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「ヤマトヌマエビ」と「ミナミヌマエビ」も水槽の掃除屋だって。

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年10月18日(水)19時54分59秒
返信・引用 編集済
  タニシ君が全滅して1ヶ月が経過したなぁ。。。

お掃除屋さんが居なくなって、2つの水槽には驚くほど水垢がビッシリ付着したよ。

メダカちゃんの糞や餌の食べ残し(3日分)が水底に溜まることで、栄養豊富な水質となり、コケや藻類が自然増殖するんだね。

◆そこで、「ヤマトヌマエビ」と「ミナミヌマエビ」に着目。

ヤマトヌマエビとミナミヌマエビの食性は、雑食性で、藻類、小動物、生物の死骸やそれらが分解したデトリタスも食べてくれるので水質を安定させる効果が期待できる。飼育環境は中性~弱アルカリ性の水質を好み10℃~28℃の水温が適している。 苔とりや残りエサの処理という点ではヤマトヌマエビの方がミナミヌマエビより圧倒的にまさるようだ。特にアオミドロの除去・掃除ということではヤマトヌマエビの方が抜群の効果が期待できるよ。

又、エビの餌だが、ある程度のコケがあり水草のあるような環境なら餌を用意せずとも水槽内のものを食べて生きてくれます。単独飼育でもしない限り特別にエビ用に餌を用意する必要はないですね。これはタニシ君と一緒ですね(笑)。

ヤマトヌマエビは環境がよいとメダカよりも長生きしますので、長期的に楽しみたい場合もほとんど心配はいりません。

兎に角、ヤマトヌマエビやミナミヌマエビは、コケやメダカの餌、水草など なんでも食べることができるから「水槽のお掃除やさん」として便利な存在ですね。

メダカとの相性がよく共存・共生にばっちりで水温や水質もメダカの飼育環境と近いものがあり、メダカと同じで無加温で飼育できるようです。メダカ屋さんに買い(10匹=1000円)に行こう。

◆レッドファイアーシュリンプ ・・・ ミナミヌマエビの品種改良 10匹=2000円
   これしか在庫が無かったよ(苦笑)。
 
 

驚きだよ!!!

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年10月14日(土)15時58分27秒
返信・引用 編集済
  本日はメダカちゃんの移住の日、予備の水槽(3日目の汲み置き水)を覗くと何やら動く物が・・・ボウフラならメダカちゃん好物の餌だが、、、

えっ、メダカの稚魚(1~2mm)が泳いでいるよ!良く見れば5匹も。。。

◆調べてみよう
メダカちゃんの産卵は4~10月頃までとかなり長い間、産卵を行うようだ。
産卵のピークは5~6月頃ですね。

秋に産まれた稚魚は成長し難いという、水温が低くなるとメダカの活性が弱くなり餌を殆ど食べない、よって成長し難いという。まぁ、室内飼育だから気にすることはないだろう(笑)。

という事で、稚魚専用の水槽とし、新たに移住用の予備水槽を準備したよ。

左側から、稚魚用水槽(稚魚が見えるかな?)、汲み置き水槽、メダカちゃん水槽
 

メダカちゃん飼育の冬支度が必要だね

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年10月 8日(日)16時48分9秒
返信・引用 編集済
  ◆赤玉土ってどんなもの?

赤玉土はもともと園芸用の土で関東ローム層の火山灰が積み重なってできた赤土を乾燥させたものです。通水性や水持ち、肥料もちなどがいい非常に植物の育成に適した特徴をもっています。赤玉土自体には 肥料分が含まれていません。また、粒の大きさも細粒から小粒、中粒、大粒といった具合にいろいろな大きさで別れています。

メダカちゃん用として百均で赤玉土(中粒、1.5L=100円)を買ってきたよ。

淡水魚の飼育にもよく利用され、低床として使用する場合は水質は弱酸性になりメダカの飼育に使用するにも便利です。 (メダカが好む水質というのは意外と思うかもしれませんが弱アルカリ性です、メダカは丈夫なのでOKです。) メダカが生活できる好む弱酸性の水質を維持しやすく肥料も含まれていないのでとても安全な水作りが行えます。 さらなるメリットは、赤玉土の形状は粒が多孔質でたくさんのバクテリアを棲みつかせることができるので水質を安定させる効果が大いに期待できます。

◆赤玉土の使用方法

まずば赤玉土を軽く洗います。水道水が真っ赤にならなくなるまで水洗いを繰り返します。但し、赤玉土は石ではありません(泥です)から、洗いすぎると溶けて無くなりますよ(爆笑)。次に、汲み置き水(カルキ抜き)水槽に入れます。私の場合は別添写真(no-1)みたいに、別容器に入れて水槽に沈めました。水草や水生植物を植えて沈めることもできますよ。 最初は赤玉土の粉が舞い水が濁ると思いますが1~2時間たてば透明な水になります。

私の場合は3日毎に水替え(カルキ抜き)してます、赤玉土の使用方法は前述の通り、別容器に入れて水槽に沈めているだけなので、特別に気をつけることはありませんね。気にしたほうがよいことは、赤玉土の種類によっては潰れやすいものもあるということです。手荒に扱うと粒が壊れてしまい、 せっかくの赤玉土の特徴である多孔質や通水性の良さといった利点が失われてしまいますので粒が壊れてきたり、あまりに赤玉土が古くなってきたら交換したほうがいいでしょう。
 

メダカちゃんの為の水草・浮き草

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年10月 7日(土)19時30分17秒
返信・引用 編集済
  ◆「ホテイアオイ」というのは、その性質上、緑色の葉っぱの部分が水面に出ていて、それ以外の部分の根っこなどが全て水中に沈んでいる状態になっている、クラゲのような構造ですから、水槽にホテイアオイがあるとメダカの稚魚にとっては最強の隠れ家になります。

太陽の直射日光を遮る日よけにもなりますし、ホテイアオイの根っこはメダカの格好の産卵場所になり、葉っぱや茎の部分はメダカの稚魚の隠れ家になります。

屋外水槽の場合は普通に浮かべているだけで勝手に繁殖して水面を覆い尽くすくらい、大変強い水草になります。実際、7~8月頃は爆発的な繁殖に遭遇し、喜びを通り越して駆除するのに追われましたよ。とにかく太陽の光さえあれば勝手に繁殖をしていきましたね。

ところが・・・です、10月の声を聴いたころからホテイアオイが枯れ始めたのです。水槽に浮かべていたホテイアオイは完全にドロドロに溶けてしまって事実上の全滅、いつの間にやら水槽から無くなってしまったのです。

ホテイアオイは室内環境では育成することが出来ないようですね。今更ですが・・・新しくHCで荒木田土を購入して、それを底面に敷き詰めた水槽に浮かべておけば、かなり早い段階で回復する。底面に荒木田土や赤玉土を利用すると、ホテイアオイが元気になってくれるという・・・時すでに遅しでした。

よって◆「アマゾンフロッグピット」に変更しました。

メダカの相性も抜群で、やはりアマゾンフロッグピットも根から水中の養分を 存分に吸収してくれるので水質の悪化、富栄養化などを遅らせてくれるので藻類発生の防止などの効果も期待できます。また、ヒゲ状に水中に伸びる根は天然のメダカの産卵床になり、メダカが卵を産み付けたらそのままアマゾンフロッグピットを隔離する という使い方もできます。屋外飼育の場合は鳥などの天敵から身を隠したり、メダカの飛び出しを防いだり、直射日光を和らげ日陰を作ったりとたくさんの良い効果をもたらしてくれます。

また、とても大きくなるホテイアオイなどと較べても小ぶりなので室内水槽でも使用できます。メダカの飼育の場合は水槽や飼育容器に底床など何も入れずに飼っている人もたくさんいますが、 アマゾンフロッグピットを浮かべておくだけでもメダカも落ち着き良い効果を与えられます。メダカだけでなく他の熱帯魚・観賞魚の稚魚やエビ類の隠れ家にも便利です。


ホテイアオイ(上)全滅 ⇒ アマゾンフロッグピット(下)に変更
 

タニシ君が全滅しちゃったよ。

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 9月14日(木)20時06分56秒
返信・引用 編集済
  汲み置き水道水をカルキ抜きして、メダカちゃん達の住居変更を繰り返しています。その汲み置き水にボウフラ(蚊の幼虫)が発生するんです。どんな水たまりでも捕食する生き物がいない状態でも水が溜まっていれば湧いてくるんですね。

メダカちゃんが稚魚の時はボウフラに食べられますが、メダカちゃんが成魚になれば格好の餌ですよ。よく観察してると蚊の卵がボウフラに孵化した瞬間、メダカの餌と化すのでボウフラが蚊に羽化するまでに生き残れる可能性はないようです。

どうです?メダカちゃんにとってボウフラは天然の活き餌となりますので非常に健康的ですよ。

話は変わりますが、10円硬貨を水槽に入れておくと銅イオン効果でボウフラを駆除・退治出来るそうですよ。3日間の汲み置き水に10円硬貨を入れておきました。確かにボウフラは沸いていませんでしたね(効果あり)。

しかし、メダカちゃんとタニシ君を移したところ・・・タニシ君はあの世行き、全滅しました(苦笑)。悪い実験をしたと後悔してます。
 

メダカちゃん、タニシ君の共同生活

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 9月10日(日)09時48分32秒
返信・引用
  ヒメタニシの繁殖は卵を産むのではなく稚貝を直接産むんだよ。

ヒメタニシは雌雄同体でなく異体であり、交尾で受取った精子を体内で保存しておくことができるんだって。精子の保存期間は環境などによっても変わるが、通常数ヶ月程度と言われている。だから雌しか居なくても次々稚貝を産み続けることがあるんだってよ、面白いね。

構造としては、受精卵を蓄えるのではなく精子を蓄える仕組みなので、雌の胎内で成熟した卵から受精させていって、交尾が一度だけであっても精子のストックがある限りは稚貝を産み続けることができるようだ。

ところが、我が家のタニシ君達は全て雄だったよ、残念なことに右側の触角がカールしてたんだ。まあ、メダカちゃんと共同生活しながら水槽のお掃除に精を出してるよ (^^♪
 

メダカを飼って早5ヶ月経過

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 9月 3日(日)13時25分3秒
返信・引用 編集済
  日中は暑い日もありますが、朝晩はかなり涼しくなってきました。すっかり秋めいてきましたね。盛夏の頃の浮き草は増殖が激しく随分除去しましたが、すっかり落ち着いたようです。

ははは・・・相変わらず、メダカちゃんの住まいの入れ替えは3日/1回続いていますよ。

5月生まれの稚魚は幼魚から2cm程度の成魚になったみたい、6月生まれのメダカちゃんも1.5cm程度と順調に育ち成魚寸前でしょう。

それに、水槽の掃除屋さん・タニシ君も2~3cm程に成長してることを報告しておきます。

 

ヒメタニシはメダカ水槽に鉄板の掃除屋さん!(^^♪

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 8月30日(水)11時14分38秒
返信・引用 編集済
  7月初め頃の散歩の途中・・・田植えの終わった田んぼで子供たちが騒いでいた。
何してるのかな?と覗いてみたら、オタマジャクシやタニシを採集していたよ(笑)。

待てよ、タニシには”水質浄化能力がある”って聞いたことがあるな。という事で小さい奴(1cm位)を5個程譲ってもらった。
ははは・・・帰宅して早速「メダカの水槽」に投げ込んだよ。効果はどうかな???

そこで、タニシを検索。

◆雌雄があるんだな。

ヒメタニシの繁殖は水槽や、飼育容器に混入してきて卵を産んで爆発的に繁殖し続けるあの嫌われ者のスネール類と違い卵胎生で、雌雄同体ではなく雌雄異体です。 メスが卵ではなく稚貝を直接産むということです。一般的に自然環境では6月~8月の時期に、約30個から40個の大きさ約3ミリから5ミリほどの稚貝を産出します。
ヒメタニシのオスとメスの見分け方は、右側の触角がカールしていればオス、カールしていなければメスと思えばわかりやすいです。

◆タニシに餌は不要なんだ。

タニシは基本的にいろんなものを食べる雑食で、デトリタス食と刈り取り食という食性がありますので 常にどこかにコケのはえている環境や魚やエビ、微生物の死骸がある、メダカ等、魚類の餌の食べ残しがあるという状態のいずれかにあれば特別にタニシ用に餌を用意することはありません。

メダカとの混泳だけに限りませんが、アクアリウムのタンクメイトふさわしいという最大の理由はその食性にあります。普通の多くの淡水貝が水底に溜まったデトリタス(水底に溜まった微生物や微生物の死骸など) を食べるデトリタス食や石や壁面に生えたコケなどを食べる刈り取り食(グレイザーという)食性をもっているのに対し、 タニシはそのほかに濾過摂食という食性をもっています。

メダカなどと一緒に飼育している場合は自然にはえるコケや藻類の他に柔らかい水草やメダカに与えた餌の食べ残しなどを食べてくれるので あまり餌の心配などはしなくていいでしょう。実際、私の飼育しているヒメタニシもメダカ水槽の掃除役として飼育していますが、 タニシ自体に与える餌を意識しなくても勝手に食べられるものを食べて元気に育ってくれています。
 

メダカちゃんの近況は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月14日(金)12時39分13秒
返信・引用 編集済
  ははは・・・一つの容器で共同生活してるよ (^^♪

・4/29購入 親メダカ(赤・白つがい)はオスが1匹ずつ残っている。
・5/27産まれ 3匹 ・・・1~1.5cmの幼魚に成長したね。
・6/17産まれ 3匹 ・・・1cm程度の幼魚に成長してるよ。
  1cm以上になると、色(赤と白)がでるね、それぞれの親から産まれたんだろうね。
・6/29産まれ 3匹 ・・・5~6mmでまだ稚魚だろうね。

もう1ヶ月もすれば、全員成魚になるんだろうね。

えっ、残り4~50匹は?
     稚魚の時近所の小川に放流したよ、元気に暮らしていると思いたいね(笑)。
 

メダカちゃんの雌雄の見分け方

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月 9日(日)15時22分55秒
返信・引用 編集済
  メダカちゃんが更に一匹減ったよ。

赤と白が一匹ずついなくなった、産卵後は多くのメダカはライフサイクルを終えると言うが・・・となれば、オスが一匹ずつ残ったという事だろうか?

そこで・・・どうやってメダカちゃんの雌雄の判別をするんだろう。。。
    ---------------------------------------------------
オス・メスを見分けるには

 ・口の向き オス・・・口が上向き

 ・背びれ  オス・・・背びれに切れ込みが入ってる
         メス・・・背びれに切れ込みがない

 ・尾ひれ  オス・・・尾びれのふちが平らで大きい

 ・尻ひれ  オス・・・尻ひれが長くギザギザしてる
         メス・・・尻ひれが短くギザギザしてない
    ----------------------------------------------------

背びれが明確だね、という事で観察してみたが、メスが死んだみたいだよ。
 

メダカちゃんが一匹死んでるよ(泣)。

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 7月 1日(土)19時23分54秒
返信・引用 編集済
  メダカの寿命ってどうなってるんかいな?

なんと通常の寿命は約1年とされているようだ。なんて短く儚い命だろう・・・・そんな短い命を飼育をする気にならないよね。しかし、人工的な飼育環境下では3~4年はあたり前のように飼育できるようだよ(ほっ)。

自然のメダカのライフサイクルを簡単に書くと5~6月に誕生し、そのまま春から夏・秋へと成長を続ける。それから厳しい冬の低温状態を冬眠状態でのりきり、動きが活発な春に産卵が始まりそこで多くのメダカは命のサイクルを終えるようだ。その時の卵が5~6月に誕生しまた次の世代のライフサイクルが始まるわけだね。

そうか、産卵後の自然死だったんだね。

それにしてもなんという短い命!だろうか、人工的な飼育下だと栄養価の高い人工餌またはミジンコ・ゾウリムシなどの餌が人間により与えられ病気になれば薬浴・塩浴などで病気を回復できるようだ。そういった恵まれた環境で育てれば自然下ではあり得ないような長寿が実現できるという。メダカの老化による運動能力の低下などがおこれば弱肉強食の自然界では即、死につながるが人工的な飼育下なら手厚い看護がうけられるので寿命が違うという・・・(納得)。
 

観賞用に飼ったつもりが・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月30日(金)11時04分41秒
返信・引用 編集済
  こんな筈じゃ~なかったよ(苦笑)。

メダカさんがどんどん増えていく、それに比例し容器も増えていくんだよ。

・親(赤・白つがい)4匹の容器、 ・・・4/21購入
・5/27産まれ稚魚用容器、・・・10mm程度に成長してるよ、幼魚かな?
・6/17産まれ稚魚用容器、・・・3~4mm
・6/29産まれ稚魚用容器、・・・1~2mm

・スペアー(週一汲み置き)交換用容器×3個(親・稚魚・幼魚用)、

もう限界だーーー
次に産まれたら、親と同居させるぞーーー可哀想だな、小川に放流するしかないかな。
 

知らぬ間に・・・駄目だねぇ~

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月29日(木)11時26分57秒
返信・引用 編集済
  あれぇ~~~・・・スペアーの汲み置き容器に・・・稚魚がワンサカ・・・。。。

またもや、知らぬ間に・・・メダカちゃんの卵がふ化していたよ。

ホテイ草を移動させた時点で、卵が付着してることに全く気付いていなかったよ。
観察をやってない証拠だね、飼うならさ、特に産卵の確認はすべきだよね(反省)。

それにしても・・・メダカさんって産卵時期には何回も産むんかいな(苦笑)。

 

メダカの成長 ~卵から孵化、そして成魚へ~

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時32分47秒
返信・引用 編集済
  2017.06.23 7~8mmに成長した幼魚は親と同居させたよ、もう喰われないみたい。

ーー「メダカの飼育方法」ーーーーーーーーーーーーーー
   http://tokuze.livedoor.biz/archives/cat_50025719.html

【メダカの卵から稚魚へ】

メダカの卵は直径が約1mm程度で、ほぼ透明。
10日ほどで卵から稚魚がふ化してくるよね。
ふ化したばかりの稚魚の体長は数mmで、しっかり探さないと気が付かないね。

稚魚用の餌又は成魚用の餌を擦り潰して、ごく少量を与えましょう。与え過ぎに注意だよ。
少しずつ成長していくが、餌を上手に食べれない稚魚は残念ながら★になります。
水温や水質のちょっとした変化でも★に至ることもあります。

【稚魚から幼魚へ】
孵化してから約1ヶ月~1ヶ月半で1cm程度に成長します。
まだまだひ弱そうな感じですが、ここまでくれば★になる確率は格段に減りますよ。

【成魚まであと少し】
さらに1ヶ月程度で2cmまで成長します。ここまで成長すれば、成魚までもう少し。
 

子供専用容器は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時27分54秒
返信・引用 編集済
  2017.06.10(土)

日増しに稚魚(1~2mm)が増えてるよ、相当産卵してたんだろうね。

親に食われず生き残ったメダカの稚魚(十数匹)は、ふ化して5~6mm程度に大きくなってるよ、体格差が明確だね。
 

メダカさんを引っ越しさせたら・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時16分8秒
返信・引用 編集済
  2017.05.27(土)

あれぇ~、何か動いているぞ???、蚊の幼虫(ぼうふら)かな?
メダカさんのエサに丁度良いかな・・・と思いつつ・・・じぃ~っと観察する。

大変だ!!!メダカの赤ちゃんじゃないか、それも20数匹泳いでいるよ。
ホテイ草にメダカさんが卵を産み付けていたんだね、全く知らんかったよ。
ベランダに汲み置き水を一週間放置してたら、ふ化してたんだ(驚き)。

それを知らずに親メダカを移しちゃったんだよ。
おやおや、大変だ!子供達がどんどん食べられているよ。

慌てて、容器を掃除し、親を元の容器に移したよ(ふぅ~)。

さぁ~て、どうしたものか? 生き残った子供達(十数匹)はどうすれば???

