については、政宗死後から真っ二つに分かれており、今もってその論戦には決着がついていない。あるいは、そういう論戦が巻き起こる事を承知して、敢えて遺した政宗の意地悪心とも言われており、案外政宗自身は、あの世から後世まで続くこの論戦の様相を、ニヤニヤしながら眺めているのかもしれない・・・。

また隻眼の武将として、三国志の夏侯惇と同じように、生涯、独眼という事に劣等感を感じていたとされ、遺言では「肖像画は両目で描いてほしい」と頼んだとされる。

自尊心が高く、勧進能のエピソードでは政宗が役者にもう一度見たいと言ったがその場にいた役者、金剛大夫は「アンコールは嬉しいのですがもう他の役者などが帰っておりますので・・・」というような事を告げると政宗は憤激。「この自分ほどの者の頼みが断られるとは黙っていられない。大夫以下役者を斬り捨て皆殺しにした後、この事を幕府に言上する。」などと言ったらしい。「この自分」という言い方から政宗の自尊心の高さが窺える。

東北最大の都市である仙台市の発展の基礎を築いた。当時仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていたが、これを「仙台(仙臺・仙人の住む尊い場所の意)」に改めたのは政宗である。城名も「千代城(青葉山城)」より「仙台城」へと改名させた(仙台城が別名「青葉城」と呼ばれるのは元の名前に由来する)。

廟所(墓所)である瑞鳳殿(ずいほうでん)は戦災で焼け落ちており、1974年に再建されたものである。その再建にあたって発掘調査が行われ、遺骨の検査も行われた。身長が159.4cmだったことや、遺髪から血液型がB型であることが判明した。また遺品からは金製のロザリオ(出頭した時に背負ったアレに非ず)が見つかり、彼がキリシタンであったという説もある(確証は無い)。

ヤンデレ大名・細川忠興から「狐憑いてんじゃね?」と言われた。その意趣返しかどうか、忠興から家紋(九曜紋)を強奪(ちなみに仙台駅前周辺の街路灯には紺地に金色の九曜紋の小旗がついてます)

老中である酒井忠勝を突然ひっぱたき、江戸城中で取っ組み合いの大騒動をおこす(廊下を歩いている酒井に突然「相撲を一番」と声をかけた途端にビンタをかましたとも)。

正月に二代将軍秀忠を自邸に招いた際に政宗はこだわりの食事を出そうとした所、将軍の側近が「毒見をしなければ出せない」と言った事に激怒。「もし秀忠公を殺すのならば毒などという卑怯な手は使わず、弓矢(=武力)をもって討ち取っておる!」と、秀忠に聞こえるように怒鳴った。

これにはさすがの幕臣も閉口し、秀忠みずから政宗をたしなめた。ひとたび客として訪れた二条城に他の大名が帰った後も居座って京都観光三昧(だから田舎者だと・・・)

ちなみにこれはほとんど晩年のことである。
エピソード自体かなり過激な上、当時は戦国の家風が色濃く残る時代。些細な不祥事・落ち度に目を付けられ、謹慎・隠居・切腹・改易が頻繁に行われていた頃である。自分を必要以上にDQNと思わせ、将軍家やその周囲からの警戒を紛らわそうとしたとも言われているが、前記のような時代背景を考えると、政宗の行動は見ている側にとってハラハラするどころの騒ぎではない。

あまりにも嘘臭い(後世の創作ではないか)と思われる話もあるが、これらの話のソースの多くは、友人であった細川ヤンデレ忠興の手紙である。なので本当にやったっぽい。流石、独眼竜は伊達じゃない。
政宗公が如何に暴走してたかは「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」

【現代にも影響を与える伊達男】

上記してきたように、伊達政宗は己が持つ能力をフルに活用して戦国乱世の中を生き抜いた。その類まれな体力と根気、そして豪快さとアイディアはまさに戦国時代でも屈指のカリスマであったと言えよう。天下泰平の世となっても虎視眈々と策を練って戦国の気風を生涯貫き、自分の思ったことは何が何でも実行するという気骨は多くの人から尊敬された(もちろん、危険視もされた)。

歴史学者や歴史小説家も「生まれるのが10年早ければ、伊達政宗は天下を取っていたかもしれない」と言われている事も、様々なエピソードや実際に残されている華々しい経歴・戦歴をみれば納得できる。

特に一大センセーションを巻き起こしたのは1986年の大河ドラマ『独眼竜政宗』(原作:山岡荘八)で、当時新進の俳優であった渡辺謙を政宗役に抜擢し、同作品は彼の出世作となった。配役も政宗の父・伊達輝宗に北大路欣也、豊臣秀吉に勝新太郎、徳川家康に津川雅彦、最上義光に原田芳雄といった堂々たるもので、現在でも「平均視聴率 36.9%」(注意:瞬間ではなく、平均!)という記録は打ち破られてはいない。

歴代大河ドラマで最も人気のある作品である事は言うまでもなく、2012年大河ドラマ50作を記念して行われたアンケートでも堂々の第1位を獲得している。大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響は非常に大きく、伊達政宗という人物を一気に日本史上屈指の人気者にした。同時に「最も好きな戦国武将」の上位に必ず彼がランクインするようになった。

もう一つ、政宗が現代人を魅了するものとして挙げなければならないのがファッションセンスである。伊達家の家紋である“竹に雀(仙台笹)”の下にカラフルな水玉模様を配した「紫地羅背板五色乱星陣羽織」に代表されるように、自らがデザインしたもの、あるいは当時の常識を凌駕するファッションセンスは現代に通じるものがある。

基本的に戦国時代は「いかに目立つか」が重要であった(※とくに合戦の際には存在をアピールする必要があった)のだが、政宗は特に奇抜でインパクトのあるものであった。しかし、単に派手で目立つものという訳ではなく、実用性がありなおかつセンスのあるデザイン・色使いのものが多く、彼の陣羽織や着用の具足をもとに作ったグッズは人気が高い。「伊達男」という言葉の語源が政宗であるという説は有名だが、単に「派手」という意味だけを持つのではないという事を知っておこう!

伊達政宗の壮絶かつ豪快な人生は現代の厳しい世の中において特に光を放っている。2011年、未曽有の災害をもたらした東日本大震災では政宗の作った仙台も大きな打撃を受けた。しかし、東北の人々は諦めることなく現在もなお復興に向けた取り組みを進めている。

その中で、乱世時代に天下という果てしない夢を追って何度でもチャレンジし続けた政宗の粘り強さ、彼の持つ強烈なリーダーシップとカリスマ性は東北、特に仙台の人々にとって少なからず“心の支え”になったのは言うまでもない事であろう。仙台という名は政宗がその地を整備する際に「“千年(千代)”ではなく“仙人の住む地(仙台)”の如く永遠に栄え続ける地にする」事を願って改名した。その政宗の願いを無駄にしてはならない。

東北だけではなく、政宗の存在は全国・全世界にも形を変えて影響を与えている。戦国時代をモチーフにしたゲームやケータイ小説などでもしきりに彼を登場人物としたものが流行っており、老若男女・ジャンルを超えて伊達政宗は現代でもなお輝き続けているのである。
    
 

豊臣軍の武将「木村重成」とは、智・仁・勇の三徳を兼ね備えた男

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)20時52分32秒
返信・引用 編集済
  木村重成(1593~1615)とは、大坂方の四天王の一人に数えられる豊臣秀頼の乳兄弟であり、「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」と評価される冷静さと勇敢さと仁愛にあふれるもっと評価されるべき若武者であり、丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼のまなじりが凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた。と言われた、貴公子の如き長身の美丈夫たる戦国時代の漢である。

豊臣秀次の家老を務めた・木村重茲(木村定光)の子に生まれ(養嗣子で近江源氏佐々木氏の末裔とも)、母の宮内卿局(右京太夫局)が豊臣秀頼の乳母となった事から、豊臣秀頼とは乳兄弟の間柄であったが、父が「秀次事件」に連座して切腹して淀の所領を奪われた際には、木村重成も処分されかけたが、幼年である事や聡明さを豊臣秀吉が買っていた事等を理由に許され、豊臣秀頼に近侍して小姓を務め、元服後は豊臣秀頼の全幅の信頼をうけ、3千石を拝領して長門守と称した。

色白の美丈夫で、立ち振る舞いや言動は涼やかで、礼儀作法を身につけ、粗暴なところが無く、刀・槍・馬術に長けた武将に成長した木村重成は、徳川家康が豊臣秀頼との対立路線を強めると、秀頼四天王の一人として軍勢を率いて大坂冬の陣で初陣を飾り、佐竹義宣や上杉景勝らの軍勢を破って戦功をあげ、徳川家康との講和の際は、豊臣秀吉の使者として徳川家康の本陣に乗り込んで講和の誓詞を徳川秀忠より受け取った。

大坂夏の陣でも豊臣秀頼軍の主力として戦い、藤堂高虎・井伊直孝らと戦った八尾・若江の戦いに挑むにあたっては、他の豊臣方の武将同様に木村重成も自らの散り際を見定め、前日に髪に香を焚きこませて出陣し、