「容器は掃除せずそのまま飼いなさい、1~2ヶ月位は大丈夫だよ、容器に付着した水苔をエサにするからね」「親の餌を指ですり潰して少量だよ」・・メダカ屋 吉田さん談。

予備は子供専用の容器にしたから、百均にてサラダボールをもう一個購入しちゃったよ。
 

水道水のカルキ抜き

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時14分7秒
返信・引用 編集済
  ◆なぜ水道水のカルキ(塩素)抜きをするのか?

そもそもカルキを水道水に入れている理由は細菌を消毒する為です。(一見綺麗なに見える井戸水や川の水はすぐに飲めそうですが消毒されてないので・・・) 消毒されてるんだからメダカや観賞魚にもいいでしょ?と思うかもしれませんが 人間にとっては微量のカルキはただの消毒ですが塩素に対する抵抗力が弱いメダカや魚類、エビ類等にとってはエラから取り入れられた塩素で命を落としかねないほど有害です。

というわけでメダカの飼育水=カルキ抜きした水というのは絶対条件です。 水の綺麗な地域ではカルキ抜きしなくても大丈夫なこともありますが、一般的に生体のことを思えばカルキ抜きはやっておくべきです。カルキぬきした水道水は細菌が入っていない為メダカ飼育をスタートするには非常に有効な水となります。 実際のところは、正確にいうとカルキ=塩素と思われていますが、この二つは別モノです。

◆水道水のカルキ抜きの方法、カルキ抜きの時間は?

一般的に認知されているのは汲み置きして放置しておく方法です。屋内なら2~3日、屋外なら6時間以上日中に太陽光を当てながら行うことなどと言われています。

よく勘違いされそうなカルキ抜き方法ですが、例えば煮沸する場合など、沸騰するとカルキがトリハロメタン(トリハロメタンは有害です)に変わり気化されて蒸発していくようですが、 この方法だとかなりの長時間にわたりトリハロメタンの除去のための沸騰を続けなければなりません。もちろん水に含まれるミネラルなども壊れていきます。ですのでこれは現実的ではないですね。 ビタミンCを入れると塩素を中和できるという方法もありますがただ大量にビタミンCを投入すればいいというわけでもないのでこれもなかなか難しいです。

やはり水道水の汲み置きか中和剤(ハイポなど)によるカルキ抜きにたどりつくことがほとんどです。残留塩素を調べるのにオルトリジンなどの試薬を使えば残留塩素が分かりますが それを調べるくらいなら素直にカルキ抜きを使った方がいいような気もしますね。

◆一般的に水道水のカルキ抜きとういうことは、水道水の塩素を抜くことだと思われていますが正確にいうと少し違います。まずは、カルキというものはどういうものを 指すのかというとカルキは(次亜塩素酸カルシウム)で消石灰に塩素を吸収させたものでプールの消毒に使われることの多い白い錠剤を思い浮かべてもらえると良いでしょう。

次に塩素は気体であり、漂白力や殺菌力の強いものだというのはなんとなくわかっていただけると思います。 ちなみに、酸性のものと混ぜると発生する塩素ガスは毒性を持ち危険です。よく洗剤に書いてある混ぜるな危険!というあれですね。

さらに、次亜塩素酸ナトリウムというものもあり、そちらは水酸化ナトリウムと塩素で作られています。家庭用の洗剤などではブリーチやハイターという名称でも知られています。 どれも、消毒には使用されるものですが、実は現在は水道水にカルキは使用されていなく、水道水のカルキを抜くという言葉は、正しくいうと間違いなんです。 ですので観賞魚のカルキ抜きは、ほんとうは塩素の中和剤などと呼ぶほうが正しいはずですが、昔の名残りからか、消毒=カルキというイメージからか現在でも 水道水の消毒の総称のような使い方でカルキ抜きと呼ばれていることが多いのです。

水道水が乾いたときに白く残るものがカルキなんだ!と思うかもしれませんが、あれは、俗にいう水垢とされるもので、 その成分は、水道水に含まれているマグネシウムやカルシウムなどの成分が固まって残ったものなので実際は、塩素やカルキとは違うものです。
 

メダカさんに癒されてるよ (^^♪

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 6月26日(月)00時11分55秒
返信・引用 編集済
  メダカ日記を「癒し処」に移しました。参考になれば・・・

◆メダカさんって、凄く種類がいるんだな。

幹之・楊貴妃・東天紅・鳳凰・紅・イエロー・パンダ・スーパーブラック・だるまメダカ・・・・などなど・・・、初めての飼育だから一番安い奴にしたよ(笑)。

2017.04.21  メダカさんの飼育開始

・メダカ 赤2匹・白2匹(当然つがい)、100円/匹で400円

・水草(ホテイ草)80円

・飼育容器:百均のサラダボール(4~5L・透明)×2個

  ※一週毎にメダカさんの容器を掃除するので、予備としてもう1個用意したんだよ。
  予備容器には水道水を汲み置きしてカルキ抜き、それにメダカさんを移動するんだね。
  つまり、一週間毎に容器を交代させながら飼育していこうってことだよ。

・メダカの餌:これも百均

 ■ 合計:780円
 

好天に恵まれ・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2017年 2月19日(日)19時47分23秒
返信・引用
  太宰府天満宮にて満開の梅の花と戯れたよ (^^♪

本殿右側の「飛び梅」、茶屋と「枝垂れ梅」、曲水の庭の「梅の花」
                       今年の曲水の宴は03.05予定  
 

(無題)

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月16日(月)14時25分22秒
返信・引用 編集済
  >こんにちは   投稿者:一寸法師   投稿日:2016年 5月16日(月)12時01分20秒

濃姫さん「釣り」すごいですね!!!
北海道でも負けそうです。
釣り船 乗船料いくらですか???

(濃姫) こんにちは、一寸法師さん、お久しぶりです。

釣り船料金・・・貸切と乗合があり、我々は貸切(撒餌無)を利用しています。
貸切(6人乗り)近場 50.000円・・・よって、10.000円/人でした。
             中場 60,000円
             遠場 70,000円

※ご参考:漁港発5:30~ 漁場6:30~終了14:00~漁港着15:00
 

玄界灘ってホント、すごかばい! No-1

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月15日(日)16時11分47秒
返信・引用
       5/12恒例の船釣りに行ってきました。(^^♪

驚くほどの好天と仲間(5名)にも恵まれ大漁でしたよ。

全体釣果は、
ヤリイカ×27、真鯛×13(最大75cm、5kg)、めばる×22(最大39.5cm)、
あらかぶ(カサゴ)×138(最大41.5cm)、カワハギ×4、ハタ×2

悔しいかな、
濃姫だけは「ヤリイカ」は坊主。船長と仲間達からお裾分けで4ハイお持ち帰り。

No-1好天に恵まれて、No-2 真鯛75cm、5kg No-3 水深は?
 

玄界灘ってホント、すごかばい!No-2

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月15日(日)16時06分36秒
返信・引用 編集済
  No-4あらかぶ(カサゴ)本日一41.5cm、No-5メバル本日一39.5cm
 

好天に恵まれ

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月 8日(日)14時09分1秒
返信・引用 編集済
  ご近所の「武蔵寺藤まつり」に行ってきました。

 

玄界灘ってホント、すごかばい!

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 5月 5日(木)07時55分3秒
返信・引用
       明日5/6は、恒例の船釣りで、ザラバは留守しま~す(^^♪

よって、NY市場5/05、東京市場5/6の結果報告は後報します。悪しからず。

■■===■■■===■■■===■■■===■■■===■■■===■■

自宅をAM3:30に出発し5:00頃「鐘崎漁港」到着、出港は5:30頃予定ですよ。

漁場は玄界灘に浮かぶ沖ノ島(神宿る島)を中心に中間漁礁・大島・小呂島、周辺です。

毎春、真鯛やイサキにメバル、サビキ五目釣でアラカブ(カサゴ)等を楽しんでます。

今回は船長から余興で昼イカ釣り?もやってみようとのこと、通常はオモリ50~60号を使用してますが、100号オモリの準備指示、仕掛けは?で興味芯々。

さ~て、釣果は如何に??? 
 
    (管理人) 延期になりましたよ(残念)。

明日は強風波浪注意報(強風1.5~2m、大波1~2m)にて順延で~す。
 

大河ドラマ「真田丸」

 投稿者:濃姫  投稿日:2016年 1月11日(月)10時36分28秒
返信・引用 編集済
  ◆真田丸のキャスト(NHKさん、視聴率関係ないのに、豪華過ぎるんじゃないの?)

真田信繁(真田幸村):堺雅人
きり:長澤まさみ(真田信繁の生涯のパートナー)
梅:黒木華(真田信繁の初恋の女性)
真田信之(真田信幸):大泉洋(真田信繁の兄)
松(村松殿):木村佳乃(真田信繁の姉)
真田昌幸:草刈正雄(真田信繁の父)
薫:高畑淳子(真田信繁の母)
とり:草笛光子(真田信繁の祖母で真田幸隆の正室恭雲院)
小松姫:吉田羊(兄・真田信之の正室)
高梨内記:中原丈雄(きりの父)
堀田作兵衛:藤本隆(宏梅の兄)
佐助(猿飛佐助):藤井隆(真田信繁に仕える忍者)
出浦昌相(出浦盛清):寺島進(真田家の忍者を操る)
室賀正武:西村雅彦
矢沢頼綱:綾田俊樹

徳川家康:内野聖陽
阿茶局:斉藤由貴(徳川家康の側室)
本多正信:近藤正臣(徳川家の名参謀)
本多忠勝:藤岡弘(徳川家の猛将で小松姫の父)
服部半蔵:浜谷健司
石川数正:伊藤正之

織田信長:吉田鋼太郎              豊臣秀吉:小日向文世
織田信忠:玉置玲央                北政所:鈴木京香
上杉景勝:遠藤憲                  千利休:桂文枝
直江兼続:村上新悟                小早川秀秋:浅利陽介
北条氏政:高嶋政伸                加藤清正:新井浩文
北条氏直:細田善彦                片桐且元:小林隆
板部岡江雪斎:山西惇              茶々(淀殿):竹内結子
武田信玄(亡霊):林邦史朗          石田三成:山本耕史
武田勝頼:平岳大                  大谷吉継:片岡愛之助
小山田信茂:温水洋一              豊臣秀次:新納慎也
小山田八左衛門:八田浩司          豊臣秀頼:中川大志
穴山梅雪:榎木孝明                大蔵卿局:峯村リエ
木曽義昌:石井愃一
明智光秀:岩下尚史

◆登場する多くのお城(城郭)も見逃せないですね。

   新府城、岩櫃城、上原城、高島城、岩殿城、高遠城、前橋城、沼田城、
   岡崎城、二条城、安土城、小田原城、上田城、海津城、八王子城

◆知ってましたか? 昨日のド迫力冒頭シーンのお馬さん(堺雅人騎乗)は、米ハリウッドの最新技術を駆使した「ロボット馬」で、使用されるのは日本初だったそうですよ。

真田丸の全景と真田家相関図とキャスト
 

ようこそ、歴史好きの皆様方へ

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月26日(日)09時37分57秒
返信・引用
  ようこそ、いらっしゃいました、「濃姫の癒し処」へ。

当館では、コーヒー、紅茶、ケーキなどセルフサービスとなっております。

特に、NHK大河ドラマ「真田丸」に関心ある方、ご自由に閲覧ください。

   ◆第一次・第二次上田合戦(総集編・・・目録紹介)
          13項目

   ◆大阪冬の陣・夏の陣(総集編・・・目録紹介)
          15項目

   ◆関ヶ原の戦い(総集編・・・目録紹介)
          17項目

物語は皆さんが読み易いように、3編共、上から順に並び変えております。

                        癒し処館長
 

第一次・第二次上田合戦(総集編・・・目録紹介)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時08分30秒
返信・引用 編集済
  NHK大河ドラマ「真田丸」を視聴する前に・・・

******  上から順に読み易くしてますよ♪  *****


  NO-  1【真田氏一族の背景】
  NO-  2【真田幸隆兄弟と戦国真田一族】
  NO-  3【戦国以降の真田氏一族】

では、人物像「真田三代」って誰?

  NO-  4 真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは-攻め弾正-
  NO-  5 真田三代「真田昌幸」(1547~1611)とは
  NO-  6 真田三代「真田信繁(幸村)」(1567~1615)とは
  NO-  7 信繁の実兄「真田信幸(信之)」(1566~1658)とは

いよいよ、第一次・第二次上田城の攻防戦となるのだが、その前に・・・

  NO-  8 真田幸村(信繁)と徳川家康の確執

さて、ここらで《 幕間休憩 》「真田十勇士」のご紹介など。。。

  NO-  9【第一次上田合戦】とは
  NO-10 真田討伐「鳥居元忠」天文8(1539)~慶長5(1600)とは
  NO-11 第一次上田合戦(神川の戦い)の後は
  NO-12「石川数正」(1533~1593)、出奔事件の謎

  NO-13【第二次上田合戦】とは

関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信之とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
 

NHK大河ドラマ「真田丸」を視聴する前に・・・NO-1【真田氏一族の背景】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時05分44秒
返信・引用 編集済
  NO-1【真田氏一族の背景】

天狼、天を駈ける孤高の狼。戦国時代、仇敵の許で家を再興した父の跡を受けて、大名の家臣から、小粒とはいえ戦国大名となり、周囲の大大名と渡り合い、ついには天下人をも翻弄しながら己の領地を確保した漢。

秀吉を利用し独立を維持し、家康に煮え湯を飲ませた漢。息子の一人は、秀吉の遺児に与力し、大坂の陣で家康の本隊を敗走させ、一時は家康を窮地に追い込んだ。父(幸隆)と息子(幸村)で真田三代と喧伝されるその中心人物、徳川の天敵。それが真田昌幸である。

天下人に表裏比興の者と言わしめた傑物である。幸隆(幸綱)・昌幸・信繁(幸村)の三代が「真田三代」と喧伝されるが、信繁の実兄の信幸(信之)も幕府と渡り合い、お家騒動を押さえて真田家を大名として近代まで存続させる礎を築いた名君である。

真田家は、幸隆・信綱・昌幸(信綱実弟、兄の戦死後、武藤家より復籍して家督を継承する)・信幸(信之:初代沼田城主、後二代上田城主、後初代松代城主・初代松代藩主) と戦国真田家の嫡流は継承された。

信繁は部屋住のまま秀吉直臣となり、二代目上田城主継承権者となるも、関ヶ原の合戦の時には、父と共に西軍方として、徳川秀忠を上田城の戦い(第二次上田合戦)で翻弄し、関ヶ原の合戦に遅参(合戦に間に合わず)させ、家康を激怒させた。

関ヶ原では東軍が勝利し、信繁(幸村)は、父と共に上田城を追われ、紀州久度山へ配流となり、上田真田家は滅亡し、信繁が大名になる道は閉ざされた。

真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣で討ち死に、嫡男大助も大坂城で自刃するが、その死後も伝説を残す(秀頼の九州落ちの伝説や讃岐真田氏の誕生など不可解な謎を残す)。真田幸村は大名にはなれなかったが、秀吉の晩年には豊臣姓を許されているし、幸村自身の関知しないところで、豊臣秀次の血脈を残す事になる。真田家と豊臣家の不思議な縁である。

真田氏の系譜は、滋野氏の末裔とされる海野氏の傍系の可能性が高いが、真の真田氏系図や遺跡は抹殺され、正系の確定が難しい。戦国真田家は、海野流真田氏の直系ではなく、真田氏傍系の可能性も考えられる。現状では、真田幸隆以前の系譜を確定させる術はないが、少なくとも海野幸義の末裔とする説は疑問である。

【真田氏一族概略系図】 ・・・下表の通り

海野幸義の末裔とする説は、各種系図の比較分析により疑問が浮上している。疑問というより否定の方向という方が正しいかもしれない。海野氏嫡流でないとすれば、真田氏はどういう系譜なのであろうか? 郷土史家や系譜研究家の先達の研究によれば、海野氏嫡流の姻戚関係であり、鎌倉時代に海野氏から分かれたか、古代豪族の流れということになるらしい。

戦国の真田氏が幻の真田氏の直系か、或いは傍系か正確なところは分からない。推定真田氏系図に関しては、別記の「滋野氏と天狼の系譜」の「推定真田氏系図」を参照されたい。本項では、「幻の真田氏系図」を切り離した形で検討した。
 

NO-2【真田幸隆兄弟と戦国真田一族】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時03分51秒
返信・引用
  真田幸隆(幸綱)は、真田氏の中興の祖であり、戦国真田家の事実上の初代であるが、何人の兄弟がいたのであろうか。三人とも、四人とも、五人とも記され、各系図にも食い違いがある。各種系図や地元の史料などをベースに研究された先達の著書などによれば、矢沢・常田・鎌原氏の祖は、真田幸隆の弟と考えられる。

彼らの子孫は、やがて武田家への臣従を経て、真田家が独立大名となると、臣従し重臣となった。各家は、本来小土豪の系譜だが、真田氏から養子を迎え、或いは復活名跡として真田家の同族となり、近世幕藩体制下では、真田家の譜代として、真田家を支えた。萩原氏に関しては疑問な部分もあり、更なる史料の裏付けが必要であろう。

真田一族の子孫は、矢沢氏や常田氏は、武田家家臣から、真田家与力、真田家家臣となる。金井氏は、後に帰農した。真田家は、幸隆の没後、信綱が継承するが、勝頼の命により長篠合戦に出陣し、弟の昌輝と共に戦死、一年ほどの当主であった。その跡は、武藤家を継承していた昌幸が、武藤家より真田家に復籍して兄の家督を継承した。

加津野家を継承していた信昌も、時期は不明(恐らく武田家滅亡後)だが、真田姓に復帰し、武田家滅亡後は、紆余曲折を経て徳川家康に仕え、幕臣真田家の祖となる。昌幸の次兄昌輝の子孫は、越前松平家に仕えたという。昌幸以降の真田家は、戦国から近世への激流を生き抜き、信之の子孫は、大名・旗本の系譜を伝えた(表の真田家)。