「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」との諌めに対して、
「この程度の勝利はものの数ではない」とまだ徳川家康や徳川秀忠の首をとっていないとして、十中十死の中に覚悟の突撃を行って討死し、生まれてくる時代が違ったならば大輪の花を咲かせることも出来たであろう若武者は、一時の花火の如き享年23歳の生涯を終えた。

【秀頼への忠義】

大坂城内でも随一のイケメンぶりと、気品あふれる優雅な物腰が優男感を助長していたのと初陣をすませていなかった事から、豊臣秀頼の家臣団の中でも軽んじられ、時に馬鹿にされることもあったと言われるが、そういった侮辱に対して木村重成は抜群のスルー能力を発揮して受け流していたが、そのうち茶坊主にまで馬鹿にされるようになり、果てには[とても言葉では表せない]様な周囲からも空気読めよと思われる程の侮辱をとある茶坊主より受け、さすがにこれは刀を抜いて斬り捨てるだろうと周囲は思っていたが、木村重成は茶坊主に対して、

「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろう。だがそうすると私も責任をとって腹を切らなければならない。しかし、今は秀頼様のためにこそ死ぬべき時であり、お前ごときのために私は死ぬわけにはいかないのだ。」

といって秀頼への忠義の為にはどんな侮辱にも耐える覚悟を笑顔と共に見せたことから、家中から一目置かれる存在になった。

【秀頼四天王として】

刀や槍や馬術に長けた若武者として、毛利勝永をさしおいて真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親ら歴戦の勇士達と共にと秀頼四天王に列せられた木村重成だったが、まだ初陣もとげていない自身には身に余るというか空気を呼んだのか歴戦の猛者である後藤基次に対して、

「自分は若輩ゆえ戦闘の経験が乏しい。どうか戦闘に際しては存分にお引き廻しお頼み申したい」

と挨拶して後藤基次の感心を誘い、アクの強い四天王による派閥争いといった無益な味方の戦力低下を防ぐように手を打う空気を読む程度の能力を見せた。

【日本無双の勇士】

大坂冬の陣で念願の初陣を飾った木村重成は五千の兵を率いて、徳川家康側の佐竹義宣や八千と戦った。銃弾が飛びかう戦場において弾除けの盾をあてがわれた木村重成は、たとえ矢玉は遁れようとも、運命からは遁れるのは難しい。といって盾を捨てて益々敵陣へと接近して佐竹義宣の軍勢を押し返して渋江政光を戦死させるといった戦功を挙げた。

しかしこの時、木村重成の部隊の隊長を務める大井某の姿が見えなくなり、
「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知が出来るだろうか。」
といって死体が折り重なる戦場に飛び出して「大井はいずこ」と捜索を開始したところ、死体の中からまだ息のある大井某を探しだした。

しかしこの時、敵側より鉄砲が撃ちかけられて敵兵も数騎飛び出してきた為、大井某は自分を捨てて「いのちだいじに」生還してほしいと木村重成へと告げたが、

「私は貴公のお迎えに来たのだ。 敵が出たからと言って貴公を放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう。」

といって自慢の槍で敵兵を屠らんとした際に味方の兵が現れた為、味方に大井某を運ばせた木村重成は、自身が殿軍を務めて無事退却し、味方そして敵からも智・仁・勇の三徳を兼ね備えている。との賞賛をうけ、豊臣秀頼からも日本無双の勇士であるとして感状と脇差を下賜したが、木村重成は、

「この度の戦功は自分一人の働きによるものではありません。」といって脇差を返上し、
「感状は他家へ奉公する時に経歴の飾りとなりますが、私は二君に使える心が内ので無用のものです。」
といって感状も返上し、豊臣秀頼への忠誠心と戦う事に対する己の信念を見せた。

【真田信繁の心中を察する】

大坂冬の陣の際、木村重成の陣へと六文銭の旗印を立てた軍勢が攻めかかってきた。軍勢を確認した木村重成が同じ六文銭が旗印の真田信繁に会って、

「私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。その中で若い武者二騎が真っ先に進んできて弓や鉄炮をものともせず、兜を傾けて柵に取り付いていますがどなたの子でしょうか。」

と言ったところ真田信繁は、六文銭は兄の真田信之のもの若武者は兄の長男の真田信吉と次男の真田信政で、自分の甥である事を告げて、

「彼らを侍分の人に命じて討ち取って下さい。そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません。」

と答えたが、木村重成は、

「一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。必ず和睦になりますから、めでたくご対面なさって下さい。」

と真田信繁の心中を察して、真田信吉と真田信政を鉄砲で狙撃しないように兵に命じた。

【秀頼の名代として】

大坂冬の陣の激闘の末、豊臣秀頼ら強硬派が「講和なんかしたら堀埋められて篭城できなくなるだろ」と反対する中、和平派の淀殿・大野治長・織田有楽斎らが徳川家康と講和するとなった際に、木村重成は豊臣秀頼の名代として徳川家康の陣を訪れた。

徳川譜代の家臣がずらりと並ぶ中を目礼もせずに、ただ徳川家康のみを見て静かに歩いて近づくと、徳川方の将兵からは「若造のくせに生意気だ」とか「最近の若いのは礼儀も知らんのか」といった罵詈雑言が飛び交ったが、茶坊主レベルにも耐えられる抜群のスルー力を持つ木村重成に対して効果があるわけでもなかった。

そして、徳川家康の血判が押された誓紙を一通り見た木村重成は、

「血判の血が薄くてよく見えませんが?」と言い、

空気の読める狸である徳川家康も

「年とったから血が薄くなったのだろう」

と再度血判を押し直し、豊臣秀頼の名代として血判を押させ直させた事を確認して丁重に礼を重ねて徳川家康の陣を出て行こうとした際に、罵詈雑言をあびせていた家康の家臣に向かって、

「今日は主君、秀頼公の名代として参りましたので、先ほどは誠に失礼致しました。なにとぞお許し下さい」と侘びの言葉を述べた。

主君の名代として主君の名に傷がつくような事をせぬようにしていた事を感じ取った家康の家臣達は、罵詈雑言をあびせていた愚挙が恥ずかしくなったのか返事するものがなく、木村重成は続いて丁寧な会釈の後に陣を出た。

罵詈雑言をあびせていた者達は逆に「立派なものだ」と賞賛し始めた中で徳川家康は、秀頼はよい家臣を持っていると、程度の低いことで罵詈雑言をあびせた家臣と、主君の名代として君命を辱めずに役割をまっとうした木村重成を比較して溜息をついたと言われているが、この話は後年の創作話らしい。

【徳川勇士の嗜み】

大坂冬の陣で取り交わした誓紙を徳川家康に握り潰された木村重成は、大坂夏の陣での八尾・若江の戦いにおいて長宗我部盛親の陣に迫る藤堂高虎の軍勢を打ち破って押し返す事に成功した際に、

「俺はまだ両将軍の首を取ってはおらぬ。これしきの勝利はもののかずではい」

と戦功におごらぬ姿勢と、誓紙を取り交わすという最上級の条約締結まで行っておきながらこれを一方的に反故にするという徳川家康と徳川秀忠への憤慨を露にした。

しかし大坂城の掘を埋められて篭城が叶わぬ大坂方は風前の灯火の状況であり、木村重成の部隊にも、運命を決する相手となるひこにゃんこと井伊直孝の軍が迫っていた。

他の大坂方の武将達がそうであったようにまだ二十台前半の若武者である木村重成も自らの散り際を考えて、1週間程前より食事を制限していた。

食が進まぬ事を憂いた妻の青柳が

「この度は落城も近いと取り沙汰されていますが、それでお食事が進まないのですか?」

と聞いたところ木村重成は、

「昔、後三年の役に瓜割四郎という者がいたが、臆病で朝の食事が喉を通らず、敵陣で首を矢で射切られたところ、傷口から食事が出てきて恥をさらしたという。私もこの戦いで敵に首を取られるであろうから、見苦しくないように心掛けて食事を慎んでいるのだ。」

と答えた。

当時18歳とも19歳とも言われた妻の青柳は、夫・木村重成の思いをうけとめ、最期の戦いに向かう夫が入浴して髪を洗って身を清め江口の曲舞「紅花の春の朝」を静かに謡い余念なく小鼓を打つ合間に夫の愛用の兜に香を炊き込めておいた。

そして妻の思いを受けとめた木村重成は、兜の緒の端を切り落として討死を覚悟した状態で井伊直孝の軍へと突撃し、形成を逆転させる武勇を発揮したものの、満身創痍の中で討ち取られ、戦場に仇花を咲かせた。

その後、徳川家康が木村重成の首実験をした際に、兜をとった髪から香の香りが漂った事から、5月の初めというのに、首にいささかの臭気もなく、香を焚きこめたのは勇士のよき嗜みである。

「皆もここに来てその薫りを嗅いでみよ。また兜の緒の端を切り落としてあるのは討死にを覚悟した証拠、素晴らしい勇将である。」

と木村重成の戦いに挑む姿勢に感心して褒め称えた。

【妻・青柳】

大蔵卿局の姪の青柳は、偶然見かけたイケメンの木村重成に一目ぼれし、
「恋侘て 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀といふ人かな」

との歌を贈られた木村重成は
「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ」
と返し、二人は大坂夏の陣の年の初めに夫婦となった。