弟の信繁(幸村)は、関ヶ原合戦の時には、父と共に西軍方に属し、徳川秀忠を上田城の合戦で苦しめ、西軍が敗北すると、九度山へ配流となり、大坂の陣の時には、浪人部隊として豊臣家に与力し討ち死にした。しかし、その血脈は密かに生き残った。同族縁者の助けもあり、裏の真田家(正史では、幸村の系譜は、大助の自刃で断絶)も近代・現代に至っている。
 

NO-3【戦国以降の真田氏一族】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時02分55秒
返信・引用
  戦国時代、一度は没落した真田氏は、仇敵の武田家に仕える事により、旧領回復を狙い、幸隆やその子供達は、必死で仕え、信玄の信頼を得て、信濃攻略や西上州攻略に取り組んだ。結果、領国再興の足掛かりを得、武田領内に於いて、事実上旧領を回復する。その結果、武田家滅亡後は戦国大名として独立する。

その後、周辺の大大名と渡り合い、上杉景勝との提携をきっかけに豊臣秀吉にも接近する。真田家は、家康と秀吉の思惑に振り回されるが、自立を保ち、秀吉に仕える。秀吉と家康が和解、その後の小田原征伐で北條家が没落すると、信濃の小大名は、家康の与力扱いであり、家康の関東移封により転封となるが、家康に仕えた信幸(後の信之)は、上州沼田城主の地位を家康にそのまま認められ、事実上の沼田藩が成立した(形式的には、父の領国の一部)。

父の昌幸は、家康の与力大名になる事をよしとせず、信繁(俗伝では、幸村の名で知られる)を秀吉に出仕させ、自身も秀吉の直臣となり、信州上田を中心とした本領を支配した(豊臣家直臣上田真田家と徳川家康幕下の沼田真田家に分裂)。これが、関ヶ原の合戦の時に、信之が徳川幕下に残り(東軍方)、父の昌幸と弟の信繁が、犬伏での会合の後、真田賞幸・幸村親子の上杉家討伐軍からの離脱(反徳川=西軍方と同類)となる。

結果として、上田の真田親子は徳川本軍(総大将徳川秀忠)と戦うことになる(第二次上田合戦)。しかし、この戦では、上田城は落城せず、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。関ヶ原の合戦が東軍の勝利となると、上田の真田家は改易されたが、当時の作法により、父の本領は信之に与えられ、尚かつ徳川家への忠義により加増され、上田・沼田九萬五千石の大名となる。大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して八年後、上田から松城(のち松代)へ加増の上で転封となり、永年の領国である上田領を失った。

以後、真田家は松代藩主となる。この間、沼田三藩三万石(真田信吉)(埴科藩一萬七千石=真田信政一萬石+真田信重七千石)を分封し、信之は十萬石(直轄領松代八萬三千石と埴科領一萬七千石)を支配した。埴科藩は二代で廃絶・本藩吸収で松代藩主は十萬石となる。こうして真田家は戦国大名から近世大名へと移行する。沼田藩三萬石は、その後分封藩から独立藩となるが、五代目の真田信利の時に改易となる。松代藩十萬石は生き残り幕末に至る。

松代藩真田家は外様であるが、幸貫(ゆきつら・松平定信の息子)は老中となる。先代が井伊家からの養子であったので、譜代格となり、幸貫が徳川吉宗の血脈であった事も老中就任に繋がったのであろう。幸貫は、佐久間象山を息子幸良の近習とし、幸貫が海防係となると象山を顧問に登用した。幸貫の後は、孫の幸教が家督を継承した。その後は、宇和島藩主伊達宗城の次男が家督を継承(真田幸民)、戊辰戦争では新政府軍に参加する。幸民は藩籍奉還の後は藩知事となる。

華族制度が導入されると子爵に叙され、その後伯爵に叙される。大名真田家は、昌幸の男系は絶えたが、家系は現在まで続いている。真田と言えば、幸隆・昌幸・幸村の謀将真田三代が有名だが、藩祖の真田信之も父の昌幸に劣らず謀将であり、信之が長命であったことが、お家騒動(三代目の家督争い)を乗り切り、松代藩主真田家を幕末まで存続させたのである。

関ヶ原合戦以降の真田家は、旧上田領主真田家の没落により、信之を惣領とする上田藩主真田家(上田・沼田九萬五千石)が一族の中心となる。その後、信之が松代へ転封(四萬石を加増され十三萬石余)となると、信之は松代の経営に専念(十萬石で直轄領八萬三千石)、沼田(三萬石・真田信吉)、埴科(一萬七千石・真田信政、直轄一萬石、七千石・真田信重)を分封した(沼田は半独立、後に正式に独立)。沼田藩は五代で改易、埴科藩(松代分封藩)は二代で消滅、本藩へ併合となる。

結局幕末まで存続したのは松代藩のみである。この家系は、本来の真田氏の血統は途中で断絶し、養子が継承した。八代藩主の真田幸貫(さなだ・ゆきつら)は、天狼・真田昌幸の天敵・徳川家康の末裔である。幸貫は譜代格の扱いで老中に就任した。幸貫は海防係になると、相談役として佐久間象山を登用した。

最後の藩主は伊達家より養子に入り、明治の華族制度導入で伯爵に叙される。この系譜が現代に至る。幸貫の庶子の血脈は、明治時代に男爵となる。
 

では、人物像「真田三代」って誰?NO-4真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは?

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)17時01分50秒
返信・引用 編集済
  NO-4真田三代「真田幸隆(幸綱)」とは     -攻め弾正-

真田幸隆は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。
六文銭を旗印に定めてチート一族真田氏のスタートを飾った武将であり、「攻め弾正」の異名で知られる戦国時代の智謀の士であり、武田信玄の家臣として二十四将に数えられる名将。

別名は「真田幸綱」で、長男・真田信綱との通事つながりから「真田幸綱」が本来で「真田幸隆」は隠居後の名とする説がある。「真田幸隆」の名は、孫・真田信之が初代藩主となった松代藩編集による家系図に記載されている。

幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。

出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。幸村の祖父でもある。

【生涯]

信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされている。幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541年)に同盟関係にある諏訪頼重や村上義清と共に小県へ侵攻する。同年5月の海野平合戦により海野一族は駆逐されており、幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。

武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。武田方の初見史料となる『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しており、『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたという。

一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の伝説的軍師として知られる山本勘助の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は3~400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。

近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸隆を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[5]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦で上杉勢を上野から駆逐していることから、幸隆の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸隆であったと推測している。

武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸隆の要請にもよるものと言われている(柴辻による)。戸石城攻めで幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。しかし翌天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復する。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。

この頃、関東へ進出した後北条氏は上野で上杉憲政を庇護した越後の長尾氏と対峙するが、幸隆は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている(柴辻による)。

弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。『軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、越後上杉氏との第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸隆が調停に関わっている。

永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである。

永禄10年(1567年)、病気のために家督を信綱に譲って隠居していたとされている。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺にある。肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。

【人物・逸話]
幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。

【旗印「六文銭」】

真田氏の旗印とされる「六連銭」所謂「六文銭」は、三途の川の渡し賃として遺体と一緒に埋葬するものという不吉な意味ではあるが、元々は信濃北部一帯に勢力を張った海野氏の旗印する説も出ているが、真田幸隆にまつわる逸話の中では、長野業正を頼って上杉憲政に仕えたものの、最終的には見限って武田信玄の家臣となる際に、不惜身命の決意を現す為に、自身はいつでも三途の川を渡れる準備を完了している事を明示する為、六文銭を旗印にしたとされている。

なお、六文銭の代名詞・真田信繁(真田幸村)は、「真田日本一の兵」と評された大坂の陣では、兄で徳川方の藩主を務めた真田信之の事を思って、六文銭の旗印は使用していない。
 

NO-5 真田三代「真田昌幸」(1547~1611)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時59分42秒
返信・引用
  「表裏比興の者」(後背が定かではない)の名前のとおり、ともかく生涯でアッチコッチを色んな意味で裏切りながら駆け抜けていった人物である。あまりの裏切りっぷりに昌幸が元々どこの所属だったか、敵も味方も分からなくなってしまうほど裏切りを重ねていった生涯であった。反省はしていない。なお嫌いな物は徳川家である。

【誕生】

1547年に信濃の豪族の三男として生まれる。父は元々武田に攻められて信濃を追放されて上野国の長野業正(武田信玄と敵対していたスーパー爺ちゃん)の世話になっていたのにいつの間にか武田信玄に帰服しているあたり、裏切りの遺伝子は父より受け継がれたものであろう。

幸隆長男であり兄である真田信綱、同じく兄であり次男である真田昌輝がいる。しかし兄達は立派な武者ではあったが、猪武者でおつむが弱かったために幸隆が「嫉妬に狂った昌幸の罠にかかり暗殺されないように」昌幸を武藤家に養子に出す事になる。だがこの程度で昌幸の野望が止まるわけがないのである。

【家督相続】

1574年、父の幸隆が死去する。口うるさい上に自分を養子として追放した憎っくきジジイを病気に見せかけて始末したのはもちろんの事ながら昌幸である。着々と真田家奪取作戦を遂行する昌幸の次のターゲットはもちろん自分が家督を相続するのに邪魔な兄の信綱と昌輝である。だが暗殺すればさすがにバレてしまう。

そんなこんなで1575年、長篠の戦い。昌幸はこのとき、ふとアイデアを思いつく。「俺が殺せないのなら、織田と徳川に殺してもらおう。」この戦いの前に昌幸は兄達を訪問し「織田とか徳川とかザコっしょ!アニキ達の突撃でぶっ潰してやってくださいよ!」と兄達を油断させ、さらに夜なべして作った真田家の六連銭の旗を送るのである。

これは三途の川の渡し賃である六文の銭を意味しており、「死をも恐れぬ」という事だがもちろん昌幸の本音は「とっとと三途の川を渡っちゃってください><」という事である。昌幸の期待通り、兄達は織田徳川連合軍をナメくさって何も考えずにアタマから突っ込み壮絶な犬死討死。昌幸は兄二人と父を失った可哀想な子という哀れみの眼で見られながら「計画通り」と真田家の家督奪取に成功したのである。

【御館の乱】

昌幸の野望は果てる事を知らない。当主が武田バ勝頼に代わり、有力家臣がバカスカ死んで武田家中の仲も悪くなった所を見てますます悪い事を考え出すのである。1578年、信玄と長年敵対していた越後の戦国大名上杉謙信の跡継ぎ争いである御館の乱が発生すると勝頼は北条家に依頼され、北条家一門である上杉景虎の支援を行うため上杉景勝と一戦交えるべく出兵する。しかしここで昌幸が勝頼を騙すのである。

「北条の言うとおりに支援しても儲けとかあるんですかね?」「景勝殿は味方してくれれば黄金数万を用意すると言っているらしいですぞ」おバカな勝頼はそれももっともであるなと、突如景虎を裏切り景勝に味方するのである。結果的に景虎は敗死したが、これに北条は激怒し武田はかなり恨まれ戦争になったのである。

昌幸も上野に出兵し、北条方の沼田城等を奪取するのだが、北条方にはしっかり「いやあ、今回は勝たしてもらいましたけど北条さんは強いですなあ。勝頼のアホな命令で動かされるこっちはたまったもんじゃないッスよ」とコビも売っておき、上杉には「俺のお陰っすよ。困った事があったら相談するから助けてね」と恩を売っておいたのであった。

事実、上杉は第一次上田合戦から関ヶ原に至るまで真田と付き合うハメになっている。

【武田滅亡】

そしてすっかり武田が疲弊した1582年、織田信長による武田征伐が始まる。ボロボロの武田はあちこちで敗戦を重ねついに甲府まで追い詰められてしまう。勝頼は重臣を集めどこに逃げるかを相談したが、昌幸は「ここは我が岩櫃城においでください。兵もバッチリいるし、要害だから織田が来てもボッコボコにしてやんよ」と提案し、自分は戦の準備があるからと甲府から出て行った。もちろん沈みかけた船から逃げ出したのである。

勝頼はそれももっともであると思いながらも「昌幸とかマジ信用ならないッスよ」という小山田信茂の提案である岩殿城への撤退を決めてしまう。結果は小山田信茂の裏切りと天目山の戦いによる武田滅亡である。後世の人々は忠臣 真田昌幸の提案に乗らなかった武田勝頼を哀れんだと言う。

ただし。真田昌幸から北条氏に宛てたこんな書状が残っている。
「勝頼のバカがノコノコと沼田に来たら身柄をそっちに引き渡しますからヨロシク。」

~ 武田勝頼 について、真田昌幸
嘘ばっかりのこの記事であるが、これはガチである。結果的に勝頼は来なかったのであり、ここでは昌幸の思い通りにはいかなかった。

【本能寺の変と神流川の戦い】

こうして武田は滅んだ。そして昌幸はちゃっかり織田家に本領を安堵され、織田家の関東方面軍を指揮する滝川一益の指揮下に収まっていた。

だが、本能寺の変で事態は急転する。

そして昌幸の悪企みも再びむくむくと鎌首をもたげてくるのである。織田を裏切った北条軍が迫る中、昌幸は滝川に「関東武者はわりと一途だから感謝されて戦争でも活躍しますぞ!」と、関東諸侯の人質解放を具申する。普通ならありえない選択であるが、せっぱつまった状況に、滝川はイチかバチかこれを実行!これを見た関東武者たちはやる気を見せず(そりゃそーだ)、滝川は手勢だけで戦うハメになり、神流川の戦いでボロ負け。命からがら伊勢に逃げ帰った。

そして昌幸は北条へ臣従である。昌幸の辞書には義理とか人情とかは無いのだ。その後はタヌキ・上杉・北条の間を行ったり来たりして、わずか数ヶ月の間に5回以上の主君を変えるという不義理の限りを尽くした。

【第一次上田城攻防戦】

1585年、あまりの不義理っぷりについに徳川家康がキレて昌幸の居城である上田城に対して徳川の総攻撃がかけられる。徳川軍の兵数は実に7000人と本気で真田を潰すつもりで来たのである。が、それでも真田を甘く見ていたのは家康の方である。

とんでもない山奥にある上田城くんだりまで三河武士達はヒィヒィ言いながら攻めかかったもののビクともせず、おまけに奇襲や追撃戦でとんでもない被害を出して徳川は総崩れになったうえ、昌幸が石川数正をたぶらかして豊臣に出奔させるなど嫌がらせの限りを尽くした。

また次男信繁を上杉に人質として送って、上杉家も無理矢理巻き込ませた。結果的に猿の仲介などもあり、真田はまたも本領安堵されてしまうのである。殲滅戦の増えた戦国末期に死傷者21~40人(真田)対1,300人(徳川)って何コレ馬鹿にしてんの?

【豊臣政権下】

何だかんだで上杉の傘下に収まった昌幸だったが、豊臣政権が確立されるとあっさりと秀吉に臣従する。その時に昌幸は上杉家中に居た信繁を脱走させて、秀吉への人質とした。それを知った上杉景勝は珍しく大いに怒り、秀吉に訴えたが既に後の祭りだった。

さらに長男信之をかつて戦った家康の下へ出仕させて、家康の機嫌を取った。こうした抜け目の無さから、昌幸は秀吉から「表裏比興の者」と評されたと言う。また北条が自領にちょっかいを出して来たので秀吉を利用して叩き潰したりもした、その際に抜け目無くちゃっかりと自領を拡大したのは言うまでも無い。

【第二次上田城攻防戦】

1600年、関ヶ原の戦いが勃発。昌幸は次男信繁とともに豊臣方へ、長男信之は家康から本多忠勝の娘である鬼嫁小松姫(稲姫)を娶っていたため、徳川方に組する事になる。戦争前に長男の嫁と息子達を人質にしてやろうと「孫の顔が見たいので」とノコノコとやってくるが、嫁があまりにも怖かったために断念。

「ただ孫の頭を撫でようとしたら嫁がブチ切れて触んな、このお察し下さいと言われた。その時の顔は範馬勇次郎より恐ろしかった。もし連れ帰っていたら、自分の配下どころか西軍全員が殺されていた。」と言い残している。

今回、真田に迫ってきたのは家康の息子秀忠であり、その数実に30000人以上。「さすがにこの数では負けないだろう」と家康は秀忠に中山道を進めさせたが、昌幸の悪巧みと秀忠の戦争下手、そして相変わらず上田城のド田舎さは想像以上であり、またしても真田の前に徳川軍は潰滅してしまう。

散々な目に遭った秀忠は真田を無視して関ヶ原に向かうがもうとっくの昔に東軍勝利で終っており、秀忠は家康にこっぴどくしかられるのである。これぞ幕府の黒歴史。何食わぬ顔で徳川を文治政治にしちゃった張本人であろう。

「自分も15年前に真田に負けたのに」と思った秀忠はちょっとだけ家康と仲が悪くなり、昌幸の悪企みは徳川家の家庭事情に悪影響を及ぼし、伊賀甲賀忍者衆や裏柳生剣客軍団達を使った大御所VS二代将軍暗殺合戦にまで至ったのである。

【その後】

西軍は負けたので領地没収ではあったが、長男信之の必死のお願いにより九度山に配流され生涯を終える。九度山では大人しくしていると思いきや、信繁とともに長男へ「金送れ、元大名が真田紐製造で食いつないでいるんだが?」の手紙を連発し多大な迷惑をかけている。

恐妻家の信之は徳川のスパイである小松姫に隠れながらこっそりお金を大坂の陣まで送り続けさせられ、送られたお金は酒代やらの豪遊と信繁の女遊びに使われたと言う。
 

NO-6真田三代「真田信繁(幸村)」(1567~1615)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時58分23秒
返信・引用
  関ヶ原の戦いでは父・昌幸と共に西軍につき、徳川秀忠の軍勢を上田で苦しめ、徳川、豊臣手切れとなって行われた大坂の陣では冬の陣で大坂城南に出城(いわゆる「真田丸」)を築き、そこで防衛戦を行い、徳川方に大きく被害を与え、続く翌年の夏の陣では終盤徳川家康の本陣へ突入し、それに対し家康は大きく後退し逃げ切り、疲労がたまったところを松平忠直配下の足軽に討たれたとされている。

【大坂入城までの動き】

本名は真田信繁。幼名は弁丸、通称:源次郎。真田昌幸の次男である。(兄弟は兄・信之、弟の昌親、信勝がいたといわれる) よく知られる幸村の名は江戸時代以降、講談などで広まったもので、信繁の生前の頃の資料には幸村の名で書かれたものは一通も無いのだが、時代が下り幸村の名の方が知られる頃になると幕府編纂資料や兄・信之の子孫が治める松代藩の正史にまで「幸村」が採用されるようになる。