木村重成が大坂夏の陣で戦死した際に、青柳のお腹には木村重成の子が宿っており、匿われて男児を出産した後に尼となった青柳は、木村重成の一周忌を終えた後に自害して20年の生涯を閉じた。

【血染めの薄】

井伊直孝の居城・彦根城には、木村重成の勇将ぶりとその見事な最期に感じ入った井伊直孝により、木村重成の鮮血にまみれた薄(ススキ)を掘りあげて移植してあった。その後、明治の世になって薄は彦根の佐和山神社に移されたが、残念ながら薄は現存していないらしい。

なお、木村重成の150回忌の際に、戦死の地である八尾に墓碑が立てられ、彦根市内に木村重成の首塚が存在する。
 

豊臣軍の武将「大野治房」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)20時28分37秒
返信・引用 編集済
  【兄との不和】

父は佐渡守。母は淀殿の乳母・大蔵卿局。兄は大野治長。幼少から豊臣秀頼に仕えて5千石(1300石とも)を与えられた。大坂冬の陣が起こると二の丸と三の丸の一部と共に船場の砦を守備した。

1614年11月末、豊臣軍は木津川口の戦い・鴫野の戦い・今福の戦い・博労淵の戦いなどで次々と砦を落とされ残るのは船場と天満だけとなった。そこで豊臣家上層部は砦の放棄を決めたが治房は「一戦もしていないのに撤退はできない。許しがないのなら捨て殺しにしてくれ」と断った。

困った治長は軍議を行うからと再三使者を送り治房を大坂城に呼びつけ、その間に砦の近くの町に火をつけ兵達を無理やり撤退させる。この後に蜂須賀至鎮軍が砦跡を陣取り治房隊の旗を拾って嘲笑したため治房は治長を深く恨んだという。

【汚名返上】

その汚名返上のために治房は徳川軍への攻撃を計画する。秀頼に許可をもらい後藤基次の賛同を得ると、12月15日夜、塙直之・長岡興季・御宿政友らを集めて軍議を開いた。そこで夜襲が決まり翌々日の17日の深夜、屈辱を与えた蜂須賀軍に本町橋から攻撃をし見事成功させた(本町橋の夜襲戦)。

【疑惑】

明けて1615年、和議によって大坂城の堀は埋められ裸城になると元々和議には反対だった治房は浪人達を再び募集して兵の増強を図った。そのため和議の継続を願う治長とはますます仲が険悪となっていた。

徳川軍との再戦が近づいた4月9日、大坂城の桜門の外で治長が刺客に斬りかかられた。幸い彼の部下が刺客を切り捨てたので怪我だけですんだが、その刺客が治房の部下・成田勘兵衛の家臣と分かり、勘兵衛が尋問されることになる。

しかし勘兵衛が屋敷に火を放って自殺してしまったため真相は分からなくなったが治房への疑惑が残った。

【大活躍】

大坂夏の陣が始まると野戦の指揮を取り、徳川軍の出鼻を挫くために大和方面に出撃するが大した戦果もなく撤退した(大和郡山の戦い)。

その後、和歌山の浅野長晟を討つために岸和田経由で泉南方面に出撃するが、そこでも先鋒の暴走などが重なり敗北してしまう(樫井の戦い)。

5月6日の天王寺・岡山での最終決戦で岡山口の総司令官となり布陣する。正午になり徳川秀忠部隊との間で交戦状態に入る。両部隊ともに譲らず混戦となるものの、治房は、ひるまず前に進み、秀忠部隊の先鋒である土井利勝部隊を壊滅させた。

秀忠部隊の劣勢を見た井伊直孝部隊・藤堂高虎部隊は、その救援に向かおうとするが豊臣軍の攻勢の前にてこずり、治房部隊の有利かと思われたが、治房部隊の側面に、片桐且元部隊が突撃し遂に崩されてしまう。

それでも治房は逃げることなく傷ついた自軍の兵士を収容しながら、襲い掛かる前田利常部隊と死闘を繰り広げ、そのまま玉造口へ撤収している。

大坂城に引き上げた治房を待ち受けていたものは、火の海に浮かぶ大坂城の天守の姿であった。治房は入城をあきらめ大坂城を去った。治房はこの後、捕縛され自害させられたという。しかし不思議なことにその日時が全く伝わっていない。

【生き残る】

その後の治房はいろんな説があってはっきりしない。『城に飛び入って焼死した(『山本豊久私記』)』、『京都で捕らえられて首を刎ねられる(『土屋知貞私記』)』、『生け捕られて板倉勝重から切腹を申し付けられる(『土屋知貞私記』)』などあるが行方不明になったという説が一番有力である。

なぜなら1649年2月に治房が生きているという噂が広まり幕府がその真偽を確かめるために大規模な探索を行ったからだ。処刑された人間をわざわざ探索するはずもない。実は治房が「豊臣家再興」のために生き延びていたという可能性も否定出来ない。

《関係略図》

 大野道犬
  │
  ┝━━━┳治長┳治徳
  │   ┃  ┗弥十郎
  │   ┣治房
  │   ┗治胤
  │
 大蔵卿局

大野治房は豊臣氏家臣団にあって、 徳川氏との決戦を主張する「主戦派」の代表格のような存在であった。「方広寺鐘銘事件」が持ち上がった時には、 豊臣氏こそが天下の正当な後継者と信じる治房にとって、政権簒奪者である徳川家康の前にひれ伏すことなど、受け入れ難いことであったに違いない。

治房の行動は全て「豊臣家を護るため」という考えからなされ、保身や私利私欲のために取られた行動でないことは、もっと評価されるべきではないだろうか。『大坂の陣』から30年以上経過してもなお、 徳川氏を畏れさせた男が大野治房である。

編集後記・・・あまり評判のよろしくない治房ですが、岡山口での戦いでは外国の宣教師が「将軍の隊を四回も撃破し将軍が退却しようとしたが部下に引き止められた」と言ったほどの活躍をし、また夏の陣の直前には家康から「治房が天下を望むという噂があるが無理とはいえない。天下を取る者には生来の天分というものがある。上杉謙信・武田信玄は武辺に優れていたがそれだけでは天下を取れなかった。自分には幸い天下が転がり込んでいたから取れただけだ。

治房の望みも馬鹿にはできない(『本多藤四郎覚書』)」と言わせたほどですから、なかなかの人物だったんでしょう。樫井の戦いの時に彼が願泉寺で饗応を受け足止めをくって敗戦に導いたという説ですが、これは願泉寺が言い訳のためにそう述べただけの虚説という話しもあります。

以上、豊臣軍の最高司令官の一人、大野治房でした。
 

大阪夏の陣(詳細編)天王寺・岡山での最終決戦

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)20時26分45秒
返信・引用 編集済
  前回の「大阪夏の陣とは」では簡単すぎて物足りなさを感じたでしょう。

ここに「大阪夏の陣(詳細編)」をお届けします。じっくりご覧あれ、では・・・

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【俺達に明日はない】

1615年5月6日の夜、豊臣軍の雰囲気は暗かった。当日までの樫井・道明寺・若江・八尾の戦いで豊臣軍はことごとく敗北して後藤基次・木村重成・薄田兼相・塙直之など多数の勇将を失っていた。残った長宗我部盛親隊なども当日の戦いで消耗しており前線に立てるような状況ではなかった。この絶望的な状況に、盛親は家臣に対して「汝らは落ちのびろ。もうこの城で功を立てるのは無理だ。俺も必ず生き延び再び立つ機会を待つ」と言うほどだった。

しかしここに来てもまだ希望を捨てない男達がいた。真田幸村・毛利勝永らである。5月7日早晩、幸村は大野治長の陣を訪れ、勝永も加わって3人で作戦を話し合った。その内容は『全軍を茶臼山から岡山口に並べて敵を引き付け先鋒を撃破する。そして豊臣秀頼が出陣し徳川家康の本陣を目指す。それと同時に明石全登隊が迂回して家康の背後に回り込み、とどめを刺す』というものだった。その決定を全軍に知らせ陣容を整え徳川軍を待ち構えた。

【戦国最大の野戦】

一方の徳川軍も5月6日の戦いで藤堂高虎などが損害を出したが、大半は無傷のまま大坂城に向かって進撃していた。5月7日の真夜中、総大将の徳川秀忠と家康は前日の戦場を視察した後、大坂城を目指し、午前10時に平野に着いて陣を構えた。諸将も夜中に出発し、午前中には大坂城南に陣を構えた。ここで戦力差は3対1。豊臣軍が勝てる可能性はほとんどなかった。

【開戦】

正午になった頃、徳川軍の本多忠朝隊1000が発砲を始め、それに対して毛利勝永隊が応戦し始めた。これを真田幸村の陣営で知った勝永は作戦が台無しになると、伝令に発砲の中止を伝えさせたが兵はやめようとしない。そのため勝永自身が制止しようと前線に向かったが逆に発砲が激しくなるばかり。そこで勝永は戦術を変更し兵を折り敷かせ(左ひざを立て、右ひざを曲げて、腰をおろした姿勢)、本多隊との距離が100メートルほどになった時に一斉射撃をさせた。これを食らった本多軍は70人余りの死傷者を出し、出鼻を挫かれた。

【疾風・毛利隊】

それを見た勝永は、息子の勝家・山本公雄など右の部隊を秋田実季・浅野長重隊らに、浅井井頼・竹田永翁ら左の部隊を真田信吉・信政兄弟に向かわせた。それと同時に本隊を左右に分けて本多隊の本隊に突入。突撃された本多隊は防戦するが、名のある家臣を次々と討ち取られて壊滅状態となった。

しかもそこに小笠原秀政隊が割り込んできて大混乱となってしまう。大将の忠朝が自ら槍を振るって味方を叱咤するが、本多隊の敗走は止まらない。それでも忠朝は奮戦するが狙撃され馬から落ちてしまう。忠朝は狙撃兵を殺してなおも奮戦したが、毛利隊が押し寄せて20箇所以上の傷を受け、遂には雨森伝右衛門に首を獲られてしまう。そのため本多隊は壊走した。

その頃、毛利隊の右の部隊は秋田実季・浅野長重隊らを撃破し、左の部隊は本隊と共に真田兄弟隊に猛攻撃をかけた。真田兄弟は奮戦したものの、毛利隊の勢いには勝てず敗走した。この時に真田の家臣・森佐野衛門が信吉の身代わりになって銃弾を受けるというほどの苦戦を強いられている。

【撃破に次ぐ撃破】

続いて毛利隊は、左の部隊が第二陣で突出していた小笠原秀政隊とそれを援護に来た保科正光隊とぶつかった。浅井井頼・竹田永翁らは真田兄弟隊との戦闘で疲労しており苦戦したが、大野治長隊の一部と後藤基次・木村重成の残兵が小笠原隊を右から側撃したため、形勢は逆転。これを好機と見た勝永は本隊の一部を左から攻撃させ挟み撃ちにした。

これに対して大将の小笠原秀政は槍を振るって奮戦したが、敵の勢いは止まらず、長男の忠脩を討ち取られ、自身も6ヶ所に傷を負って撤退した(彼はその夜に死亡)。次男の忠真も池に突き落とされ重傷となったが、撤退に成功し一命は取り留めている。これにより小笠原隊は指揮官を一度に失い全隊が撤退していった。そして保科正光隊も毛利隊の攻撃で大将の正光が怪我を負い撤退した。

その頃、毛利の本隊は第二陣の残り、榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒隊に攻撃をしかけていたが、これらの隊は毛利隊のあまりの勢いに耐えられず、すぐに敗走。残った兵は次々と討ち取られていった。

【徳川本陣へ】

次に毛利隊はその後ろに控えていた酒井家次・相馬利胤・松平忠良ら5300余りの隊に攻撃を開始した。これらは小大名の集まりで統制も取れていなかったため、毛利隊の相手ではなく次々と敗走していった。そして遂に毛利隊は徳川家康本陣に突入した。

【赤き軍神・真田隊】

さてここで少し時を遡って真田幸村隊の動きを見ていこう。毛利隊が本多隊と銃撃戦を開始した時、幸村もこれを止めさせようとしたが、一度始まったものは止まらなかった。しかも総大将の秀頼は、家康からの講和の使者を受け入れたりなどして出馬しない。すべての計画が駄目になった幸村は軍監の伊木遠雄に対して、

「事がこの様にすべて食い違っては作戦が行えない。これはもはや我が命が終わる時である」と言い、息子の幸昌を城に返して秀頼の出馬を促す使者とした。

そしてしばらく様子を見ていたが、毛利隊の善戦で徳川軍天王寺方面の第一陣・第二陣が敗走するのを見て好機と思い、3500の兵を率いて茶臼山から目の前の松平忠直隊15000に突撃を開始した。これに合わせて大谷吉治・渡辺糺・伊木遠雄隊2000も松平隊に突撃を開始し、たちまち大混戦となった。

【烈風・松平隊】

両方とも士気が非常に高く、真田の赤備えとツマ黒(緑の黒い矢羽根という松平家の家紋)の旗が交互に入り乱れた。この越前衆の奮戦は、戦いが終わった後、京都・大坂・堺の子供達が、「掛かれ掛かれの越前衆、たんだ掛かれの越前衆、命知らずのツマ黒の旗・・・♪」と歌いながら戦争ごっこをしたというほどのものだったという。

しかし後がない真田隊の戦意が勝り松平隊は徐々に押されていった。しかも後方にいた浅野長晟が今宮に移動するのを見て「浅野隊が豊臣軍に寝返った!」という虚報が流れ、裏崩れ(前線から崩れていくのではなく、後方から崩れていくこと)が起きて徳川軍は混乱し、兵が忠直の周りにまで雪崩込んで来た。この状況を打開するために家康は旗本衆を援護に向かわせたが混乱は収まらず、兵は次々と敗走・戦死していった。

【家康、その首もらった!】

真田隊は遂に松平隊を蹴散らして家康の本陣に突撃した。すでに混乱をきたしていた家康本陣は更に混乱しろくに戦闘もせずに敗走する兵もいたほどだった。それでも踏みとどまって防戦する者もいたが、真田隊の前に壊滅した。しかし15000もいる家康隊は次々と新手を繰り出してくる。だがそれでも幸村は諦めず、再び突撃を敢行。これによって家康の馬廻り衆が逃げ出し、家康自身も逃走した。この時、家康に従った者は小栗正忠ただ一人だけだったという。

【家康はどこだ!?】

その時に毛利勝永も家康の本陣に突入したが、すでに幸村によって蹂躙された後だった。必死に家康を探す勝永だったが、どうしても見つからない。

そこに本多忠純隊が攻撃してきたが、一撃で撃退した。家康本陣はこの幸村・勝永の同時攻撃で敗北寸前となったため、岡山口の藤堂高虎隊と井伊直孝隊が救援に向かった。本陣に着いた藤堂隊は毛利隊を側撃、しかしこれも一撃で撃退され敗走した。次に井伊隊が攻撃してきたが、毛利隊は岡山口で戦っていた真野頼包らと共に撃退した。

【真田隊全滅】

幸村はなおも家康を追い立てていたが、松平隊が混乱から立ち直り反撃を開始、ついに茶臼山を陣取った。そのため進退きわまった真田隊は壊滅し、幸村も安居神社で一息入れているところを討ち取られる。松平隊は次に毛利隊に攻撃を開始し、これに呼応して一度は敗退した藤堂・井伊隊が反撃してきた。毛利隊は数度の戦いで疲弊しておりこれに対抗できる力はなく勝永は撤退を決める。

【撤退戦】

撤退中に毛利隊は土手に火薬をしかけておいてそれを爆発させ、それを合図に七手組と共に反撃に転じた。これにより藤堂隊を破ったが、雲霞のごとく押し寄せる徳川軍を支えることが出来ず城内へ引き揚げた。

【飛燕・明石隊】

その頃、明石全登隊300は船場で秀頼の出馬を待っていたが、いつまで経ってもそれがない。そうこうしているうちに豊臣軍が敗北し孤軍となってしまった。

そこで毛利勝永隊の援護に向かい、追撃していた松平隊を攻撃してこれを崩し、その後ろにいた水野勝成隊に襲い掛かった。全登は奮戦し水野隊と激戦を繰り広げるが、多勢に無勢。敗色が濃くなり血路を開いて脱出した。

【隼・大野隊】

一方の岡山口だが、秀忠は家康からの「開戦はしばらく待つように」という命令を守って待機していた。しかし天王寺口で松平忠直隊と真田幸村隊が衝突したのを見て、開戦命令を発した。そこで前田利常隊の先鋒が進撃を開始、それと同時に藤堂・井伊隊は天王寺口の救援のために岡山口を離れた。

豊臣軍の岡山口方面の司令官・大野治房は前田隊を引き付け、近づいてきたところをいっせいに攻撃を開始。そこに秀忠の兵達も駆けつけ大混戦となり、敵と味方の区別がつかなくなった。

これに対して徳川軍の阿部正次は「味方は遠いところから来たので日焼けして鎧なども汚れて汚い。敵は日に焼けてなく鎧もきれいた。これを目印にしろ」と指示した。当初は拮抗していた両軍であったが、気迫が勝っていた豊臣軍は次第に徳川軍を圧倒。治房は一部を迂回させ遂に秀忠の本陣に突入させた。

【秀忠本陣を強襲】

これを阻止しようと酒井忠世と土井利勝の隊が立ちふさがったが、あっという間に蹴散らされ、大野隊は本陣に迫った。これに対して秀忠は自ら槍をとって戦おうとしたが、安藤重信にこれを止められた。この時の混乱は、後に徳川軍の兵士達が「かかれ対馬(安藤重信)、逃げ大炊(土井利勝)、どっちつかずの雅楽頭(酒井忠世)」と馬鹿にしたほどだった。奮戦する大野隊だったが、残っている隊が前田隊に押され始めたため耐え切れなくなってきた。しかたなく治房は撤退を決め軍を終結して大坂城に退いていった。

【城内に戻る】

徳川軍はこれを追撃し城に迫ろうとした。これに対して治房は稲荷祠のあたりで敵を迎え撃ち、槍衾を作り追撃を止めた。が、これは一時のことで大軍を擁する徳川軍の進撃は止まらず、さらに大野隊に迫ってきた。そこで豊臣軍の北村五郎は、弾薬箱を外に置き、味方が大坂城に入るのを確認すると、火矢を放って、弾薬を爆発させた。これにより徳川軍に多数の損害が出た。