真田家は元は武田家に帰属する国衆であったが武田家が織田信長に滅ぼされた後は織田家に恭順し、織田信長が本能寺の変にて横死し甲信地方が勢力の空白地帯と化した後は上杉家に帰属し、信繁は上杉の人質として置かれる事となったがその後独立大名として自立し、その後は豊臣家に服属して豊臣家への人質として大阪に移り置かれ、この頃に秀吉家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎え従五位下左衛門佐に叙任される。(関が原以前の信繁の動向にはあまり目立ったものは無い働き盛りの時代に妻子連れてのニート状態だった。)(兄・信之の妻は本多忠勝の娘小松姫)

1600年の関が原の合戦では徳川方の武将(本多忠勝)の娘(小松殿)を嫁に貰っていた兄・信之と袂を分かち、父とともに豊臣側に付き、居城・上田城にて徳川秀忠率いる3万8千の主力を釘付けにし関が原の戦いに遅参させる結果を生み出す。

結果的には徳川側の勝利となり昌幸と信繁は敗軍の将となり切腹または斬首となってもおかしくなかったが、徳川方に付いた兄・信之と本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流されるにとどまったが、徳川と豊臣の対立が抜き差しならなくなった頃、生命を救われた恩を仇で返し父・昌幸の旧臣に参加を呼びながら長男・大介(真田幸昌)と共に九度山を脱出し大阪城へ入る。

後世の創作作品影響から、戦功が過剰にいわれる事が多いが、大坂の陣以前の真田氏による戦い(上田城での2度に渡る徳川軍の撃退など)の殆どは父・昌幸の主導によるもので、信繁が活躍したとする文献はほとんど存在しない。よって当時は「真田」と言えば昌幸もしくは信之を指すのが常識で、創作では幸村入城の知らせを聞いて「親の方か、子の方か」と家康が問いただし、子(幸村)の方だと聞き安堵したというのはこれが元になっている。

【大坂の陣において:冬の陣】

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では積極策を主張し諸将にも賛成されたが、軍権を持つ大野治長らに反対され受け入れられず、篭城決定後は大阪城の唯一の弱点といわれた三の丸南側に「真田丸」と呼ばれる出城をつくり、越前松平や加賀前田を撃退し全国諸将に真田信繁の名を知らしめた・・・・・・が、大阪冬の陣は講和成立後
に真っ先に破却される事となる。この直後、徳川方から10万石で勧誘を受けるが拒否している。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では後藤基次隊を打ち破った伊達政宗隊を撃破・後退させる戦果も挙げたが味方武将が相次ぎ戦死・討ち死にしていき疲労の色も濃くなる中、家康本陣めがけての大突撃戦を敢行して本陣に肉薄し家康は武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目の本陣馬印を倒され、自害を二度覚悟したほどだったが軍勢に勝る徳川勢に追い詰められ四天王寺近くの安井神社(大阪市天王寺区逢阪1-3-24)の境内で討ち取られた。享年49。

当初、大坂城に入城した際も兄信之が徳川方の大名だったこともあり大坂城内でも疑惑の目で見られるなどほとんど信用されなかったが、それ以前に武将としての実績が乏しかったからでもある。後藤又兵衛などとともに5人衆の扱いを受けてはいたが、これは信繁が元大名真田昌幸の血筋を引く者としての評価である(当時は何より血筋や格式がモノを言った時代である)。開戦前、大坂方主脳部の考える籠城策には反対し、出撃策を主張したが、退けられる。

また各種創作作品で見られるような、大坂方の軍事方面における総大将や軍師級の扱いを受けていたわけではなく、あくまで総兵力数万いる中での数千人規模の一方面の中級指揮官でしかなかった。

なお後述の夏の陣も含め、信繁は真田の代名詞でもある六文銭の家紋を旗印に使わなかったとされる。これは敵である徳川軍に参戦した信繁の甥にもあたる、信之の子の真田信吉らにはばかったものとされる。

【大坂の陣において:夏の陣】

夏の陣では緒戦の「道明寺の戦い」において伊達政宗軍を破り後退させているが、同戦いでは後藤又兵衛を戦死させており、この原因については真田隊の到着が遅れたためともされるが、一方で後藤又兵衛が信繁らの到着を待たずに戦端を開いたためともされ、敗因の責任についてははっきりしない(主脳部の作戦ミスともあるが、これについて言えば信繁には戦略的主導権はない)。この際、切腹を口にして、毛利勝永に止められている。

どちらにしても大坂方の戦況が俄然不利になったのは確かで、信繁ら豊臣方は家康の首を取ることに起死回生を図った。

最後の決戦となった「天王寺の戦い」において、まず大坂方は総大将豊臣秀頼の出陣を促して全軍を鼓舞させようとしたが、出撃は叶わなかった。この戦いにおける主な作戦は「敵の主力を引きつけて、戦線を出来るだけ伸ばして家康本陣を手薄にして本陣を急襲して家康を討つ」というもので、当初家康を討つ役割に充てられたのは信繁でなく明石全登であった。

しかしここにおいても諸隊の連携がうまくいったとは言えず、作戦開始前に戦端を開いた毛利勝永隊らの奮戦から思いもかけない混戦となり、結果として家康の本陣を急襲する役割となったのは信繁や勝永となった。しかし、家康の本陣を大混乱に陥れたものの、肝心の家康の首を挙げることはかなわず、信繁は疲労して休んでいる所を襲われ討たれるのであった。

同日、大坂城は炎上、翌日秀頼と淀殿は自害し(信繁の長男大助もそれに従い自害)、大坂の役は終わっている。

【死後】

信繁の子孫は信繁と共に九度山から大阪城に入り、豊臣秀頼らと共に自害した大介幸昌の他、片倉重長(2代目小十郎)に保護され、伊達政宗が実在しない真田家の武将の子と偽証までして保護した仙台藩片倉家家臣片倉守信、外祖父豊臣秀次の旧姓である三好姓を称した出羽国亀田藩士三好幸信、九度山で生まれ父信繁・兄幸信の死後に讃岐に脱出し讃岐国弘城(細川屋敷)主の細川(石田)民部大輔国弘の養子となったと言われる石田之親らがいたと言われ、その中で次男片倉守信の子・辰信が将軍家により真田の名を名乗る事を許されて復姓し「仙台真田家」として信繁系の真田の名を現代まで存続させており、賊軍の将の子としては破格の待遇を各所で受けることになる。

(余禄:仙台真田家の家督は途中で伊達家一族大條氏が養子に入っており、また兄信之の本家の方も伊予宇和島伊達家から養子を入れて家督を継がせるといった具合に両方の真田家とも伊達の血が入っている)

【評価】

「真田幸村」としての知名度もあって、過大に評価されているという声も大きいが、大坂の陣で圧倒的兵力の徳川勢を相手に僅か数千の兵で怒涛の攻勢を掛け、家康の本陣にまで斬り込むという神懸かり的な武力を発揮したのは紛れもない事実であり、島津忠恒が信繁を「日本一の兵(つわもの)」と評したのも紛れもなく史実に基づく事実である(ただし、島津忠恒は直接には大坂の陣には参加してなく伝聞によるもの)。

いずれの評価も同時代や後世の人間による評価であり、信繁自身が他人の功績を盗んだというわけでは無いが、毛利勝永らの評価が霞んだことには当時から批判の声が上がっている。

その性格は信之の言葉によると「物静かで怒る事は少なく、柔和で辛抱強い」という、勇猛な武将のイメージとはかなり違う。ただし、子供の頃に失敗した家臣を追いかけまわした挙句殺したという話もある(信之にも似た事例があったが、信之は家臣を許している)。

なお、大坂の時には出家していた為、丸刈りだったらしい。 背は小さく、大阪城入城時は髪の毛も禿げかけており、残った頭髪は白髪混じり。歯も抜けた冴えない風貌であった。
 

NO-7 信繁の実兄「真田信幸(信之)」(1566~1658)とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月25日(土)16時56分2秒
返信・引用
  気苦労を背負いこんで万全に処理する事に定評のある戦国時代のチート一族真田氏の一人であり、祖父・真田幸隆、父・真田昌幸、弟・真田信繁(真田幸村)ら華々しい活躍に定評のある一族中でも地味ながら、信濃国上田藩そして松代藩の初代藩主として、明治まで続く松代藩真田家の基礎をつくりあげた真田家最大の功労者。嫁は本多忠勝の娘・小松姫。

93歳の長命を誇り、徳川家光の嫌がらせもあって90歳まで現役の松代藩主を勤め上げたチート爺でもあり、智謀がチートの真田幸隆、全体的にチートな真田昌幸、戦闘面でチートな真田信繁(真田幸村)に対して、寿命がチートである。

【人質生活】

信濃国上田のチート一族最強武将・真田昌幸の長男に生まれる。弟は真田幸村の中の人・真田信繁。

※真田信之は別名源三郎に対して、弟・真田信繁は源次郎な為、実際の兄弟順は逆だったのではとの説もあるが、当時、長男の名前を次男より下にすることで長男に降りかかる災厄から避ける意図によるものとされている。

すでに幼少時から迷惑事を背負わされて確実に処理する運命にあったらしく、父・真田昌幸が武田信玄に臣従していた事から武田家にて人質生活を送り、武田勝頼の嫡男で最後の甲斐武田家当主・武田信勝と同時に元服し、武田信勝から一字をもらって「真田信幸」と名乗った。武田家滅亡後は上田に帰るも、父の駆け引きにより、徳川家康の人質になったりした事があった。

その後、領地を巡る争いから徳川家康と真田昌幸の間で起こった上田合戦の際に、よくある賢弟愚兄な評価をする人は、真田幸村を美化しすぎといわんばかりに父の片腕として活躍し、その器量を本多忠勝や徳川家康に認められ、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女として妻に娶り、徳川家康の縁者となった。

※夫婦仲は良く、妻を亡くした際には「我が家から光が消えた」と大変嘆いたという。

【関ヶ原の戦い】

関ヶ原の戦いに際しては、犬伏の別れにて父と弟が石田三成率いる西軍につき、徳川家康の与力だった真田信之は東軍につき、真田嫌いに定評のある徳川秀忠と共に第二次上田合戦に参加して、父や弟と戦った。なおこの戦いでは、真田昌幸の前に関ヶ原の戦いに徳川二代目でありながら大遅刻するという失態を演じた事が、徳川秀忠を真田嫌いにしたといわれている。

終戦後、敗軍の将となった父と弟に対して上田合戦で煮え湯を飲まされた事や後継者の徳川秀忠に重大な失点をつけた事から処断を決めていた徳川家康に対して、自らの戦功・領地そして命までをも投げ出して助命に走る姿が諸将の同情を引き、舅の本多忠勝も

「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る」

と家康に啖呵を切った事から、父と弟は九度山への流罪となった。その後、自らが領主を務めていた沼田と父の所領上田を加えた上田藩の藩主となり、空気を読んで名を「真田信之」と改めた。

その後も真田家存続を第一に徳川家へ忠勤に励みながらも、良妻・小松姫の協力もあって、藩費ではなく、自費で九度山の父や弟への支援も続けた。

【真田家存続第一】

徳川幕府が二代目・徳川秀忠の代となると、真田嫌いに定評のある徳川秀忠からのいじめが始まる。真田信之本人は病で参加できなった大坂の陣において、弟の真田信繁が豊臣方として大活躍した事から、真田信之は内通を疑われて取り潰されそうになったところを、父ゆずりの老獪さで渡りきった。

その後、真田氏の父祖の地である上田から、河川の氾濫などにより痩せた土地だった信濃国松代へ左遷同様の転封となり、同じ外様大名の仙石忠政が上田入りすることとなった。

真田嫌いに定評のある徳川秀忠からの命令もあって、やむなく父祖の土地を離れる事とした真田信之だが、その際に、藩政に関する書類全てを焼き払い、上田城の灯篭や植木を持ち去った。

藩政に関する資料の損失により、後任の仙石忠政は、真田ひいきの土地で苦労する事になる。

温厚で知られる真田信之が、いやがらせにも近い行為を行った事について、本多忠勝の実の娘で、徳川家康の養女として娶った小松姫の嫁ぎ先である真田家が、同じ外様で格下の仙石家に父祖の地を奪われる事に、幕府に対する腹立たしさを無言の抵抗として行ったのではとする説がある。

そして真田信之は、良妻・小松姫の倹約により蓄えていた20万両にも及ぶ蓄財と共に松代入りし、その後三代まで続く財力で松代藩を立て直して、明治維新まで続く藩の基礎を築くのだった。

【現役最高齢大名】

幕府が徳川家光の代になっても真田家へのいじめは続き、真田信之は、すでに跡取りの真田信政が60歳を越えているのに、伊豆守(真田信之)は天下の飾りであるとして徳川家光から隠居させてもらえずにいた。

念願かなって隠居したものの、後を継いだ真田信政は高齢により2年後に死去し、真田信政の後継候補の真田幸道と沼田城主真田信利との間で後継者争いが起こり、当時から家中の失態を見逃さずに取り潰す幕府と駆け引きしながら、真田信利を独立させる事で松代藩は真田幸道が継ぐ事が決まったものの、この時真田幸道は
まだ2歳だった為、隠居していた真田信之が現役に再度復帰する事となった。

そして1658年、先に旅立っていた愛妻・小松姫の元へと旅立った。享年93歳。

【賢弟愚兄に非ず】

真田家には、「吉光のお長持」という逸品が代々伝わっていた。

家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がつく程だったが、江戸幕府が倒れていじめっ子がいなくなった明治になって開封した際、とんでもないものが入っていた。

中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされていたが、その実は、石田三成からの書状等の、当時露見していたら確実に徳川家康に取り潰されていたであろう証拠の書類の数々だった。

温和な人物で、時に「真田日本一の兵」の武名を残した弟・真田信繁(真田幸村)との偏った比較から、賢弟愚兄とされることのある真田信之だが、危険な証拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、仇敵徳川家に対する反骨精神のあらわれと考えられ、真田信之もまたチート一族「真田」の血の者であったと言うことであると思われる。

さすが、家名を守った最大の功労者はその中身も一味違っていた。
 

いよいよ、【第一次・第二次上田城攻防戦】となるのだが・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)20時57分25秒
返信・引用 編集済
  その前にNO-8「真田幸村(信繁)と徳川家康の確執」
                            知らねばならない。

武田家が滅亡した後、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)の豪族・真田昌幸は、織田信長→上杉景勝→北条氏政→徳川家康と寝返り、領土を守りながらも、混乱に便乗して上野国西部の吾妻郡から上野西部の沼田までを領土化した。

その後、対立していた徳川家康と北条氏直が和睦する。この和睦の条件が、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏直の領土とするという条件だった。

このため、徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野(群馬県)の吾妻・沼田の引き渡しを求められたが、代替地を与えられていない事を理由に吾妻・沼田の引き渡しを拒否した(真田昌幸の沼田領土問題)。

徳川家康と真田昌幸の関係は険悪になりつつあったが、徳川家康は真田幸村の沼田領土問題を黙殺して、信濃北部を支配する上杉景勝との決戦を挑もうとしていた。

■室賀正武の降伏のあらすじ

天正11年(1583年)、信濃国小県郡真田郷(長野県上田市真田町)を拠点とする真田昌幸は、信濃国小県郡(長野県上田市)の反徳川勢力を駆逐して、信濃国小県郡の大半を平定した。

一方、信濃国佐久郡にある春日城の城主・依田信蕃は、佐久郡の反徳川勢力を撃破し、佐久郡の大半を平定したが、天正11年(1583年)2月に岩尾城を攻めたさい、鉄砲で撃たれて死亡してしまう。

天正11年(1583年)3月、徳川家康は上杉景勝が支配する信濃北部への侵攻を命じ、同年4月には徳川家康が甲府に布陣する。

天正11年(1583年)9月、徳川家康は信濃国へ出向いて、信濃国の仕置きを行い、真田昌幸は本領を安堵された。

さて、真田昌幸は信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武と対立しており、真田昌幸は徳川家康から本領を安堵されると、対立する室賀正武への圧力を強めた。

すると、室賀正武は不本意ながらも和睦を願い出たので、真田昌幸は室賀正武との和睦に応じた。

■真田昌幸の上田城のあらすじ

さて、真田昌幸が支配する信濃国小県郡上田(長野県上田市)に尼ヶ淵の古城(尼ヶ淵城)があった。

尼ヶ淵城は信濃国(長野県)の交通の要所だったので、真田昌幸は尼ヶ淵城を信濃北部へ侵攻する拠点にするという名目で、徳川家康の兵を借りて尼ヶ淵城を大改修を開始する。

こうして完成するのが、真田家の居城となる上田城で、一説によると、真田昌幸が上田城と名付けたことにより、この地域を「上田」と呼ぶようになったという。

(注釈:徳川家康は信濃北部侵攻を狙っていたので、尼ヶ淵城の改修を大いに支援した。実質的には徳川家康が上田城を普請し、真田昌幸に与えたことになる。)

さて、真田昌幸が上田城の普請を開始すると、上杉景勝は上田城の普請を阻止するため、上田城の北西部にある虚空蔵山城に兵を集結させ、上田城を攻めようとした。

しかし、徳川側の松本城の城主・小笠原貞慶が、その隙を突いて上杉景勝の青柳城を攻めたため、上杉景勝は青柳城の援軍に向かった。

このため、上杉景勝の上田城攻めは中止となり、真田昌幸は徳川家康の力を借りて天正12年(1584年)に「上田城」を完成させると、上田城を居城とした。(注釈:これまでは戸石城を居城としていた。)

上田城は信濃(長野県)の交通の要所で、平地に築かれた平城だったが、当時では珍しい総構えを有し、千曲川や湿地帯などを利用した要害である。

こうして、真田昌幸は信濃北部侵攻を口実に、徳川家康を利用して上田城を手に入れたのである。

■徳川家康と豊臣秀吉の対立

織田信長の後継者となった豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、織田信雄(織田信長の次男)と対立を深めていた。

徳川家康は織田信雄(織田信長の次男)を擁立して、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立し、四国の長宗我部らと同盟を組んで、豊臣秀吉(羽柴秀吉)を封じ込めようとした。

徳川家康は「小牧・長久手の戦い」で勝利して優勢にあったが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)は政治力を駆使して織田信雄(織田信長の次男)と和睦に持ち込んだ。

このため、徳川家康は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と戦争をする大義名分を失い、停戦したものの、徳川家康と豊臣秀吉(羽柴秀吉)は一触即発の状況に合った。

そこで、徳川家康は早急に、北条氏直との同盟を強化し、背後の安全を確保する必要に迫られた。徳川家康は2方向の敵と戦うほどの余裕は無かったのである。

以前に徳川家康と北条氏直が和睦したとき、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡するという条件が交わされた。

このため、上野国の吾妻・沼田領を支配する真田昌幸は、徳川家康から吾妻・沼田領を北条氏直に引き渡すように求められていたのだが、真田昌幸は徳川家康から代替地を貰っていない事を理由に引き渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。

徳川家康は、上杉景勝の信濃北部へ侵攻するため、この「沼田領土問題」を黙認していたのだが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立したため、