【城内に乱入】

5月7日午後4時、天王寺と岡山の両方で豊臣軍が敗北したため、徳川軍は遂に城内に乱入。大坂城の東北に陣を敷いていた京極忠高・石川忠総らは豊臣軍の敗北を知って備前島へ進撃し、天満方面に陣を敷いていた池田利隆も同じく進撃を開始した。豊臣秀頼は敗北を知って、出馬して戦死しようとしたが、速水守久に止められ出馬を取り止めた。その後、裏切り者が城内の台所に火をつけ燃え上がったため、これを見た徳川軍は城内に殺到。豊臣軍の兵達は次々と逃げ出し大坂城は徳川軍の手に落ちた。翌日、秀頼一行も自害し豊臣家は滅亡した。

緒戦は毛利勝永・真田幸村・大野治房らの奇跡的な奮戦で豊臣軍は徳川軍を追い詰めるが、後続が続かず結局は敗北してしまう。

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では、合戦に関する感想を色々書いてみようと思います。まずはなんと言ってもかっこいいのが、この合戦の主役・毛利勝永です。僅か5000の手勢で、16の部隊、合計20000の部隊を撃破か撃退させています。見事です。しかも奇襲じゃなくて真正面から突っ込んでですから。まさに『毛利日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由』ですよ。

あと岡山口で奮戦した大野治房も素晴らしいと思います。秀忠軍をあそこまで危機に陥れているんですからもっと評価されてもいいと思います。以上、豊臣軍最強の男・毛利勝永とその他豊臣軍諸将大々々活躍の天王寺・岡山での最終決戦でした。

最後に。これで大阪夏の陣・合戦は終わりです。最初から見ていただいた方、お疲れ様でした&ありがとうございました。    
 

関ヶ原の戦い(総集編・・・目録紹介)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)18時34分1秒
返信・引用 編集済
  如何でしたか?お暇な時にでも♪ 東軍の総大将「徳川家康」は語る必要ありませんね。

******  上から順に読み易くしてますよ♪  *****

・関ヶ原の戦い(概要no-1)
・関ヶ原の戦い(概要no-2)
・関ヶ原の戦い (纏め)
・小早川秀秋の裏切り
・関ヶ原の合戦で西軍総大将だった毛利輝元(五大老の一人)
・関ヶ原を語るには「石田三成」を知ることから始まる(五奉行の一人)
・家紋は「丸に十の字」
・五大老の一人で東軍「前田利家」とは
・五大老の一人で西軍の副将「宇喜多秀家」とは
・五大老の一人「上杉景勝」-米沢藩初代藩主-
・五奉行の筆頭「浅野長政」は、何故か東軍だった
・五奉行の一人「前田玄以」とは
・五奉行の一人「増田長盛」とは
・五奉行の末席に名を連ねる「長束正家」とは
・西軍の武将「大谷形部少輔吉継」とは
・西軍の武将「平塚為広」とは -義将を支えた義将-
・西軍の武将「小西行長」とは 裏切り続けた男・商人の心を持った武将

戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。しかし、日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。なぜなら、「関ヶ原の戦い」があったのは戦国時代の終わり頃であり、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「武田信玄」や「上杉謙信」などの戦国時代のヒーローと言える人は、すでにみんな死んだ後だからです。

しかも、関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑であり、おまけに戦闘が1日で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられません。ゲームでも「信長の野望」シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。「小説」や「歴史書」では取り上げられる機会が多いのですが・・・内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いのです。
      --------------------------------------------------
           西軍                          東軍
                      五大老                     ※印は秀吉恩顧の武将達
 総大将 毛利輝元                総大将 徳川家康
 副将   宇喜多秀家                  前田利家
     上杉景勝
                      五奉行
    ※石田三成                       ※浅野長政
    ※前田玄以
    ※益田長盛
    ※長束正家
                    その他の武将
     毛利秀元(毛利輝元の従弟)       徳川秀忠(家康三男)
     吉川広家(毛利輝元の叔父)       松平忠吉(家康四男)
     小川祐忠                        井伊直政
     朽木元綱                        本田忠勝
     赤座直保                        南光坊天海
     安国寺恵瓊                      奥平貞治
    ※大谷吉継                        坂部岡江雪舟
     大谷吉勝                       ※田中吉治
     木下頼継                       ※細川忠興
     平塚為広                       ※山内一豊
     戸田重政                       ※池田輝政
     長宗我部盛親                   ※蜂須賀至鎮
     島津義弘                       ※黒田長政
     島津豊久                       ※加藤嘉明
    ※小西行長                       ※福島正則
    ※脇坂案治                        京極高知
    ※小早川秀秋                      藤堂高虎
       ・・・など                    寺沢広高 ・・・など
 

関ヶ原の戦い(概要 no-1)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)17時12分23秒
返信・引用 編集済
  「豊臣五大老」 は、各地の有力な大名によって構成された 「権力者の代表」 であり、以下の5名です。

・関東を支配する五大老の筆頭、「徳川家康」。
・北陸地方を支配する秀吉の親友であり盟友 「前田利家」。
・中国地方の西部を支配する大名 「毛利輝元」。
・中国地方東部を支配し、子供の頃から秀吉に可愛がられていた 「宇喜多秀家」。
・越後の大名 上杉家 の後継者 「上杉景勝」。
(宇喜多秀家 の前に 小早川隆景 という人が五大老になっていましたが、関ヶ原の戦いにはあまり関係ないので省いています)
「豊臣五奉行」 は 豊臣家 の中で実際に政務を取り仕切っていた 「豊臣家の上層部」 であり、以下の5名です。
・筆頭が 「石田三成」、以下 「増田長盛」 「浅野長政」 「前田玄以」 「長束正家」。
      ---------------------------------------------
さて、この五大老&五奉行の中で、関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが、それぞれの筆頭である 「徳川家康」 と 「石田三成」 です。

豊臣秀吉 の死後、まず行動を起こし始めたのは 徳川家康 です。
彼はそれまで 豊臣家 の中で勝手に行うことを禁止されていた、各地の大名や家臣への 「婚姻(結婚)の斡旋」 や 「知行(領地)の授与」 などを、五奉行などに相談することなく独断で行うようになります。
もちろんこの行動に 「豊臣五奉行」 のメンバーは怒り、特に五奉行の筆頭 石田三成 は 家康 を非難するようになるのですが・・・

しかしこの 「石田三成」 という人、かなりの嫌われ者でした。
彼はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていました。そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。
また、武将の失敗や失態などを、情けや釈明を無視してありのままに報告し、それに対する処罰を告げ、それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、そういう役目だから仕方がないのですが、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在でした。 おまけに 「官僚(政治家)」 ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。この点も、実際に戦場で戦っている 「武断派」 の武将からは、嫌われる点でした。

この影響で、豊臣秀吉 が生きている頃から豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする 「官僚派(文治派)」 と、合戦で戦っている 「武断派」 の間で内部対立が発生していました。この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となっていきます。

秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていましたから、武将たちはそれぞれ 「家康派」 と 「三成派」 に分かれていく事になります。

しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。
なぜなら、豊臣家の中には仲裁役として活動していた 「前田利家」 がいたからです。
前田利家 は 豊臣五大老 の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。また、彼自身は 徳川家康 の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行 寄りの立場として、武断派 の武将の暴発を抑える役割も果たしていました。

しかし、時は流れ・・・ 翌年 1599 年3月。 仲裁を行っていた 「前田利家」 も死去します。

そして仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化、ついに大事件が起こってしまいます!「石田三成 暗殺未遂事件」 です!

豊臣家の武将として活躍しており、そして 石田三成 と対立していた 豊臣家 の武断派の武将7名が結託、石田三成 を亡き者にしようと襲撃を計画したのです!

その武将は 「福島正則」、「加藤清正」、「黒田長政」、「藤堂高虎」、「細川忠興」、「加藤嘉明」、「浅野幸長」 という名の、戦国の名立たる名将ばかりです。 (記録によっては、「池田輝政」、「蜂須賀家政」、「脇坂安治」 という人も含まれる場合があります)

しかしその襲撃を 石田三成 は事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。
このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだとも、家康 の子 「結城秀康」 に仲裁を頼んで城や自分の屋敷に逃げたとも言われていますが・・・いずれにせよ、ライバルである 徳川家康 がこの事件の仲裁をおこなって事なきを得ました。武断派 の武将としては、石田三成 の対抗者である 家康 に 「そんな事はやめときなさい」 と言われると、断ることが出来なかったからです。

ですが、この事件が起こった事で 石田三成 は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。そして事件を解決させた 徳川家康 の影響力はさらに大きくなることになりました。同時に、豊臣家の 「官僚派」 と 「武断派」 の分裂は、もはや修復不可能なほどに決定的なものとなってしまったのです。

石田三成 が 暗殺未遂事件 で失脚すると、徳川家康 はその代わりとして 豊臣家 の中枢であった 「大阪城」 に入り、自ら政務を指揮するようになります。これによって 徳川家康 の権力はさらに強化されるものとなりますが、もちろん 豊臣五奉行 としては面白くなく、両者の対立がさらに深まっていきます。

そんなある日、徳川家康 は 豊臣五奉行 を支持していた 前田利家 が死んだ後、その 前田家 を継いでいた 「前田利長」 と、豊臣五奉行 の1人 「浅野長政」 が結託し 「徳川家康 暗殺計画」 を計っていたと言う事を公表します!

これが本当だったのか、それとも 家康 サイドの策略だったのかは解りません。いずれにせよ、この一件により 五奉行 の1人 「浅野長政」 は失脚。さらに 家康 はこの計画をしていた 「前田家」 を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます!しかしこの騒動は 前田利家 の妻であった 「まつ(芳春院)」 が 徳川家 に自ら人質となりに行き、いち早く 前田家 が 徳川家 に従う姿勢を見せたため、回避されました。

ですが結果として、徳川家 は 豊臣五大老 の NO.2 だった 前田家 を従える事になり、さらに 豊臣五奉行 も弱体化させます。人々の中にも、「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」 という風聞が広まっていくことになりました。

そして、年月はついに 1600 年のお正月となります。

豊臣家 の中で最も力を持つに至った 「徳川家康」 は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めました。ところが、この挨拶を 「上杉家」 だけは断り、さらにそれを伝える使者であった家臣を謀反の疑いで処罰しようとします! そのためその家臣は 上杉家 を出奔(離脱)! おまけに 家康 に 「上杉景勝(上杉家の当主)に謀反の気配があります」 と報告をします。元々、この前の年から 上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備をしているという話は流れていました。そのため 家康 は、これらの件について釈明を求める手紙を出すのですが・・・これに対する 上杉家 の重臣 「直江兼続」 の返信は、以下のようなものでした。

「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。 そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。 前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。 あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

これが、すでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩き付けた有名な 「直江状」 です。

この 「直江状」 の経緯については後世、様々な説や推測が飛び交っています。
「家康側はこうした返信が来るのを承知しており、上杉側はその術中にハマったのだ」という説もあれば、
「上杉家と石田三成がすでに連携していて、徳川家康を誘い出すために挑戦状を出したのだ」という説もあります。もちろん単なる手紙の出し合いでこうなっただけかもしれず、手紙の真偽を疑う説もありますが、いずれにせよこれが 「関ヶ原の戦い」 の引き金になったことは確かです。

そして 徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐するために出陣する!」 として、大軍を率いて 大阪城 を出発します。そして、いよいよ時代は大きく動くことになります・・・ 時は 1600年、6月のことでした。

徳川家康 が家臣と共に軍勢を率いて出陣したことにより、大阪城 には 徳川派 が一時的にいなくなりました。

すかさず 石田三成 は行動を開始、友人の 「大谷吉継」 を館に招いて今後を相談します。この 「大谷吉継」 という人は、豊臣秀吉 に 「百万の軍勢を率いさせてみたい」 と言わせたほどの名将でしたが、皮膚がただれて腐っていく 「ハンセン病」 という病気の患者であったため、あまり他の人が近寄ることはありませんでした。しかし 石田三成 はそんなことは全く気にせず、大谷吉継 と親交を深めていました。そして 三成 はここで、「家康打倒」 のこころざしを語ったと言われています。

その後、石田三成 は豊臣五奉行の 「増田長盛」 や、豊臣家の重臣で 三成 の友人の 「小西行長」、豊臣五大老 の大名家 「毛利家」 の家臣の僧侶 「安国寺恵瓊」 などと相談、徳川軍 を打倒する計画を立案します。

そして翌月 1600年7月、石田三成 はついに 「徳川討伐」 の挙兵を宣言!
「内府ちかひの条々」 を交付して諸国の大名に集結を呼びかけます!

「内府ちかひの条々」 の 「内府」 とは 徳川家康 の事で、「ちかひ」 とは 「違い」、つまり間違っているという意味。その内容は、家康 が勝手に婚姻(結婚)や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の 前田家 や 上杉家 を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な 徳川家康 の罪状を並べたて、家康の討伐を訴えた文章(檄文)です。

そして、豊臣五大老の中国地方の大名 「毛利輝元(毛利元就の孫)」 を総大将として軍勢を整え、関所を封鎖して西側の大名家が 徳川軍 に参加できないようにし、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます!

そして翌日、すかさず 徳川軍 の駐留部隊がいる京都の城 「伏見城」 を総攻撃します!
「伏見城」 には 徳川家 の重臣 「鳥居元忠」 がいましたが、守備兵は 1800 ほどでした。一方、攻撃側には1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢がどんどん参加して兵力は増加、多勢に無勢の状態になっていきます。結果、伏見城は炎上して 鳥居元忠 は戦死。しかしその報告は 上杉家 に進軍中の 徳川軍 に伝えられました。

徳川家康 は京都での戦いの報告を受けて 「小山」 と言う場所で 「評定(会議)」 を開きます。
これは 「小山評定」 と呼ばれる、有名な評定です。

ここで 「今後 徳川軍はどうするのか?」 が相談されますが、最初に徳川家康 が武将達に、「人質を取られ困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言します。すると 「石田三成 暗殺未遂事件」 の実行者の1人であった猛将 「福島正則」 が 「残してきた妻子を犠牲にしても 石田三成 を討伐する!」 と発言、同じく 三成暗殺未遂 メンバーの1人 「黒田長政」 もそれに続き、さらに 織田家 の旧臣であった 「山内一豊」 という人が 「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」 とまで宣言します。これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家 に進軍中の 徳川軍 はそのまま大阪方面に戻って 石田三成 と戦うことが決定されました。

この時点で、「石田三成(豊臣)軍=西軍」、「徳川家康軍=東軍」 という、関ヶ原の戦いの2大陣容が決定付けられます。

その後、東軍に参加した 「細川忠興」 の妻 「細川ガラシャ(玉。 明智光秀の娘)」 が、「自分が人質となっては東軍にいる夫の邪魔になってしまうから」 と言い、屋敷に火を放って自ら死を選びます。こうした話が伝わるたびに東軍の結束は強まっていき、石田三成 が人質を取ったことは逆効果に働いていきます。
ただ、戦国の名将 「真田昌幸(真田幸村の父)」 だけは、当初は 徳川軍 に参加していましたが、小山評定の際に徳川軍から離脱します。これが後になって徳川軍の行動に響くことになりました。

さて、石田三成 の挙兵を受けて、その軍勢と戦うことにした 徳川軍 ですが、もともと 上杉家 を攻撃するために出発した軍勢ですから、上杉家 をそのまま放置することは出来ません。ヘタをすると西軍との戦闘中に背後を襲われる危険もあります。

そのためここから 徳川家康 は、関東を中心とする各地の大名家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めます。関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家 と、もう1つ 「佐竹家」 という大名でした。一方、東軍(徳川家康側)に協力したのは東北の大名 「最上家」 と 「伊達家」 でした。

そこで 徳川家康 は、自分の息子であり武勇に優れていた 「結城秀康」 に 佐竹家 の押さえを命じ、そして 最上家・伊達家 の両大名家に 上杉家 への攻撃を依頼します。

上杉家 は 進軍してくるはずだった 徳川軍 を待ち構えていましたが、徳川軍は 「小山評定」 の後に引き返してしてしまい、同じタイミングで 伊達家 が 上杉家 への攻撃を開始します。さらに、最上家 も 上杉家 への進攻を開始しようとしていましたが・・・上杉家 は 最上家 が攻め込んでくる気配を察知すると、直江兼続 や 前田慶次 などの部隊で 最上家 を先制攻撃! 最上家は追い詰められてピンチになります!
しかし伊達家の 伊達政宗 の軍勢が急いで救援に向かったため、そのまま戦いは激化、一進一退の展開となります。

この激突が最も激しくなったのが、ちょうど西で 「関ヶ原の戦い」 が起こっていたのと同時期です。結果としては、これで 徳川軍 は 上杉家 に対する抑えは出来たことになりました。 (上杉側 としても、最上家・伊達家 の抑えが出来た事になります)

一方、東軍の先鋒として 「福島正則」 の部隊が進軍を開始、東海道を通って、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に進んでその周囲を押さえます。徳川家康 はしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていましたが、1ヶ月ほど経ってついに出陣!本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて東海道から西に向かいます。もう一方の軍勢は、徳川家康 の次男で 徳川家 の後継者であった 「徳川秀忠」 が率いて、「中仙道」 という山間部のルートを通り、西に進軍していきました。

ですが、この 「徳川秀忠」 の部隊は結果的に 「関ヶ原の戦い」 には間に合いませんでした。なぜなら途中に、徳川軍から離脱して西軍に味方した 「真田昌幸・真田幸村」 のいる 「上田城」 という城があったからです。

この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万8千、圧倒的な差です。これなら秀忠軍は楽勝で城を落とせそうですが・・・ 名将 「真田昌幸」 の防戦の前に大苦戦!徳川秀忠 軍の家臣も、「ほっといて進もう!」 とか 「いや、落とせなかった恥になるぞ!」 とか意見が分裂して揉めまくり、おまけに 「早く進め!」 という 家康 の使者も大雨で遅れまくります。

徳川軍の兵力の半分はこの 徳川秀忠 が率いていましたから、これが戦場に到着しなかったため、徳川家康 としては大誤算でした。

しかし、徳川軍の他の方面の作戦は順調に進んでいました。もともと西軍より東軍の方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)・美濃(岐阜) と次々と西軍に味方した武将の城は陥落していきます。