ところで、徳川家康と北条氏政が和睦したさい、和睦の条件として、北条氏政は甲斐国(山梨県)都留郡と信濃国(長野県)佐久郡を徳川家康に譲渡し、徳川家康は上野国(群馬県)沼田を北条氏政に譲渡することが決まり、領土交換が行われた。

徳川家康に属していた真田昌幸は、徳川家康から上野国(群馬県)の吾妻領・沼田領を北条氏政への引き渡しを求められたが、徳川家康が代替地を用意できなかったため、引き渡しを拒否し続けていた。

徳川家康は真田昌幸と険悪な関係になりつつあったが、信濃国(長野県)北部を支配する上杉景勝との対立もあるため、沼田領土問題を黙殺していた。

徳川家康は北条氏直から吾妻領・沼田領の引き渡しの督促を受けていたこともあり、豊臣秀吉との対立を切っ掛けに、北条氏直との同盟を強化するため、真田昌幸の沼田領土問題の解決に乗り出したのである。

そこで、徳川家康は大久保忠隣を派遣して真田昌幸に上野国吾妻領・沼田領の引き渡しを命じたが、真田昌幸は断固として拒否した。

■室賀正武が真田昌幸を暗殺

ところで、信濃国小県郡にある室賀城の城主・室賀正武は、不本意ながら真田昌幸に属していたので、徳川家康に真田昌幸への不満を漏らしていた。

そこで、天正12年(1584年)6月、徳川家康は室賀城の城主・室賀正武に「謀りごとを持って真田を討つべし」と、真田昌幸の暗殺を命じた。

しかし、室賀正武の家臣・室賀孫右衛門が真田昌幸に内応していたので、この命令は真田昌幸の知るところとなる。

これを知った真田昌幸は囲碁の観戦を口実に室賀正武を上田城に招くと、室賀正武の家臣・室賀孫右衛門に命じて徳川家康に報告させ、室賀正武は徳川軍を上田城に引き入れる計画を立てた。

しかし、室賀孫右衛門は既に真田昌幸に内通しているので、室賀正武の計画は上手くいかず、室賀正武は上田城に入ると、真田昌幸に処刑された。

室賀正武の死によって信濃国小県郡で真田昌幸に対立するような勢力は全滅し、真田昌幸は信濃国小県郡を完全に支配するようになる。

■真田昌幸が徳川家康に激怒

天正13年(1585年)4月、真田昌幸の暗殺に失敗した徳川家康は、大軍を率いて甲斐(山梨県)へ入ると、大久保忠隣を使者に送り、軍事力を背景に、真田昌幸に上野国沼田の明け渡しを求めた。

しかし、真田昌幸は「沼田は徳川家康から拝領した領地ではなく、自ら切り取った領地である。徳川家康に忠義を尽くした恩賞は未だに無く、代替地も得ていない。にもかかわらず、沼田を北条に渡せというのであれば、これ以上、徳川家康に忠義を尽くす必要は無い」と拒否した。

これは事実上の断交宣言で、これ以降、真田昌幸は越後(新潟件)の上杉景勝との交渉を本格化させたが、真田昌幸は過去に上杉景勝から北条氏直に寝返った経緯があるため、簡単に上杉景勝の信用は得られなかった。

しかし、粘り強い交渉の結果、上杉景勝は人質を出す事を条件に、天正13年(1585年)7月に真田昌幸の帰属を認め、本領安堵などを約束する9ヶ条の起請書を送った。

(注釈:真田昌幸は信濃国小県郡から上野国の吾妻・沼田にまで支配が及んでいることから、真田昌幸を大名として扱う説がある。真田昌幸を大名として扱う場合は、真田昌幸は上杉景勝に帰属したのでは無く、対等な同盟関係を結んだと考えられている。)

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さて、ここらで《 幕間休憩 》「真田十勇士」のご紹介など。。。

真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のこと。あくまで伝承上の架空の人物といえるが、歴史的な由来を持つ人物もいる。

立川文庫以来、基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人となっているが、作品によって差異が見られる。

原型は、江戸時代中期の小説『真田三代記』に見られるが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫である。以後の「ヒーローとしてのイメージ」は、立川文庫という創作物によって定着した。

現在に至るまで、多くの派生作品が制作されており、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されている。

実在を唱える説、実在の人物がモデルであるとする説もある。真田氏の領地付近に戸隠流忍術の戸隠の里があり、そこから真田イコール戸隠忍者の主人との考えから生まれているという考えもある。

【十勇士の成立】

「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物『難波戦記』である。元禄期には小説『真田三代記』が成立し、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。この『真田三代記』において猿飛佐助と望月六郎をのぞく8人の原型が登場し(筧十蔵、霧隠才蔵の元になったと思われる筧十兵衛、霧隠鹿右衛門が記載されている)、「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなった。明治後期の講談は神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演速記本が書き残されている。講談師たちは『真田三代記』にはない忍術つかいの「猿飛佐助」を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていった。

1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって講談を読み物として再編集したもので、その後の大衆文学に大きな影響を与えた。

この立川文庫において、『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、
1.『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(第40編、1914年)
2.『真田三勇士由利鎌之助』
3.『真田三勇士忍術名人霧隠才蔵』(第55編)

を「真田三勇士」とする三部作が創られた。次いで『真田家豪傑三好清海入道』など、真田家の豪傑の逸話をあつめた作品が刊行され、のちに『真田十勇士』が刊行された。立川文庫は人気作品となり、新しいメディアである映画でも忍術使い猿飛佐助を中心とする作品群が作られた[2]。今日の真田十勇士という枠組みは、ここに起源を持っている。

【猿飛佐助】

猿飛 佐助は、真田十勇士でも屈指の実力と人気を持つ。架空の忍者といわれているが、モデルになった人物には、木下藤吉郎家臣の猿飛仁助の子孫、上月佐助、三雲佐助賢春の名が上がっている。

【霧隠才蔵】

霧隠 才蔵は、「霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者」とされる。

伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされている。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、その中でキャラクターが構成されたと考えられている。真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、主役を務めることもある。

【三好清海入道・三好伊三入道】

この兄弟は、『真田三代記』では出羽国亀田の領主出身、立川文庫では三好氏出身の破戒僧と設定されている。

三好清海入道のモデルは、大坂の陣において豊臣方で討死した三好政康(入道名・清海)と考えられている。政康の弟の三好政勝(法名・為三)が伊三入道のモデルとされるが、史実の政勝は徳川方について大坂の陣に出陣した。いずれも80代という高齢での出陣であった。

なお、信繁と側室・隆清院(豊臣秀次の娘で、三好吉房の孫)の間に生まれた三好幸信は父の死後、亀田藩に仕えており、この史実が『真田三代記』の記述にも影響している。

【穴山小介(穴山小助)】

『真田三代記』によれば、「武田旧臣の穴山信君(武田氏の家臣)の縁戚」と言われる。十勇士の穴山小介は、「史実の彼を元にしている」という説と、「創作された架空の人物」という説がある。

生没年、出自など永禄11年(1568年)? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))穴山信光の長男。名は安治とも伝わる。通称、岩千代。号は雲洞軒。実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。真田幸村の家臣。役割、最期大坂夏の陣(1615年)において幸村の影武者を務め、戦死したとされる。

【由利鎌之介】

『真田三代記』にも、由利鎌之介の名で登場する。講談本の立川文庫には、『真田三勇士 由利鎌之助』の巻がある。十勇士の由利鎌之介は、「史実の彼を元にしている」という説と、「創作された架空の人物」という説がある。鎖鎌の名手。

生没年、出自など天正元年(1573年)? - 慶長20年(1615年)?)名は基幸とも伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。真田氏との関係本来は真田氏と敵対していた。真田昌幸・幸村親子を繰り返し狙っていたが、幸村に捕まり、それをきっかけに家臣となったという。以後、真田親子の配下として戦闘で功績を挙げた、と言われる。最期「大坂の陣以前に死んでいた」とも言われ、また「大坂の陣で討ち死にした」とも言われる。

【筧十蔵】

『真田三代記』では筧十兵衛の名前で登場する。火縄銃の名手。十勇士の筧十蔵のモデルは、筧十兵衛、又は筧金六郎、あるいはその息子と言われる。また、「創作された架空の人物」という説もある。

生没年、出自など天正元年(1573年)? - 慶長20年(1615年)?)姓名は筧十兵衛とも伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍豪胆な性格だったといわれる。針などを使いこなし、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめた、と伝えられる。最期夏の陣で戦死したとされるが、実態は不明。「九州落ちに同行した」と、兵庫の一部地域の筧家には伝わっている。十蔵の父父の筧虎秀は真田昌幸の家臣であったが、当初は足軽でしかなかった。丸太を使って敵軍の囲みを破った功績により大将に出世し、家来を持てるようになったと言われている。子孫真田側についた筧家は九州から兵庫に多く、家康側についた筧家は静岡や関東全域に多いとされている。

【海野六郎】

『真田三代記』には、海野六郎兵衛利一として登場する。十勇士の海野六郎のモデルとしては、他に海野小平太の名も上がっている。

生没年、出自など元亀2年(1571年)? - 慶長20年(1615年)?)海野輝幸の三男と伝わる。実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍、最期大坂夏の陣では、幸村の命で敵軍にニセ情報を流し、大いにかく乱したと言う。夏の陣で戦死したという説があるが、実態は不明。真田氏との関係真田氏は東信濃小県郡の海野氏の出身とされるが、海野氏直系が絶えた後、城代や家老級の重臣に海野姓を与えている。従って、海野姓であっても、真田一族に連なっている保証は無い。幸村の家臣になった経緯次のエピソードが伝わっている。海野六郎は出雲阿国の歌舞伎踊りが好きで、ある日、それを見に行った。そして六郎が一緒に踊ったところ、その演出に幸村が感激したため、影武者役に任命したという。

【根津甚八】

モデルについては、禰津小六、浅井井頼などがある。

生没年、出自など永禄12年(1569年)? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))通称、小六。諱は貞盛。実在の人物と言われている一方で、実在を疑う声もある。真田幸村の家臣。活躍、最期水軍の指揮に長けた人物とされている。大坂の陣で真田幸村の影武者として討ち取られる。真田氏との関係真田家は海野氏の出自を名乗っている。根津甚八の出自については、その海野氏と同じ滋野三家の一つである禰津氏(根津氏)の禰津政直の子とする説や、浅井長政の子を自称する浅井井頼とする説などがある。禰津氏は諏訪神党に属する神氏であることから、「根津神八」とする事もある。

【望月六郎】

爆弾製造に長けていた。『真田三代記』では、望月卯左衛門幸忠として登場する。モデルは望月宇右衛門、望月甚左衛門、望月卯兵衛、望月卯左衛門幸忠など、諸説あり。

生没年、出自など元亀3年(1572年)? - 慶長20年5月8日(1615年6月4日)実在の人物と言われている。真田幸村の家臣。活躍、最期大坂の陣では、幸村の嫡男・大助配下となった。敵を情報でかく乱させ、さらに武力を行使して徳川方を尼ヶ崎に敗走させた、と伝えられている。同年、大助に殉死したと言う説もあるが、実態は不明。真田氏との関係真田氏は、海野氏(東信濃の名族、滋野氏嫡流を名乗る)の出自。一方、望月氏も滋野氏から分かれており、佐久郡望月を拠点とした一族である。このことから、望月六郎も同族出身の可能性がある。
 

NO- 9「第一次上田城の決戦」

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時39分45秒
返信・引用 編集済
  ●籠城の背景と真田家の立場

上州真田家は天正10年(1582)武田家滅亡後、家名存続のために 織田信長~北条氏直と主を変えて後、徳川家康に仕えていました。同六月、信長が本能寺にて死後、徳川家康は旧武田領の甲斐(山梨県)へと侵攻し、相模(神奈川県)の北条氏直と対立した。信濃は上杉・北条・徳川が三つ巴で争う場となります。

徳川家康は本能寺の変後、勢力拡大と三方ヶ原合戦で失った多くの家臣の穴を埋めるために武田旧家臣団の吸収に努めていました。故に北信濃の要衝を押さえる真田家に好意的だったのです。

真田家当主安房守昌幸は北条家に臣従しましたが、やがて北条家との関係は立ち行かず、この和議で、甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)は徳川家康の領土とし、上野国(群馬県)は北条氏政の領土とすることが決まった。

甲斐・南信濃での徳川家康の経略が優れていたので、昌幸は同10月、大久保忠世・依田信蕃を仲介に徳川家に臣従します。

徳川家康に帰属した真田昌幸は、この講和条件により、上野(群馬県)の吾妻・沼田の明け渡しが迫られたが、真田昌幸は代替地を貰っていない事を理由に吾妻・沼田の明け渡しを拒否していた(真田昌幸の沼田領土問題)。

昌幸は織田信長の信濃仕置き以来、本領である小県を支配の中心として上田城築城を家康に打診します。当時、家康は上杉景勝の北信濃侵攻を阻止するため甲府まで出陣していました。昌幸の上田城築城の申し出は家康にとって信濃防衛に好都合であり、周辺城主達にも築城を援助するよう取り計らいます。

代替地を与えられない徳川家康は、真田昌幸の沼田領土問題を黙殺していたが、「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立した事を切っ掛けに、後方の安全を確保する必要に迫られ、北条氏直との同盟を強化する必要が出てきた。

家康は北条家に和の代償として、当主:昌幸に無断で真田家の沼田城を北条家に割譲する約を結んでしまいます。昌幸はこの家康の処遇に激怒。

徳川家康は、室賀城の城主・室賀正武に真田昌幸の暗殺を命じたが、真田昌幸は室賀正武の家臣を味方にしていたので、室賀正武の暗殺計画は全て真田昌幸に筒抜けになっており、室賀正武は真田昌幸に処刑されてしまう。

そこで、徳川家康は天正13年(1585年)8月、真田討伐を発動したのであった。

●第一次上田城の戦い(神川の戦い)

天正13年(1585年)8月、徳川家康は真田討伐に鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら7000の軍勢を派遣した。徳川家康は出陣していないが、相手は弱小の真田だったので、徳川軍の士気は高かったという。

このとき、徳川家康は真田昌幸に信濃方面の面目を潰された事に激怒していたのか、「根切り(皆殺し)肝心」と真田家の殲滅を命じてる。

対する真田昌幸は、越後の上杉景勝に援軍を求めた。真田昌幸は上杉景勝から北条氏直へ寝返った過去があるため、なかなか帰属を許して貰えなかったが、第1次上田城の戦い(神川の戦い)の直前になってようやく帰属が認められた。

そして、真田昌幸が次男・弁丸(真田幸村)を人質に出すこと、上杉景勝は援軍に応じ、上杉軍は上田城の北東に延びる曲尾筋に布陣し、真田昌幸の後詰めとなった。

さて、天正13年(1585年)閏8月2日、徳川軍の鳥居元忠ら7000が信濃国小県郡真田郷に着陣し、上田城へと攻め寄せた。

一方、真田昌幸の勢力は、住民を含めて2000で、真田昌幸が上田城に入り、上田城の北東にある戸石城に嫡男・真田信幸を入れ、上田城の南東にある矢沢城には、矢沢頼康と上杉軍を入れて守りを固めた。

徳川軍は上田城を包囲すると、上田城から「高砂」が聞こえてきたので、徳川軍は怒って鉄砲を撃って攻撃した。

このとき、上田城に籠もる真田昌幸は、悠長に長岡寺の坊主と碁を打っていた。業を煮やした家臣・根津長右衛門が「この碁は勝ちです」と叫んで、碁盤をひっくり返すと、真田昌幸はようやく戦の準備を始めたという。

碁を打っている間に徳川軍を十分に引きつけた真田昌幸は、突然、反撃に転じた。上田城の二の丸まで攻め込んでいた徳川軍は、突然の反撃に驚き、撤退を開始したが、真田昌幸が芦の簀を千鳥掛けに張った物を仕掛けていたので、徳川軍は足を取られて倒れ、大勢が折り重なって倒れて圧死した。

大久保忠世らが反撃に転じようとしたところに、戸石城と矢沢城から真田軍が打って出たので徳川軍は大混乱した。

徳川軍は神川まで撤退したが、神川が増水していたので、真田軍の追撃を受け、増水した神川で大勢が溺れ死んだ。

一説によると、真田昌幸が神川の水を堰き止めておき、時機を見て堰を切って神川を増水させたのだという。

この戦いは真田昌幸の圧勝に終わり、真田軍の被害は40人に対して、徳川軍の被害は1300人だったと伝わる。

●上杉景勝の援助

昌幸は今度は上杉家海津城代:須田満親を介して信濃国境で対立していた上杉景勝に次男:弁丸(後の信繁=幸村)を人質として差しだし和を乞い上杉の援軍を要請。景勝はちょうど川中島周辺を固めていたところなので、昌幸の行動(一旦離反した真田だった)には疑念を持ちつつも、真田を味方に付ける事は上杉にも利があったし、北信濃の磐石を見越して臣従を認め援助を約束します。

当時上田城はまだ完成していなかったが、上杉軍の援軍も得て完成を急いだ。また後詰の兵も北信濃には出したと思われる。

8月29日付(合戦の3日前)矢沢三十郎(矢沢頼綱の子)宛て海津城代須田満親書状

「未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 今度御証人(人質)として御幼若の方(信繁)御越し申し痛み入り存じ候。その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候。(信繁から聞くところでは軍支度等、仕方が無い次第と存じます)先日曲尾筋(真田町)へ助勢申し候ひき、重ねて今日人数さし遣わし候 御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候。洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 何様面談を以って申し承るべく候 恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 則ち春府(春日山城)へ申し達し候」

●昌幸、上田城に籠城す

かくして天正十三年(1585)八月二日、 籠城史に名高い、第一次上田合戦(神川合戦)が開始されます。 家康は秀吉と小牧長久手の合戦後に講和を終えると、地方小大名:真田家の離反・独立によって傷つけられた威信を回復するために、鳥居元忠を総大将として平岩親吉、大久保忠世らにおよそ7000~1万の兵を率いさせ 真田領に侵攻させます。

昌幸は是を受けて築城の途中である上田城での籠城を敢行。 徳川軍は上田城東方の国分寺方面に押し寄せました。 主将:昌幸は自ら率いる4~500余を
上田城本丸に、
・城の横曲輪(よこぐるわ)を初め諸所にも兵を配置、
・城の東南の神川(かんがわ)に200の前衛部隊、
・伊勢山(戸石城)には嫡男:信之の800余、籠城方総勢2000余りを配置します。
・上田城下には千鳥掛け(互い違い)に結いあげた柵を設け、
・複雑な並びの町家・山野に約3000の武装農民を配し、紙幟(かみのぼり)を差し連ねさせ伏兵としました。

『武家事記』によれば上田城は南を千曲川(ちくまかわ)、西・北は千曲川の支流:矢出沢川を控え土塁中心の石垣の無い、簡素な平城だったと伝えられています。小田原城は100を超える支城・砦があり、既におびただしい武器・兵糧・弾薬・衣服が集積されていました。

一説には、

真田昌幸と徳川家康が戦った上田合戦は、「上田城籠城戦」として紹介されますが、実情は違います。少なくとも第一次上田合戦については、籠城戦と言うよりも、野戦に近い戦いです。

1600年の”関ヶ原の戦い”の際に発生した第二次上田合戦も、完全な籠城戦ではなく、真田昌幸としては徳川秀忠軍をいかに上田に引きつけて遅延させるかが目的ですし、徳川秀忠としてはいかに味方の損耗を少なくして敵を屈服させるかが目的でしたから、ちょっと他の籠城戦とは様子が異なります。結果としては、両者にらみ合いとなり、何かの拍子に小競り合いが発生しても、大きな戦いには発展しないうちに数日が過ぎてしまい、肝心の本戦は一日で決着が着いてしまうというあっけない幕切れになってしまいました。

神川の戦いでは、家康本人が直接指揮をしていなかったとはいえ、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉、柴田康忠といった徳川譜代の将のほか、信濃の諏訪、保科、下条、知久、遠山、芦田といった中信南信の諸将を従え、圧倒的な兵力で攻めました。通常の籠城への対応なら「城攻め三倍則」に従えば、これは徳川軍が優位に
戦えます。

しかし、真田昌幸はその策略で籠城戦を、一発逆転の可能性がある野戦に変えてしまい、まさに一発逆転させてしまいました。

この”まさか”の神川退却戦では、徳川軍各隊が指揮系統を失ってバラバラになり、我先に川を越えて逃げようとするのみであったところが異質です。たとえば有能な指揮官がいて、川を隔てた河原に鉄砲隊を配備して、川を渡って追撃してくる真田軍に対して迎撃を行えば、追撃の勢いが鈍って時間を稼ぐことができ、あるいは味方の体制が整って反撃の機会が生まれたかもしれません。

当然と言えば当然であるこの迎撃陣地の設置提案に対して、信濃の諸将は言うに及ばず、後に伏見城の玉砕戦を指揮した鳥居元忠も、尾張藩の発展を支えた平岩親吉も、ただ震えるばかりで返事もしない。

大久保彦左衛門の『三河物語』では徳川勢を指して

~ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し~

と評している。徳川諸将への怒りの言葉であり、徳川の旗本が敗北を認めたということになります。

● 神算鬼謀:真田昌幸

徳川勢の先手が城の東南の神川(かんがわ)に差し掛かると200の真田前衛部隊はこれを迎え撃ち、槍を数回あわせると後退し始めます。昌幸自身は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわずに城下の戦況を尻目に家臣と碁を打っていました。真田勢が小勢で抵抗も無いので、徳川勢は一気に城を落とそうと城内になだれ込みます。 城外にいた200の前衛部隊は押し捲られて、横曲輪(よこぐるわ)に後退・集結します。

なおも昌幸は三国志の諸葛亮が街亭の敗戦で司馬仲達を退けた、『空城計』のように碁を打ち、ついには若侍に手鼓で調子を打たせ名高い『高砂の謡』をうたって徳川勢を挑発します。

ここで鳥居元忠が司馬仲達のように退けば戦いは長引いたことでしょうが、あまりに城内に易々と入れたため、勇猛な三河兵は勢いとともに鬨の声を上げて大手門も突破しようとします。 このとき、昌幸は城門上に隠した丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を撃ち掛けました。さらに城内の500の兵と横曲輪(よこぐるわ)に集結した兵を押し出させ、 上田城の町家には折からの強風に乗せて火を放ちました。

山野に伏兵していた武装農民はこの火を合図にいっせいに陣太鼓を鳴らして徳川勢に打ちかかり、真田信之の指揮する800は戸石城より討って出て徳川勢の退路を遮断します。

徳川勢の先手は状況が急転し四方に敵を受け指揮系統が乱れますが、手柄を目指して猛進する後続の兵士達は急に止まれず籠城方の挟撃を受けました。しかも設置してあった千鳥掛けの柵に引っかかり、複雑な町家に退路を見失い、徳川勢は大混乱に陥ります。

城壁にたどり着いた徳川兵士達も鉄砲隊に次々と撃ち落とされます。 甚大な被害を受けて北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信之の突撃を腹背に受けて陣は崩され、 四散した兵は神川で溺死するという被害も出しました。

真田信之書状によると、この戦いでのによると徳川方の死者は1300余、大久保忠教によれば300名余とされています。一方の真田方の死者は40余とされています。
 

NO-10真田討伐「鳥居元忠」天文8(1539)~慶長5(1600)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時34分10秒
返信・引用 編集済
  1539年、松平家家臣・鳥居忠吉のもとに生まれる。忠吉は家康(竹千代)が人質であった時代に、苦しい藩政をやりくりして家康の帰還を待っていた超忠臣である。

【三河武士・鳥居元忠】

元忠は鳥居伊賀守忠吉の三男で、幼名は鶴之助、のち彦右衛門と称した。天文二十(1551)年、元忠十三歳の時に十歳の家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕えて以来数々の合戦で戦功を挙げるが、三方ヶ原の戦いの際に負傷し片足が不自由になる。同年父忠吉の死去により家督を相続、典型的な三河武士として徳川家中に重きをなした。

天正十(1582)年の本能寺の変の際には、甲斐古府中(甲府)で北条氏勝勢を破った功により家康から甲州郡内の地を与えられ、同十八(1590)年、秀吉の小田原征伐では家康に従って出陣し武蔵岩槻城を落とすなど活躍、秀吉からも感状を受けた。家康の関東入国の際には下総矢作四万石の主となっているのだが、ここで彼のエピソードでよく知られている話を一つご紹介する。

武田氏滅亡後、「武田四臣」と呼ばれた重臣馬場信房の娘がさる所に隠れ住んでいるとの情報があり、家康はこれを捕らえるため元忠に命じて捜索させた。元忠は捜索に当たったが、やがて「どこにも見あたりません」と報告し、捜索は打ち切られた。ところが、この情報を先に家康に知らせた者が後に家康と話す機会があり、家康はこの旨を告げたところ、その者は家康の膝近くに進み出てこう言った。「その娘は元忠の家に住み着いて、今は本妻のように振る舞っておりますよ」これを聞いた家康は、「あの彦右衛門という男は、若い頃から何事にも抜かりのない奴じゃわい」と言って高笑いしたという。

【家康との訣別】

さて、家康は上杉景勝征伐へと向かう。六月十六日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以。増田長盛らの見送りを受けて大坂を出陣、伏見へ向かった。同夜に伏見に到着、元忠は自ら杖を突きながら不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったという。翌十七日、家康は伏見城の守備を本丸は元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・家忠へそれぞれ命じ、鉄炮二百挺を預けた。

その際、家康は「四人とも、今回の会津征伐への出陣が叶わず、こうして留守居を務めることを残念に思うではないぞ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なく皆には苦労を掛ける」と言ったところ、元忠はこう返答した。

「私はそうは思いません。会津征伐は重要事、家人一騎一人たりとも多く連れて行かれるべきです。京大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正で事足ります。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦は出来ないでしょう。ということは、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」

この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせた。元忠が家康に仕えた頃、すなわち家康がまだ今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったろうと思われる。主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていった。

やがて元忠は「もう寝られませ」と言って退出しようとしたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じた。小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康が泣いた。

翌六月十八日午前七時頃、家康は元忠ら四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣した。その後の詳細は省くが、元忠の予見した通り三成らは挙兵、真っ先に伏見城がその標的となったのである。

【伏見城の戦い】

宇喜多・毛利ら西軍方は伏見城攻めを協議していたが、増田長盛の「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。またこれを守る元忠以下の四将は、内府(家康)の若い頃から仕込まれた武辺者ばかり。さらに近隣に後詰めの城もなく兵卒に至るまで死にもの狂いで戦うであろうから、容易に城は抜き難い。幸い私は元忠を長年に渡って知っているので、城を明け渡すようまずは申し送ってみては如何であろう」という意見に宇喜多秀家が同調して評議は一決、西軍方は増田家臣山川半平を使者として伏見城へ派遣した。

元忠はこの申し出を一蹴した。彼は答えて曰く「御口上は承った。しかしながら、内府は出陣の際に堅固に守れとの仰せである。内府直々の命令ならばいざ知らず、各々方からの申し出により開城することは出来申さぬ。どうしてもというなら、軍勢を差し向けなされ。この白髪首を引き出物に、城をお渡しできるであろう」

かくして伏見城攻めは決行された。その際、近江の代官岩間兵庫(光春)・深尾清十郎は甲賀衆五、六十人を引き連れて籠城勢に加わることを願い出、また家康の恩に報いようと、宇治の茶商上林(かんばやし)竹庵も共に籠城を願い出た。元忠は竹庵に「その方は町人、討死にしなくとも恥ではあるまい。我々も窮する余り町人まで籠城させたと言われるのも残念である。

早く宇治へ帰られよ」と諭すが、竹庵は聞き入れず「私は内府に受けた恩は大で、今こそ町人にはなっているが、心まで町人ではない。今、当家の危急に臨んで去るのは人の道に外れる。願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならば、この場において腹を切る」と顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は彼らの入城を許したという。

話は少し横道にそれるが、この上林竹庵は彼の言葉に見える通り、元は丹波の武士であった。近江佐々木義賢の後裔と伝えられ、丹波何鹿(いかるが)郡上林に住んだことからこれを姓としたという。名は政重と言い、通称は又市、越前守を称した人物である。彼は元亀二年三河に赴き家康に仕え、土呂郷で百石を与えられて郷吏となった。後、長久手の合戦で首二級を挙げ、家康から感状と槍を賜って岡崎町吏となり、天正十八年に宇治に帰り茶道を志し剃髪して竹庵と号した
という経歴の持ち主である。

七月十五日(『家忠日記』では十八日)、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、四万の大軍で城を包囲した。これに対して元忠は、自らは本丸を守り、二の丸には内藤家長・元忠と佐野綱正を、三の丸には松平家忠・近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀(甲賀とも)作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配し、徹底抗戦の構えを取った。

十九日から西軍の猛攻が始まった。二十一日には外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されたが、元忠らは頑強に抗戦して十日余り持ちこたえた。しかし三十日、攻囲陣の中にいて甲賀衆を抱えていた近江水口城主長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と申し送らせた。

藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じ、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得た。そして、これがその通り実行されたのである。

八月一日未明、伏見城の一角に火の手が上がり、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊し、西軍を引き入れた。もはやどうにもならない。松平家忠・近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の元忠は奮戦して三度敵を追い返したが、もう彼の周りにはわずか十余人しか残ってはいなかった。そして、遂に元忠の最期の時が来た。

「元忠本丸に有て門を開かせ、門際より七八間しさりて、士卒三百余白刃を抜そろへ、しづまりかへって待かけたり。寄手しばし攻入兼てためらひけるに、元忠大音あげ、『一人にても敵を討て死するぞ、士の志なれ。吾三方ヶ原にて足に手負ひ行歩心にまかさざれども、逃んとせばこそ足も頼まめ。いざ最後の軍せよ』と下知する声を聞て、一同に切って出面もふらず戦ひて、一人も残らず討死しけり。

元忠戦ひ疲れて玄関に腰をかけ、息つぐ処に雑賀孫市重次、死骸を踏越てすゝみよれば、『吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ』とて物具脱で腹を切たりしかば、雑賀其首を取りたり。本丸に二つの門ありけるを、大手の外はみな堅く鎖してければ、一人も逃ちる者なく討死しけるとぞ」(『常山紀談』巻十四の七 第三百十六話 「伏見落城の事附鳥居忠政、雑賀孫市を饗れし事」より抜粋)

元忠享年六十二歳。首は大坂城京橋口に晒されたという。この時の彼らの血潮に染まった床板が、後に京都市内の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今もなお「血天井」として現存している。
 

NO-11第一次上田城の合戦(神川の戦い)の後は

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時23分18秒
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  第一次上田城の合戦(神川の戦い)で大敗した徳川軍の鳥居元忠は、真田側の丸子三左衛門(または丸子平内)が守る丸子城(長野県上田市上丸子)を攻めたが、成果はあがらず、天正13年(1585年)閏8月28日に信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)へと引き上げた。

すると、真田昌幸は上杉景勝からの援軍を利用して、上田城(長野県上田市)の改修を行った。上田城は上杉景勝にとっても、徳川家康の押さえとなる要所だったので、上杉景勝は上田城の改修を大いに支援した。

こうして、真田昌幸は、徳川家康の力を利用して手に入れた上田城を、上杉景勝の力を利用して、さらなる要害にしたのであった。

これに対して徳川家康は、北条氏直に沼田城への侵攻を要請した。北条氏直は下野国(栃木県)へと侵攻して宇都宮国綱と争っていたので、天正13年(1585年)9月、北条氏邦・北条氏照を総大将に、上野国東部にある真田昌幸の沼田城を攻めさせた。

越後の上杉景勝も上田城の真田昌幸も沼田城に援軍を送れなかったが、沼田城の城主・矢沢頼綱(矢沢綱頼)は僅かな兵で沼田城を守り抜き、北条氏邦・北条氏照を退けた。

さて、小諸城(長野県小諸市)の徳川軍は上田城の改修を尻目に、井伊直政の援軍を受け、虎視眈々と上田城を攻める機会を狙っていたが、徳川家康の重臣中の重臣・石川数正の出奔という事件が起こり、撤退を余儀なくされることになるのであった。

●真田昌幸が豊臣秀吉に帰属する一方、中央政権では、織田信長の後継者としての地位を確立した豊臣秀吉(羽柴秀吉)が、天正13年(1585年)7月に関白に就任し、豊臣政権を樹立していた。

そして、天下統一を目指す豊臣秀吉は、四国征伐を開始する一方で、信州・信濃・甲斐方面への調略を開始しており、徳川家康に属していた信濃(長野県)の豪族・小笠原貞慶や木曾義昌を寝返らせていた。

詳しい経緯は不明だが、第1次上田城の合戦(神川の戦い)で徳川軍を撃退した真田昌幸は天正13年(1585年)9月に豊臣秀吉への帰属を申し出で、天正13年(1585年)10月に豊臣秀吉から帰属が許された。

江戸時代の家伝「藩翰譜」によると、このとき、真田昌幸と豊臣秀吉の間を取り次いだのが、大谷吉継である(注釈:後に真田幸村は、大谷吉継の娘を正室に迎える)。

●石川数正の出奔

さて、徳川軍の鳥居元忠は、第1次上田城の合戦(神川の戦い)に失敗した後、井伊直政・松平康重5000の援軍を得て軍を立て直し、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)で、虎視眈々と上田城攻めの機会をうかがっていた。

しかし、天正13年(1585年)11月に入ると徳川家に重大な問題が発生し、徳川軍の状況が一変する。なんと、徳川家康の右腕である石川数正が、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。石川数正は徳川家康が今川義元の人質だった時代からの家臣で、徳川家の重臣中の重臣だった。

小牧・長久手の戦い以降、徳川家康と豊臣秀吉の関係が悪化すると、徳川家の非戦派の重臣・石川数正が豊臣秀吉との関係修復に当っていたのだが、その石川数正が天正13年(1585年)11月13日に突然、徳川家を出奔し、豊臣秀吉の元に走ったのである。(注釈:石川数正が徳川家を出奔した理由は不明だが、豊臣秀吉の調略に応じて出奔したとされる。)

徳川家の軍事機密を知り尽くしている石川数正が出奔したことにより、徳川家の軍事機密は全て豊臣秀吉の知るところになり、徳川家は大混乱に陥った。このため、徳川家康は天正13年(1585年)11月、信濃国(長野県)で真田昌幸と対峙していた徳川軍の鳥居元忠らに撤退を命じたのである。

このとき、信濃国(長野県)では、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方がが上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていた。

武田信玄の次男・海野信親は既に死んでいたが、次男・海野信親の子・武田信道(顕了道快)が生き延びており、信濃(長野県)で隠れ住んでいたので、真田昌幸がこれを利用して噂を流したと言われている。(注釈:武田信玄の次男・海野信親は目が悪かったので出家し、武田信玄の家督は四男・武田勝頼が継いだ。次男・海野信親は武田家滅亡の時に自刃して死んだ。)

さて、信濃国に駐留する鳥居元忠らは、徳川家康からの撤兵命令が出たと言えど、真田昌幸の押さえを残しておかなければならなかったが、「武田信玄の次男で海野信親(武田竜芳)という目の悪い方がが上杉景勝の支援を受けて信濃国へ帰国し、真田昌幸と共に一揆を起こす」という噂が流れていたため、残留を名乗り出る武将は居なかった。

そこで、徳川軍の大久保忠世は、弟・大久保忠教に真田昌幸の押さえを命じると、弟・大久保忠教は「私は所領が欲しくて残るのではない。主君のために残りましょう」と引き受けた。

喜んだ大久保忠世は、徳川家康に属する信濃国の豪族に、「それぞれの居城に籠もって大久保忠教の指示に従え」と命令を出すと、弟・大久保忠教を真田昌幸の押さえとして、信州国佐久郡にある小諸城(長野県小諸市)に残し、撤退を開始した。(注釈:鳥居元忠と菅沼定利も他の城に入って、真田昌幸の押さえとして信濃国に残った。)

このとき、援軍として信濃国(長野県)に来た徳川軍の井伊直政・松平康重の両将は、未だに一戦もしていない事を無念に思い、「敵が追撃してきたら迎え撃つ」と言い、殿(軍の最後尾)を務めた。

さて、真田昌幸の元に、徳川軍が撤退を開始したという知らせが届くと、家臣は「井伊直政・松平康重が4~500騎で、本陣から離れて退いています。追撃すれば、漏らさず討ち取ることができるでしょう」と意見した。

しかし、真田昌幸は、重臣・石川数正が徳川家を出奔したという徳川家の事情を知らなかったので、「若いからと言って井伊直政を侮ってはいけない。井伊直政は確かに小勢ではあるが、軍の退き方を見るに、追撃してくれば、一戦しようと企んでいる。決して敵の思惑に乗ってはいけない」と言い、
追撃を禁止した。

このため、井伊直政・松平康重の両将は父・真田昌幸の追撃を受けること無く、易々と信濃国から撤退することが出来た。

こうして、小笠原貞慶・木曾義昌・真田昌幸らが豊臣秀吉に属したので、信濃国の大半は豊臣秀吉の支配下になったが、井伊直政らが真田昌幸の追撃を受けずに引き上げることが出来たので、徳川家康は信濃国の佐久郡・諏訪郡・伊那郡の3郡を確保した。

一方、真田昌幸は石川数正の出奔により、徳川家康の上田城攻めという危機を逃れたのであった。

●徳川家康の軍事再々編

さて、徳川家を知り尽くしている重臣・石川数正の出奔により、徳川家の軍事機密が全て豊臣秀吉に漏洩したため、徳川家康は軍事再編を迫られた。

そこで、徳川家康は、武田家の旧臣に武田家の軍事資料などを提出させ、武田家の軍事編成を元にして新たな軍事編成を行った。こうして、出来た新たな軍事編成は、後の江戸幕府の基礎となる。つまり、江戸幕府の基礎は武田家の軍事編成なのである。

こうして、徳川家康は新たな軍事編成で徳川家の混乱を収め、三河一揆を平定すると、豊臣秀吉に対する備えを増強したのである。
 

NO-12「石川数正」(1533~1593)、出奔事件の謎

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)19時13分57秒
返信・引用 編集済
  家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の石川義基が石川源氏・石川氏の祖となったという。数正の家は三河に下った石川氏の与党である。石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたる。

天文2年(1533年)、石川康正の子として三河で生まれる。徳川家康が松平竹千代の幼名を名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれて松平氏(徳川氏)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時、今川氏の人質であった松平信康を取り戻した。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で戦ったときには、先鋒を務めて活躍した。

永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河で一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。このため戦後、家康から家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになった。家康の長男・松平信康が元服すると、その後見人となった。永禄12年(1569年)には家康の命令で、叔父の石川家成に代わって西三河の旗頭となった。

また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。

天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加するが、このとき家康に秀吉との和睦を提言したともされる。

徳川家康の人質時代から近侍として仕える。本多忠勝や榊原康政らよりは一つ上の世代で家康よりも年上。桶狭間の戦い以後は今川家から独立した家康の下で酒井忠次と共に三河時代の家康を支え、東三河の忠次と併せて徳川家の双璧をなした。

天正十三年(1585年)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、小牧長久手の戦い後に一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。これにより徳川家の軍事機密が秀吉に筒抜けになってしまったため、家康は軍制を改めるハメになる。

【戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・】

なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康の幼少の頃からの補佐役、あの人質時代にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。

その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・。

その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。

そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻ったわけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。

そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んだのです。

もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。

後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。

しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。

その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。

その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。そして、元亀元年(1570年)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。

この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。

ところが・・・です。

天正七年(1579年)に事件は起こります。その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。

通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています。

もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。

が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページで書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。

『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。

あれだけ手塩にかけた若君ですよ。岡崎城の城代家老ですよ。
この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考え難いです。

おそらくは、この時の数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?

そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。

しかし、それでも数正は、天正十年(1582年)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越えの時には、家康を守って行動をともにしています。

ただ、その直後です。

信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。

ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。

もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。

この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。

かくして、天正十三年(1585年)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。

ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。

彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。

あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)の名護屋まで、兵を率いて赴いています。

ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからなのかも・・・

なんせ、徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。

結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。

北条氏が滅び、家康が関東に写されたのちに信州松本10万石に移封された。 現在の国宝松本城の天守やその城下町を整備したのは数正とその息子康長である。

1593年に死去。享年61。

武功も上げているのだが、武闘派だらけの三河軍団で外交を担当できる貴重な人材であるため、割と文官のイメージが強い。「家康の懐刀」と評されることも。
 

NO-13「第二次上田合戦」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)14時01分57秒
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  昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。

昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。しかし近年は信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘で昌幸の妻が石田三成の妻とは姉妹の関係にあったことが理由と指摘されている。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信之と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものだった。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、兵力差が圧倒的だったこと、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこと、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読みやすく御しやすい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し。乗ればなお良しの二段構え。狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向ける。徳川首脳陣には真田一族である信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせることによって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。

信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げる。これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。

このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、一旦全軍を小諸へと撤収させた。しかしその直後の九月八日になって家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった[2]。驚愕した秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。

また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。

この戦いで秀忠軍は美濃で行われた関ヶ原本戦に遅参したとされるが、実際は秀忠軍の当初の任務は中山道制圧であり、本戦の遅参は転戦を命じる使者が利根川の増水で到着が遅れたことに所以する。ゆえに「昌幸が秀忠を遅参させた」というのは正確ではない。

関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信之とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
 

大阪冬の陣・夏の陣(総集編・・・目録紹介)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)13時56分48秒
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  「関ヶ原の戦い」が終われば、「大阪冬の陣・夏の陣」が自然の流れでしょう。

  ******  上から順に読み易くしてますよ♪  *****

・関ヶ原の戦い が終わって・・・さて、その後は・・・
・大阪冬の陣のきっかけ  方広寺鐘銘事件
・大阪冬の陣(1614年)
・大阪冬の陣における「真田丸」とは・・・NHK大河ドラマ化
・天下無双の大阪城
・大阪夏の陣とは
・大阪夏の陣の主戦場【道明寺】  慶長20年(1615年)5月6日
・豊臣軍の武将「後藤基次」とは
・豊臣軍の武将「毛利勝永」とは
・幕府軍の先鋒大将「水野勝成」とは
・幕府軍の総大将「松平忠輝」とは
・幕府軍の後見役「伊達政宗」とは
・豊臣軍の武将「木村重成」とは、智・仁・勇の三徳を兼ね備えた男
・豊臣軍の武将「大野治房」とは
・【追加】大阪夏の陣(詳細編)天王寺・岡山での最終決戦

《道明寺の戦い・午前》(上)、《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》(下)
 

【関ヶ原の戦い】が終わって・・・さてその後は・・・

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)13時36分39秒
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  家康は関ヶ原の戦いで勝ち、幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手には、いろいろ難しい問題が残されていました。

それは豊臣氏をどうするかということです。

関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼は、わずか65万石(9万7500トンほどの米がとれる領地)の大名に落とされましたが、攻めても中々落ないと言われた大阪城におり、また豊臣氏に心を寄せる大名も少なくなかったのです。

豊臣氏では、秀吉の子秀頼が大きくなれば、家康も政権を返すだろうと考えていましたが、その臨みも無くなり非常に徳川氏を恨むようになりました。

こうして、豊臣氏と徳川氏の仲がだんだん悪くなってきました。

家康は、全国の大名から幕府の命令に叛かないと言う誓いの書きつけを取ったりして万一の場合に備えました。家康は、もう70才になっていました。秀頼は20才を越えて中々優れた若者になってきました。家康は、もし、自分が先に死んだら徳川の天下もどうなるかわからないと心配しました。そして、どうにかして自分の生きている間に豊臣氏を滅しておかなければならないと考えるようになりました。

こうしておこったのが方広寺の鐘銘事件です。

家康は秀頼に勧めて、大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させましたがその鐘に貼り付けた文字に「国家安康」とあったのを家康の名な二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて豊臣氏を攻めました。

豊臣氏では、いろいろ弁解しましたが家康は聞き入れず、とうとう戦いが初まりました。

豊臣氏は、秀吉の恩を受けた大名に助けを求めましたが、多くの大名は幕府のカを恐れて、豊臣氏に味方をしませんでした。けれど真田幸村などの優れた武将や浪人が、たくさん大阪城に入り、その中には キリスト教の信者も少なくありませんでした。

こうして、1614年(慶長一九年)に大阪冬の陣が初まりました。

  
 

大阪冬の陣のきっかけ

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月24日(金)10時20分4秒
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  関ヶ原の戦いから14年。徳川家康はついに慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)をきっかけに豊臣家を挑発し、同年10月大阪城に向けて兵を挙げました。これが、大阪冬の陣の始まりです。

それでは、大阪冬の陣についてちょっと詳しく見てみましょう。

1600年の関ヶ原の戦いは、石田三成VS徳川家康の争いであり、徳川軍にも豊臣家に恩のある大名が多くおりました。つまり、この時点では、豊臣VS徳川という形式には家康もできなかった訳です。慶長8年(1603)に、家康は征夷大将軍として任命され江戸に幕府を開きますが、それでも豊臣秀吉の子、秀頼は家康に擦り寄ってくる様子もみせない。家康が亡くなった後は、政権を秀頼に返すだろうと楽観ししていたともいわれます。その証拠に、家康の孫娘、千姫も秀頼にとついでいますし・・・。

しかし、徳川家康は、将軍の座をわずか2年で退き、子の秀忠にその椅子を譲ってしまう!これは、「今後政権は徳川家によって世襲されていきますよ~、豊臣方には渡しませんよ~」という家康からのメッセージでもありました。

将軍の座を降りたとはいえ、幕府の実権は家康に握られていました。江戸には秀忠、自身は駿河に移り住み軍事、外交、文化、経済などは実質、家康が判断を下します。

慶長11年(1611)、70歳となった家康は、豊臣秀頼との面会を求めます。秀頼が拒んだら、それをきっかけに豊臣家を潰す作戦です。豊臣家の家臣、加藤清正らはそれを理解しており、上洛を拒む秀頼の母、淀殿を説得し二条城にて家康と秀頼との面会を実現させます。

豊臣秀頼というと、なんだか弱々しいイメージを持っている方も多いと思いますが、家康はこの時、家臣の本多正信に「秀頼は、なかなかの人物に成長した。」と語ったそうです。

「御所柿は独り熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼」

御所柿とは家康のことであり、家康が死ねば、後の政権は秀頼が拾うだろうといった意味の当時の落書です。

70歳という自分の年齢と立派に成長した豊臣秀吉の息子、秀頼。さすがの家康にも焦りが見えてきます。

この頃、家康には幸いなことに加藤清正、浅野長政、池田輝政らの豊臣家の重臣たちが相次いで他界していきます。

そして、慶長19年(1614)の《方広寺鐘銘事件》です。これは、豊臣家が再建を進めていた方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたことに家康がいちゃもんをつけたことがきっかけとなります。国家安康は家康の字を切り離し、徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願う下心が見えると難癖をつけ、豊臣家を挑発するのです。

これに、豊臣家も弁明をしますが、家康は聞く耳もたず・・・。逆に「淀殿を人質としてよこせなど」と豊臣方が聞き入れられない無理難題をつきつけ話をこじらせます。この嫌がらせに、秀頼母子は、堪忍袋の緒が切れたとばかりに浪人たちを大阪城に集め軍備を整えるのでした。

「豊臣方が挙兵した!」

この知らせに73歳の家康は、ただちに諸大名に出動命令をだし、大阪冬の陣が始まります。

大阪冬の陣のきっかけは、方広寺の鐘銘の言いがかりから始まり、豊臣方が軍勢を集めたことにより開戦するのでした。

この争いでは、真田幸村らの活躍により、大阪城に籠る豊臣方は善戦します。攻めきれない家康は和議を持ち込むのですが、この和睦の条件も家康によるしたたかな計算でありました・・・。


 

大阪冬の陣(1614)

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月23日(木)20時42分46秒
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  関が原の合戦後、ほぼ天下を手中にした家康はついに豊臣家の滅亡を図る。
ほぼ全国の大名を動員し、11月に大阪城を包囲した。
徳川方20万、豊臣方10万。

真田幸村は豊臣家に招かれ入城。金200枚、銀30貫を贈られている。
しかし招かれたとはいえ、大阪城内での待遇はけっして良いものではなかった。
軍議の席での幸村の提案を豊臣の上層部はなかなか受け入れようとはしなかった。
城の外に出て野戦で勝負しようという幸村の提案もはねつけられている。
また、真田丸にて活躍をするほど幸村の立場は悪くなってゆく。

このとき幸村は 「奥意図り難し」と評されているのである。これは兄の信之や叔父の信尹など真田一族の多くが徳川方についていたことと豊臣家臣団がいわば外様の家臣である幸村の活躍により自らの存在価値の低下をおそれたことにもあろう。城の外に真田丸を築いたことでさえ、敵と内通するためであるという噂まで立ち始めた。

幸村は姉夫婦に宛てて、「よろず気遣いのみにて御座候」 =「万事、気遣いばかりで過ごしています」との手紙を書いている。幸村は真田丸で孤軍奮闘することとなる。

真田丸での戦法

真田丸とは、大阪城の外に幸村が築いた出城である。直径およそ200メートルの半円形をなし、円の外側には空掘と土塀、そして三重の柵が設けられていた。物見台として井楼を設け、さらに七つの櫓が守りを固める。堀の内側は武者走りとよばれる幅2メートルの通路で2段に分けられ、上下の銃眼から外の敵を狙う。

難攻不落といわれた大阪城も南側だけは敵の侵入を防ぐ川も水堀もない弱点だった。そこに幸村は真田丸をつくり、純粋に真田の兵で固め、戦いの最前線に身をさらしたのである。真田丸は敵の動きをつかみやすい反面、突出していて攻めやすい場所でも あった。そこに敵を集中させて、集中して出てきたところを引きつけて叩くという戦法をとったのである。

たとえば、真田丸の前方にある篠山に兵を送り、徳川・前田の軍勢に鉄砲を撃ちかける。前田勢が篠山に攻め上ると、真田の部隊はすでにそこにはいない。すると目の前の真田丸からどっと笑い声が沸き上がる。「雉子(きじ)撃ちにでも来られたか、わはは」と。怒った相手方は我先にと堀に飛び込み一斉射撃の的となり、退くこともできず総崩れとなり、死者300人、負傷者は数え切れぬほどの大敗を喫している。冬の陣の徳川方の死者のうち、8割は真田丸の攻防で討たれたといわれる。

幸村は、功名を争う徳川方の武将の心理を読み、一隊が出てくれば他の部隊も出てくると分かっていた。我先にと一度に集中して出てきたところを、身動きができないところまでひきつけて一斉射撃を浴びせかけるという作戦をとっている。

寝返りを拒否

徳川は大阪城での幸村の立場を知り、寝返りを促している。味方になれば10万石を与えるという条件から、さらに信濃一国を与えるとまで拡大されてゆく。しかし幸村はこの誘いに応じようとはしなかった。

なぜだろうか?

騙されるであろうことが分かっていたからだろうか。それもあるかもしれない。しかし、決定的なのは、幸村は立身出世や世俗的な欲望のために豊臣方についたのではないからであろう。父昌幸が徳川を二度にわたって破っていながら、しかし倒すことができず、最後は家康により九度山に幽閉され無念の死を遂げた。その家康に一矢報いたいという気持ちからであろう。

冬の陣は徳川軍の大砲が大阪城の天守閣に命中したことを契機に和睦にいたる。侍女二人が即死し、淀殿(秀頼の母)は秀頼を説得し、和睦がなされた。このとき幸村は、和睦直後の気の緩みをついて家康を暗殺しようという計画を申し出ている。 しかし、この計画も受け入れられず、幸村は「豊臣家も二代にして滅びん」とつぶやいたという。
 

大阪冬の陣における「真田丸」とは・・・NHK大河ドラマ化

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月23日(木)20時36分59秒
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  ◆真田丸(さなだまる)とは

1614年、徳川家康が大阪城を攻めた「大坂冬の陣」の際、豊臣方の武将・真田信繁(幸村)が大阪城の平野口に築いた出城の名称。

東西約180メートルの半円形で、土塁の高さは約9メートル、外周の壕の深さは6~8メートル。主部の他に西側にも柵で囲われた土塁(二の丸)があったとされる。大阪城の弱点である城南に造られ、同年12月4日の真田丸の戦いなどにおいて、防御・攻撃に多大な戦果を挙げた。一説には、徳川方の死者のうち8割は真田丸の攻防によるものとされている。同年12月20日に両軍の和平が成立し、その条件の一つとして真田丸は取り壊された。

ー背景ー

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した信濃国上田城(長野県上田市)における上田合戦(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

12月4日早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。跡地と考えられる場所には、元々あった三光神社が建立されている。

◆真田幸村(1567? ~ 1615)とは

本名は真田信繁。幼名は弁丸、通称:源次郎。真田昌幸の次男である。(兄弟は兄・信之、弟の昌親、信勝がいたといわれる) よく知られる幸村の名は江戸時代以降、講談などで広まったもので、信繁の生前の頃の資料には幸村の名で書かれたものは一通も無いのだが、時代が下り幸村の名の方が知られる頃になると幕府編纂資料や兄・信之の子孫が治める松代藩の正史にまで「幸村」が採用されるようになる。

真田家は元は武田家に帰属する国衆であったが武田家が織田信長に滅ぼされた後は織田家に恭順し、織田信長が本能寺の変にて横死し甲信地方が勢力の空白地帯と化した後は上杉家に帰属し、信繁は上杉の人質として置かれる事となったがその後独立大名として自立し、その後は豊臣家に服属して豊臣家への人質として大阪に移り置かれ、この頃に秀吉家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎え従五位下左衛門佐に叙任される。(関が原以前の信繁の動向にはあまり目立ったものは無い働き盛りの時代に妻子連れてのニート状態だった。

関が原の合戦では徳川方の武将(本多忠勝)の娘(小松殿)を嫁に貰っていた兄・信之と袂を分かち、父とともに豊臣側に付き、居城・上田城にて徳川秀忠率いる3万8千の主力を釘付けにし関が原の戦いに遅参させる結果を生み出す。

結果的には徳川側の勝利となり昌幸と信繁は敗軍の将となり切腹または斬首となってもおかしくなかったが、徳川方に付いた兄・信之と本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流されるにとどまったが、徳川と豊臣の対立が抜き差しならなくなった頃、生命を救われた恩を仇で返し父・昌幸の旧臣に参加を呼びながら長男・大介(真田幸昌)と共に九度山を脱出し大阪城へ入る。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では積極策を主張し諸将にも賛成されたが、軍権を持つ大野治長らに反対され受け入れられず、篭城決定後は大阪城の唯一の弱点といわれた三の丸南側に「真田丸」と呼ばれる出城をつくり、越前松平や加賀前田を撃退し全国諸将に真田信繁の名を知らしめた・・・・・・が、大阪冬の陣は講和成立後に真っ先に破却される事となる。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では後藤基次隊を打ち破った伊達政宗隊を撃破・後退させる戦果も挙げたが味方武将が相次ぎ戦死・討ち死にしていき疲労の色も濃くなる中、家康本陣めがけての大突撃戦を敢行して本陣に肉薄し家康は武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目の本陣馬印を倒され、自害を二度覚悟したほどだったが軍勢に勝る徳川勢に追い詰められ四天王寺近くの安井神社(大阪市天王寺区逢阪1-3-24)の境内で討ち取られた。享年49。

信繁の子孫は信繁と共に九度山から大阪城に入り、豊臣秀頼らと共に自害した大介幸昌の他、片倉重長(2代目小十郎)に保護され、伊達政宗が実在しない真田家の武将の子と偽証までして保護した仙台藩片倉家家臣片倉守信、外祖父豊臣秀次の旧姓である三好姓を称した出羽国亀田藩士三好幸信、九度山で生まれ父信繁・兄幸信の死後に讃岐に脱出し讃岐国弘城(細川屋敷)主の細川(石田)民部大輔国弘の養子となったと言われる石田之親らがいたと言われ、その中で次男片倉守信の子・辰信が将軍家により真田の名を名乗る事を許されて復姓し「仙台真田家」として信繁系の真田の名を現代まで存続させている。

(余禄:仙台真田家の家督は途中で伊達家一族大條氏が養子に入っており、また兄信之の本家の方も伊予宇和島伊達家から養子を入れて家督を継がせるといった具合に両方の真田家とも伊達の血が入っている。)
 

天下無双の大阪城

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月22日(水)00時29分19秒
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  1583年、天下人秀吉は大阪城の築城に取り掛かり、城全体で400ヘクタールという前代未聞の城を築き上げました。何万の兵が押し寄せようとも落ちることは無いと言わしめたその城は、誰もが「一度はここに籠って戦いたい」と野望を抱かせるに十分な城だったことでしょう。

秀吉亡き後、豊臣秀頼には太閤が残した莫大な財産とこの大阪城が手中に入りました。その後、豊臣の天下は徐々に徳川家に傾きかけ、それを不満とする大阪方は戦火の火種をくすぶりだし始めました。

このとき、秀頼にこの不満を抑える器量か、もしくはこの大阪城がなかったら豊臣家は存続できたかもしれません。財力があり落ちることのない城にいる人々にはどんな相手にも負けることはないという錯覚にとらわれ、1614年ついに大阪冬の陣の火蓋が切られてしまいました。

一説には太閤崩御の際、伊達政宗が秀頼を大阪から離し、徳川家康のもとで育てるようにと進言していたということですが、事実とすればこれらを見越してのことだったのでしょう。
 

大阪夏の陣 とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時54分53秒
返信・引用 編集済
  大阪冬の陣では、真田幸村らの活躍により豊臣方が善戦します。徳川家康は、戦いが長期に渡るのは得策ではないと判断し、和議を持ちかけるのですが、豊臣方としては、断固戦うべきか?和議に応じるか?なかなか答えがでない。

しかし、そこに徳川家康からの揺さぶりがかかります。城内へのトンネルを掘ったり、連日に渡り大砲を打ち込んだり・・・。これらの揺さぶりは秀頼の母、淀殿を震え上がらせ、ついに和議に応じることになるのです。

家康の出した講和条件は、城の外堀を埋めること。そのかわり、秀頼や淀殿を含め城にいる者たちには責任を一切問うことはない、というもの。豊臣方にとっても悪い条件ではない。これには、大阪城にいる者たちも安心して講和をのむことにします。

しかし!!!