美濃の 「岐阜城(旧 稲葉山城)」は、豊臣秀吉 によって 「織田家の跡継ぎ」 とされた 織田信長 の孫 「織田秀信(三法師)」 が守っていましたが、多勢に無勢だった上に、この城はずっと長い間 織田家 や 豊臣家 に使われていたため、内部の構造が知れ渡っていてあっさり陥落。石田三成 は 「岐阜城はしばらく持ちこたえてくれるだろう」 と思っていたようなので、これは三成側の誤算となります。

しかも、石田三成 が主力と考えていた 「豊臣五大老」 の大名家 「毛利家」 「宇喜多家」 の軍勢は、動きが鈍く、思ったような軍事行動が出来ていませんでした。これは 毛利家 も 宇喜多家 も、当主を含めて武将の多くが 「二代目」 であり、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将が少なかったためのようです。
また、徳川側からの再三の寝返り要請があったことや、石田三成 の人気がなかった事も影響し、武将や兵士の 「やる気」 に問題があったとも言われています。

さらに、「豊臣五奉行」 の1人であり、石田三成 と共に西軍の軍事計画を立てていた 「増田長盛」 でさえ、実は 徳川家康 に内通しており、西軍の軍事計画を東軍に報告したりしていました。すでに 「情報戦」 の面で、西軍は東軍に劣っていたと言えます。

石田三成 は 徳川軍 の京都・大阪への進軍を止めるべく、「関ヶ原」 の近くにあった 「大垣城」 という城に入ります。東軍はこの大垣城に進軍していき、いよいよ舞台は決戦の地 「関ヶ原」 に移ります。

戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは大垣城の近くに布陣します。
1600年、9月14日のことでした。

徳川家康 の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍(石田三成側)の兵は動揺を隠し切れません。しかし、これを沈めようと立ち上がった男がいました。 勇将 「島左近」 です。勇将・名将として名高かった彼は 石田三成 から 「私の知行(領地)の半分以上をあげるから、ぜひ家臣になってくれ」 という破格の申し出を受けて感動し、石田三成 のために尽くしていた武将です。

そして彼は、西軍の兵の動揺を鎮めるには 「勝つ事」 しかないと考えます。

彼はさっそく兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発します。この挑発に怒った東軍の部隊が 島左近 の兵に襲いかかり、その勢いに押されて島左近の軍勢は後退してしまうのですが、これは全て左近の作戦。敵をおびき寄せた所で伏兵で敵の背後を遮断し、そのまま孤立した相手を包囲攻撃!おびき出された東軍の部隊は壊滅し、そしてそれを見ていた西軍の兵は奮い立ち、動揺も鎮まったと言います。この戦いは、関ヶ原の前哨戦となった 「杭瀬川の戦い」 と呼ばれています。

その後、東軍と西軍はにらみ合いが続き、そのまま夜になりました。
その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた島津軍 や 島左近 などの西軍の武将たちは 「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出て夜襲で勝負をかけましょう!」 と 石田三成 に進言しますが、これは 三成 に却下されてしまいます。石田三成陣営、徳川家康陣営、双方ともこの夜にどう動くか色々と思案していたようですが・・・その行動は、全く別の人物によって大きく動かされることになりました。

豊臣秀吉 の養子であり、関ヶ原の戦いのキーポイントとなった人物、「小早川秀秋」 という人です。

この 「小早川 秀秋」 と言う人は 豊臣秀吉 の養子で、秀吉に大変可愛がられており、一時は 豊臣家 の跡継ぎ候補でもあった人物です。その後に 元・豊臣五大老 の1人である 「小早川隆景」 という人の養子となり、大名であった 「小早川家」 を継いだ人物で、この小早川家は西軍の総大将とされた 「毛利家」 の家臣でもあるので・・・すなわち 小早川秀秋 は、血統的にも立場的にも西軍に属するべき人でした。

ところが・・・ 彼は大の 石田三成 嫌いでした!
と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を 石田三成 が 豊臣秀吉 に詳細に報告し、彼は 秀吉 におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたからです。しかもそのあと、彼と 秀吉 の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ 徳川家康 でした。

そのため、彼は徳川側の東軍に付こうとしていたのですが・・・ なにせ立場的にはどう考えても西軍にいるべき人。おかげで西軍として出陣することになってしまい、しかも 石田三成 から 「勝ったら最上位の役職をあげます!」 とか 「領地大幅アップ!」 とか色々と西軍に残るよう説得を受けます。しかし 徳川側 も当然のように彼に 「一緒に戦おう!」 と使者を送っており、彼はどっちに付くべきか悩んだまま、この 「関ヶ原」 の日を迎えていたのです。

そしてこの 小早川秀秋 が、島左近 が 「杭瀬川の戦い」 で戦っていた 9月14日、1万5千の大軍を率いて突然 関ヶ原の近くの 「松尾山」 という山に移動した事から、事が動き始めます。

「松尾山」 という山は西軍のいた 「大垣城」 の西にありました。ここにはもともと西軍の別の部隊が駐留していたのですが、いきなり動き出した 小早川秀秋 の軍勢が勝手にその部隊をどかして、そこに居座ってしまいます!「裏切りそうな人」 が、西軍の部隊をどかして自分たちの側面の山にいきなり布陣したことは、西軍の 石田三成 たちに不安を呼びました。

一方、東軍は・・・ 城に篭っている 西軍 を、何とか城からおびき出したいと思っていました。そのため、「東軍は 大垣城 を包囲して放置し、大阪方面に進軍を続け、大阪と京都を制圧しようとしている」 という噂を西軍に流していたと言われています。そんな時に、寝返ってくるかもしれない 小早川秀秋 が 松尾山 に移動して、居座ります。

西軍は、小早川秀秋 ににらみを利かせるためだったのか、それとも移動してきた 小早川秀秋 の軍勢を利用しやすい位置に移動したのか、はたまた 「東軍は大垣城を無視して進軍しようとしている」 という噂に影響されたのか・・・その夜、大垣城を出て、夜の雨にまぎれてこの 松尾山 の近くに移動し始めます。

この移動を 東軍 も察知、城攻めを避けたいと思っていた東軍には絶好の機会ですから、すかさずこれを追いかけ、両軍は関ヶ原へと向かうことになります。

「関ヶ原」 に到着した両軍の布陣図は、右のような感じでした。
青が東軍、赤が西軍の部隊です。西軍の勇将 「島左近」 は 石田三成 の本陣のすぐ前に布陣していました。徳川の本陣近くには、戦国最強と呼ばれている 「本多忠勝」 や、赤備えの猛将 「井伊直政」 などの部隊なども控えています。

見ての通り、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している状況です。これは誰がどう見ても 「西軍有利」 です。実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうです。ですが、戦いはその通りにはなりませんでした・・・

戦いは夜明けと共に始まりました。
まずは、先鋒を任された 東軍 の 「福島正則」 と、西軍 で最も大軍を率いていた 豊臣五大老 の1人 「宇喜多秀家」 の軍が戦闘に入ります。福島正則 の部隊には槍の名手 「可児才蔵」 もいて、かなり強力な部隊と思われていたのですが、宇喜多秀家 軍にも 「明石全登」 という勇将がいました。この人は 「キリシタン武将」 として知られている人で、後に 「大阪の陣」 という戦いがあった時、十字架とキリスト像を掲げた日本版 「十字軍」 を率いて戦ったという、ちょっと珍しい人です。東軍の主力の1つである 福島正則 の部隊は、明石全登を擁し、兵力も多い宇喜多軍に苦戦、一進一退の状況が続きました。

その後、石田三成 の本隊に、東軍の 「黒田長政」 「細川忠興」 「加藤嘉明」 などの武将の部隊が攻撃を開始します。この人たちはみんな 「石田三成 暗殺未遂事件」 の実行者であり、石田三成 に恨みを持っていた人たちばかりで、そのために 三成 の部隊の前面に配置されたようですが、石田三成 の本陣の前には勇将 「島左近」 が立ち塞がっていました。

ところが・・・ 島左近 は開戦早々に 黒田長政 の鉄砲隊の銃撃をまともに受けてしまい重傷、そのまま本陣に担ぎ込まれてしまいます!石田三成 にとって、最も頼りにしていた武将の1人である 島左近 が開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算と言っていいでしょう。その後、石田三成 は自分の部隊でなんとか本陣を維持するべく、奮闘することになります。

当初、東軍はそこまでの経緯から 「西軍は戦闘になるとあまり強くないだろう」 と思われていたのですが、西軍は予想外に善戦して戦況は互角、むしろ西軍がやや押しているような状況となります。

そこで 石田三成 はさらに戦況を有利にするべく、本陣の近くに控えていた 「島津義弘」 の部隊に攻撃を依頼します。この 「島津義弘」 と言う人は 南九州・鹿児島 からはるばるやってきた援軍で、数々の合戦で活躍し、その兵の強さは日本中に轟いていました。ところが、この 島津軍 は進軍要請を拒否します。と言うのも、島津義弘 は 豊臣家 への義理を果たすため西軍に参加していましたが、石田三成 の態度を嫌っていて、三成 に全面的に協力している訳でもありませんでした。

島津軍 は開戦直後から 徳川家 の武将 「井伊直政」 などの部隊と戦っていましたが、西軍の武将の多くが疑心暗鬼の状態にあったことが解っていました。また、開戦前の夜、東軍への夜襲を最初に進言したのは島津軍の武将(島津豊久)でしたが、これを石田三成は却下していました。

それらもあって、島津義弘 は戦況を見て 「まだ討って出るべきではない」 と判断し、石田三成 の要請を拒否したのです。島津義弘 はこの関ヶ原で、西軍の勝利よりも、「島津家としての戦いをする」 ために戦っていました。

島津軍 に要請を蹴られた 石田三成 は、次に徳川軍の後方に位置する 「南宮山」 に大軍を率いて布陣していた 「毛利軍」 に、進軍を要請します。

この軍団は 「西軍の総大将」 という名目だった 「毛利輝元」 によって派遣された部隊であり、進軍の要請を受けて進もうとしたのですが・・・ここで毛利軍にいた 「吉川広家」 という人の部隊が突然反逆します!
命令を出しても全く言う事を聞きません!進軍を催促しても 「弁当食べてるからダメ」 とか言い出す始末。(宰相殿の空弁当と呼ばれています)

このまま吉川広家は毛利軍の前に立ち塞がり、味方同士で争うことを嫌った 毛利軍 は身動きが取れなくなってしまいます。毛利家にはかつて、「小早川隆景」 「吉川元春」 という名の2人の重臣がいました。しかし2人は戦国時代の後期に考え方の違いから遠ざかり、その影響で 毛利家 の内部も2派に分かれていました。

そして 毛利家 を西軍として参加させた僧侶 「安国寺恵瓊」 は 小早川派 と言える存在でしたが、吉川広家 は 吉川元春 の子であり 小早川派 の考え方には反対していて、徳川家康 に早い段階で接近し、東軍側の存在となっていたのです。しかも彼は、「東軍が勝った後、毛利家の責任は問わない。 領地もそのまま保障する」 という約束まで取り付けていました。

この 吉川広家 の寝返りによって、このまま 毛利軍 はほとんどまともに戦わないまま、関ヶ原の戦いを終えてしまいます。結局、毛利家 は 西軍・総大将 という事になっていましたが、実際には総大将らしいことは何もやっていません。

また、この方面には 四国・土佐 の戦国大名 「長宗我部家」 の部隊も西軍として参加していましたが、これも元々は東軍に参加する予定で、関所が閉鎖されていたため東軍に合流できず、仕方なく西軍になってしまったという部隊だったので、最初からやる気がなくて動く事はありませんでした。

島津軍 に続いて 毛利軍、さらに 長宗我部軍 も動かないため、石田三成 は関ヶ原の側面、「松尾山」 という山に布陣している 「小早川秀秋」 に進軍を要請します。しかしこの 「小早川秀秋」 という人は前述した通り、西軍として参加はしたものの、実際には大の 石田三成 嫌いです。しかも戦闘中、東軍からも 「早く寝返ってー!」 という要請を受け続けていました。彼が布陣していた 「松尾山」 という場所からは、関ヶ原の様子が一望できます。 彼は有利な方に付きたいと思っていたようですが、目の前の戦いは一進一退のまま、なかなか優劣が付きません。

その様子を見ていてついに痺れを切らした 徳川家康 は・・・ ここで 「賭け」 に出ます。なんと 小早川秀秋 の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃したのです!

東軍から鉄砲を撃たれたのですから 小早川秀秋 は怒って西軍に付きそうですが、秀秋 はこれにビビって 「家康が怒っている!」 と思い、あわてて寝返りの準備を始めます!この鉄砲の話は創作だと言う説もありますが、徳川家康 が 小早川秀秋 が小心者であることを見越して行った催促だったと言われています。


そして迷いの吹っ切れた 小早川秀秋 は、ついに1万以上の軍勢を率いて寝返りを宣言!
目の前の西軍の部隊に襲いかかります!

ところが、これを予測していた人物がいました。石田三成 の盟友 「大谷吉継」 です。彼は 小早川秀秋 や西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から 小早川秀秋 が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していました。そのため、小早川秀秋 の部隊はこれに迎撃されていきなり敗れ、押し戻されてしまいます。

しかし、大谷吉継 の誤算はこの後でした。彼と共に 小早川秀秋 を抑えられる位置に配置されていた部隊まで、小早川秀秋 と一緒に一斉に東軍に寝返ってしまったのです!すでに彼らの所にも開戦前に寝返りの使者が訪れており、最初から内応している者もいたのです。

この結果、大谷吉継 の部隊は包囲されて集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも壊滅。大谷吉継 もついに戦場に消えてしまいます。大谷軍 の消滅により、小早川秀秋 の軍勢は寝返った味方と共に再び進軍を開始、これで 「関ヶ原の戦い」 の優劣は、ほぼ決定しました。

関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。石田三成 は何とか 徳川家康 の本陣を襲おうと迂回部隊などを回しますが、これは 猛将・本多忠勝 によって撃破されてしまいます。

宇喜多秀家 の軍はまだ善戦を続けていましたが、小早川秀秋 の軍勢がやってきてこれに側面から攻められ始めたため、そのまま瓦解。戦線が維持できなくなり、明石全登 をしんがりにして戦場から退却します。

島津軍 も最後まで善戦していましたが、ついに西軍が崩壊し始めたのを見て撤退を決意。しかもなんと後ろに下がるのではなく、前面の敵を突き破って突き抜ける 「敵中突破」 を開始します!そのあまりの突撃に、その前にいた 徳川軍 はあっという間に蹂躙され、側面にいた 福島正則 の部隊もあっけに取られて防ぐことが出来ず、徳川家の 井伊直政 が追撃するも負傷してしまいます。

その後、島津軍 は大きな被害を受けながらも戦場を突破し、そのまま本国へと帰還していきました。

こうして、残された 石田三成 の本陣も 徳川軍 の総攻撃の前についに崩壊・・・「関ヶ原の戦い」 は決着が着くことになります。

1600年9月15日の昼、開戦から約半日。様々な出来事があった日本最大の大合戦 「関ヶ原の戦い」 は、戦闘時間は約6時間ほどで決着となりました。

西軍・大将 石田三成 は敗戦後に逃亡していましたが、数日後に追っ手に捕まってしまいます。そして共に 「関ヶ原の戦い」 に至る計画を立てた 「安国寺恵瓊」 「小西行長」 と共に、京都引き回しの上、処刑されてしまいました。

他の 豊臣五奉行 は、「長束正家」 という人だけは敗戦後に自害しましたが、徳川軍に情報を流していたり、東軍に協力した他のメンバーは、謹慎処分で済んだり、領地を保障されたりしています。対徳川の中枢であったはずの 「豊臣五奉行」 も、すでに開戦前に崩壊していたと言えます。

西軍に味方した武将や大名はほとんど処罰対象となり、「領地を保障する約束」 をされていたはずの 「毛利家」 も、戦後に約束を破棄され大幅に縮小されてしまいます。逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、そのほとんどが大名に出世しました。

関ヶ原の勝敗を決定付けた 「小早川秀秋」 にも多くの領地が与えられ、大大名に出世しましたが、彼の関ヶ原での裏切りや醜態は世間の噂になり、非難や中傷の的にされてしまいます。そして次第に彼は酒びたりの生活になり、そして関ヶ原から2年後・・・ 狂死(狂い死に)してしまったといいます。

「島津義弘」 の 島津軍 は、関ヶ原から退却して本国・薩摩(鹿児島)に戻りますが、九州では 東軍 の味方を宣言した 豊臣秀吉 の元軍師 「黒田如水(黒田官兵衛)」 が、西軍に付いた 「立花宗茂(立花闇千代の夫)」 などと合戦を繰り広げていて、この軍勢と一触即発の状態となります。しかし関ヶ原の戦いが終わったあと、徳川家康 から停戦命令が届き、合戦は寸前で中止。その数年後、島津家 は 徳川家 から領地を認められ、九州の対立も終息します。

「宇喜多秀家」 は 島津家 に逃亡しましたが、その後に出頭し、島流しの刑になります。この時の妻であり前田家の姫である 「豪姫」 との別れは、戦国の悲恋物語として有名です。

上杉家 と 伊達・最上連合軍 との間で行われていた東北地方の合戦は、関ヶ原の西軍敗北の報告を受けて、上杉軍 が 直江兼続 や 前田慶次 をしんがりにして撤退。その後、上杉家 は 徳川家 に謝罪して関係の修復に務め、領地は大幅に縮小されますが、大名家 としては存続しました。東軍に協力した 伊達家・最上家 は領地の増加を受けています。ただ、伊達政宗 は開戦前に 家康 と 「伊達家100万石」 の領地が与えられる約束をしていましたが、これは与えられませんでした。徳川家康 は、各地の大名家が 徳川家 の脅威となるほどの領地を持つことを避けたようです。

そして 「豊臣家」 は大幅に縮小されて普通の大名家の1つとなり、徳川家康 の元に天下は再び統一され、関ヶ原の戦いから3年後の 1603年、「江戸幕府」 が開かれます。日本は 「江戸時代」 に入り、再び 「太平の世」 へと移って行きました・・・

以上が、「関ヶ原の戦い」 の概要です。
 

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