家康の真の目的は、城の堀を埋め尽くして大阪城を丸裸にしてしまうことでした。秀吉の築き上げた難攻不落の大阪城では、この堀を埋め尽くさなければ落とすことは不可能。そこで、家康は最初からいったん和睦し、大阪城の堀を埋めることも計算の内であったといわれています。

講和がなった翌日より家康の軍勢は一斉に外堀を埋め始めます。まぁ、ここまでは豊臣方も約束どおりなので、ただ見ているわけですが、次に三の丸、二の丸と、どんどん城に向かって堀を埋めていく・・・。

ちょっと約束違うんじゃない?

と、慌てふためいてもすでに遅い・・・。わずか1ヶ月も経たぬうちに難攻不落の大阪城は、平地に立つ裸の城になってしまうのです。これには豊臣方も黙ってみている訳にはいきません。堀の一部を掘り返し、大量の兵糧を城へ運び込み、浪人を雇います。

これを知った家康は、「おっ、やる気なの?」とばかりに豊臣方に最後通告をだします。
秀頼が大阪城を出て地方に国替えするか、城内の浪人をすべて解雇するか選べ!

当然、そんな条件を豊臣方も呑むことはできません。拒絶を家康に伝えると、作戦通りとばかりに家康の攻撃が始まります。

さぁ、大阪夏の陣の始まりです。豊臣軍10万(一説には6万)VS徳川軍20万(15万)

冬の陣で総掘りを埋められた大阪城にはもはや大群を相手に篭城する能力は残っていませんでした。籠城であれば、勝利も見えてくる兵力差ですが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかありません。しかも、大阪城に集められていた兵は寄せ集めの軍兵。

そんな中でも、豊臣方の真田幸村が冬に陣に続き、大阪夏の陣でも活躍を見せます。もう一人の武将「後藤基次」らも大阪城の南から押し寄せる徳川軍を城外で迎え撃ちます。

戦場となった【道明寺近辺】では「伊達政宗」率いる徳川軍との壮絶な戦いが繰り広げられ、基次は伊達軍の鉄砲隊の前に倒れました。その後伊達隊は追撃し、真田隊と激突するも両者譲らず一旦兵を引き上げます。

真田隊は3000の兵にて家康の孫である松平忠直隊(13000)を死に物狂いで撃破すると、家康の本陣へと突入。この時、真田幸村の隊は、家康本陣を2度に渡って攻撃し、その距離12キロも後退させたといいます。その為、家康はこの時、真田隊によって討ち取られており、後は家康の影武者が代わりと努めたという風説が立つほどです。

しかし、3度目の突入にて真田隊は力尽き、真田幸村も無名兵士の槍に倒れ討ち死にすることになるのでした。

このとき、死を覚悟した真田幸村は息女、阿梅に自分の戒名を持たせて伊達軍の片倉小十郎に預けたとされ、宮城県白石市には幸村の供養碑があります。その後大阪方では次々と敗戦、ついには幸村も討ち取られます。

もはや、落城目前に迫った大阪城では、大野治長により秀頼と淀殿の助命を求めますが、家康はこれを断固拒否。燃え上がる大阪城内にて2人は自刃するのです。秀頼23歳、淀殿は49歳前後だったといわれています。

1615年5月8日、繁栄を極めた豊臣家はわずか2代で歴史に幕を下ろし、戦国の世は終焉。その後は、島原の乱を除き、明治維新まで約250年もの間、平和な時代が続くことになるのでした。
 

大阪夏の陣の主戦場【道明寺】

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時31分44秒
返信・引用 編集済
  道明寺の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。

幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗[要出典]など総勢34,300の兵で構成されていた。

4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。

5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。

5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めた。

◆《道明寺の戦い・午前》慶長20年(1615年)5月6日

5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。

作戦が既に破綻してしまっていること認めた後藤は、石川を渡り小松山に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。

午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。

小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。

正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、彼の部隊は壊滅した。

◆《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》慶長20年(1615年)5月6日

このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るい奮戦したが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。

そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。

片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になった。

午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。

◆【豊臣軍の遅参について】

・後藤基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊がことごとく驚くべき遅参をしてしまった原因については、濃霧で出立時刻を誤った。

・寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった。

・もともと後藤勢は、後続が布陣するまでの遅滞戦術を行う作戦だった。

など諸説ある。

《道明寺の戦い・午前》(上)、《道明寺の戦い・午後(誉田の戦い)》(下)
 

豊臣軍の武将「後藤基次」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)23時22分10秒
返信・引用 編集済
  播磨国の地侍・後藤家に生まれる。通称は又兵衛。黒田家、豊臣家に仕えて数多の戦で活躍し、その智略と武勇を敵方からも絶賛された名将である。後藤家が没落すると基次は仙石秀久に仕え、仙石家の改易後は黒田家に仕えて九州征伐や文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いで活躍した。その後主君との折り合いが悪くなった基次は出奔。再就職を妨害されて京都に引き篭もった。

やがて豊臣家と徳川家の対立が深まると、基次は豊臣家に誘われて大坂城に入城。豊臣秀頼に信頼された基次は牢人衆の筆頭として豊臣軍を指揮し、徳川幕府軍と激しく戦った。基次は智勇に優れ、大坂方の将兵の信望を集めた。翌年、夏の陣でも基次は活躍。しかし迎撃のために出陣した後藤勢は、運悪く発生した濃霧のせいで友軍の到着が遅れたため孤立してしまう。基次は徳川方の水野勝成や伊達政宗等の大軍を相手に奮戦、壮絶な討死を遂げた。

【前半生】

黒田家を出奔したこと、最終的には敗者となったためか、後藤基次の前半生に関する資料は少ない。基次が元服した頃、播磨は東西から織田・毛利の大勢力が侵攻し、地元の有力大名が次々と没落した。播磨の後藤家は本家が播磨春日山城に拠って織田軍と戦い敗北したが、基次の後藤家の動向は不明。

播磨で織田家が優勢になった頃、後藤基次は、
・黒田官兵衛に仕えた
・仙石秀久に仕えて、仙石家の改易後に黒田家に仕えた
他にも黒田家の直臣になる前に黒田家家老の栗山利安に仕えたなど、諸説ある。黒田も仙石も羽柴秀吉の麾下で活躍しているので、後者の場合でも基次は黒田家主従と面識を得る機会はあったと思われる。

【出世街道】

黒田家に従い九州征伐に参加した後藤基次は、戦後に豊前の大名となった黒田家が在地の名門城井家との抗争を始めると、城井家との戦いに参加。それから4年後、文禄の役が始まると後藤基次も黒田勢の一員として従軍。山場となった第二次晋州城攻略戦では、他の武将と一番乗りを争うなど城の攻略に貢献した。続く慶長の役で後藤基次は先鋒の将となり活躍しており、戦役の前後に重臣となっている。

豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは、黒田長政に従い黒田勢の先鋒を務めて石田三成勢と戦う。石田勢は精鋭揃いだったが、基次は敵の勇将を一騎打ちで仕留めるなど奮闘した。主従が抜群の手柄を立てた黒田家は戦後筑前に加増転封となり、基次はこれまでの働きを讃えられて益富城と一万六千石の所領を与えられ、遂に大名となった。

【転落】

だが関ヶ原の戦いから6年後、後藤基次は長年の働きで手に入れた地位を捨てて出奔してしまう。黒田長政との不仲が原因とされるが、黒田家で二人は兄弟同然に育てられたという話や関係が険悪だったことを示す逸話は後世作られたものである。この頃の黒田長政は細川忠興と仲が悪くなっており、細川忠興と親しかった後藤基次は彼らの喧嘩の巻き添えにされたという説もある。

出奔の真相は不明だが、黒田家から離れた後藤基次は細川家を頼った。細川忠興は後藤基次を歓迎したが、基次を雇用した細川家に黒田長政は激しく抗議した。細川忠興も激怒したので、両家の争いを危惧した徳川家康が介入した結果、後藤基次は細川家から退去した。

放浪の身となった後藤基次だが、諸大名は天下の名将を召抱えようと先を争って基次を勧誘した。基次は故郷の播磨を治めていた池田輝政の勧めに従い、池田輝政の息子・忠継に仕えた。だが旧主・長政は奉公構の措置を取って池田家に抗議したため、池田輝政が亡くなると後藤基次は池田家から離れた。

諸大名は後藤基次に仕官を求め、その度に黒田長政が妨害し、一武将の仕官先を巡って対立を繰り返した。その状況を徳川幕府は危険と判断し、基次を黒田家に帰参させようと仲裁を行ったが失敗している。後藤基次はその後、京都あるいは大和で隠遁生活を送った。畑仕事や軍学の講義を行ったとされる。この時期の基次は乞食にまで落ちぶれたと言われるが、後藤基次ほど名声のある武将を支援する者が全くいなかったというのは考えにくい。

【豊臣氏に仕官】

後藤基次が隠居生活を送っている間に、世間では徳川幕府が豊臣氏や朝廷内の親豊臣派を屈服させるべく圧力を掛けるなど慌ただしくなっていた。徳川幕府の圧力に耐えかねた豊臣氏は、上方で盛り上がる反徳川の機運に後押しされて豊臣秀頼が開戦を決断。徳川幕府軍を迎え撃つために将兵の募集を始めた。

後藤基次も豊臣家の重臣・大野治長から誘いを受け、帰農していた親類や旧臣たちを集めていち早く大坂城に駆けつけている。前歴は豊臣家から見れば陪臣だが、後藤基次は豊臣軍を率いる大将の一人に抜擢された。開戦前の閲兵式では総指揮を任され、寄せ集めの豊臣軍を指揮して軍事演習を見事に成功させた後藤基次は、軍神・摩利支天の再来と絶賛された。

大坂城では大野治長が軍団の編成と兵站の総指揮を執っていたが、基次は大野を補佐して豊臣軍の陣容を整えるなど活躍。当時大坂方の人物の中で徳川幕府から警戒されていたのはこの二人だった。ちなみに開戦前の軍議で真田信繁たちが出撃を提案して後藤基次が賛成したものの、淀殿や大野治長が反対して案を潰したという話には、確かな史料はない。

大野治長は1614年から主戦派に転じた人物であり、彼の恩人で恭順派だった片桐且元を失脚させて開戦を主導している。軍議で後藤基次と衝突したことを示す当時の史料は見つかっていない。淀殿は邪魔をするどころか、豊臣秀頼と一緒に後藤基次に手厚い贈り物をしたという逸話がある。二度の落城を経験した淀殿はむしろ牢人衆を当てにしていた、と考える方が自然かもしれない。そして豊臣秀頼は後藤基次を誰よりも重用し、後藤家の家臣たちにも気を配った。

豊臣の主従と10万の将兵から最も篤い信頼を寄せられた武将が後藤又兵衛であり、彼の名声は確かな戦歴と采配によって裏付けされていた。

【冬の陣】

豊臣氏が開戦準備に費やすことができた時間は短く、また畿内の要所には徳川幕府に味方する有力大名が大軍を抱えていたため、豊臣軍は大坂城の周囲に陣地を構築、襲来する徳川方を迎え撃つ構えで臨んだ。後藤基次は当初豊臣秀頼の傍にいたので、大坂城で参謀を務めながら各戦線を救援する友軍を率いる立場だったのかもしれない。大坂城から退去して幕府に味方した片桐且元の軍勢が堺に襲来したが、後藤基次の家臣たちが撃退し、豊臣秀頼から褒賞を与えられている。

徳川幕府は全国から20万人の大軍を動員した。幕府軍は兵数で優ることや諸大名が手柄争いで必死だったこともあり、四方八方から豊臣軍の陣地を攻撃、犠牲を省みない強襲を繰り返した。豊臣軍も善戦したが、徐々に各地の陣を捨てて後退した。

その中で発生した今福の戦いで、後藤基次は活躍した。まず大坂城の北東に位置する豊臣方の陣地を佐竹家の軍勢が襲撃。陥落寸前のところを豊臣軍の木村重成が救援した。戦況を観察していた豊臣秀頼は後藤基次に出撃を命じ、基次は兵を率いて出陣。今福村へは川を大きく迂回しなければならなかったが、後藤勢は速やかに木村勢と合流し、協力して佐竹勢に猛攻を仕掛けて追い立てた。佐竹勢は家老の渋江政光が戦死するほどの窮地に陥った。この時、川を挟んで南では大野治長たちが率いる豊臣軍が上杉家の陣地を襲撃していたが、上杉勢の奮戦と諸大名の参戦により敗退。幕府軍は北上して川を渡り始めたので、後藤・木村勢は速やかに撤収した。

後藤基次は真田信繁や長曽我部盛親と協力して真田丸の守備にも参加し、城内の内通者を欺いて敵軍をおびき寄せ、返り討ちにしたという記録を後藤基次の家臣が残している。他にも大野治長の弟治房から戦の相談を受けるなど、諸将から頼りにされていた。諸将との関係は終始良好だった。

両軍共に大軍を動員したのでやがて兵糧や弾薬が不足し、和議の話が持ち上がった。
和議について後藤基次がどう判断したかは不明だが、城を包囲された豊臣方は補給が難しく、主戦派の秀頼や大野も最終的に和睦に賛成した。だが徳川幕府は和睦の条件を破って堀を埋め立て、さらに引き上げた後は様々な口実を設けて豊臣氏を糾弾した。

【夏の陣】

徳川幕府は豊臣氏に圧力を掛けて再び開戦に追い込んだ。大坂城では和議の結果として多数の将兵が城から去っており、兵が10万から7万余りに減少していた。籠城戦は不可能になっていたので、豊臣軍は大和や和泉に進出して徳川方と交戦。緒戦は豊臣軍が優勢だったが、幕府に味方する諸大名が軍勢を率いて次々に到着すると、豊臣軍は戦線の維持ができず後退するしかなかった。

劣勢の状況で基次たちは、大和方面から侵攻してくる幕府軍を河内方面で迎撃する作戦を提案。国分村という土地を戦場に選び、先に周囲の丘を豊臣軍が押さえて、徳川軍が国分村に進出したところを叩くという作戦だった。豊臣軍はこの作戦に2万の兵を割き、後藤基次は先鋒を引き受けて三千の兵を指揮した。道明寺の戦いの始まりである。

河内に進出した豊臣軍は道明寺へ向かい、石川を東へ渡って国分村へ移動するはずだった。先鋒の後藤勢は予定通り夜間に道明寺へ到着。だがこの時、幕府軍の諸大名の軍勢はすでに国分村に進出していた。
また豊臣軍は後続の友軍が遅れていた。物見から報告を受けた後藤基次は後続の到着を待たず、退却も選ばず、兵を率いて川を渡り国分村の西にある小松山を目指した。この時点で基次は、作戦の失敗だけでなく豊臣家に残されていた僅かな勝機も潰えてしまったと考えたのかもしれない。

後藤勢は要地の小松山を確保しようと進軍していた幕府方の奥田勢、松倉勢を攻撃して山から追い払い、救援に駆けつけた水野、堀勢との交戦を開始した。孤立無援の後藤勢3千に対し、幕府軍は伊達、松平、本多など諸軍も加わって総勢2万を超える大軍が小松山を包囲した。山を登って猛攻を仕掛けてくる幕府軍を後藤勢が撃退し、逆に突撃を繰り返して幕府軍に多大な損害を与えたが、数で劣る後藤勢は次第に追い詰められていった。およそ七時間にも及ぶ激戦の末、後藤基次は遂に討死。大将の遺骸を守ろうと多くの将兵が奮闘して戦死し、残存兵は三男の後藤一意が率いて小松山から離脱し、道明寺へ向かった。

※濃霧が発生したとはいえ友軍の到着が遅れすぎていて不自然なこと、そもそも本当に濃霧が発生したかどうかも不明のため、上記の説には異論も唱えられている。真田勢などの迎撃部隊主力は、幕府軍が大和川を越えて北上する可能性も考え、道明寺よりもずっと北の土地に布陣していた。国分の地形なら寡兵でひとまず幕府軍を足止めできると豊臣方は判断、基次がその任務を引き受けた。

一方、大和方面の幕府軍は豊臣方の予想を上回る軍団規模と速度で西進し、国分一帯を制圧。豊臣方の目論見がこれで崩れてしまう。後藤勢が小松山を押さえた時点で幕府軍は国分から更に西へ向かっていた。

いずれにせよ幕府軍の進軍があまりに速かったことが、豊臣軍の戦術を破綻させたと考えられる。小松山の戦いで諸大名は友軍と連携せず我先に攻め寄せて後藤勢に順次撃退されたことや、緒戦で同士討ちも起きている(伊達政宗が味方の神保勢を殲滅した等)ことから、戦後の生き残りを賭けた諸大名の熾烈な功名争いが窺える。

【死後】

後藤勢の救援に向かった豊臣軍は道明寺に到着して後藤勢を収容し、後藤勢を追いかけて石川を渡ってきた幕府軍と激突した。戦況は豊臣軍が優勢だったが、別方面でも味方が敗北したことを知った豊臣軍は退却を開始。幕府大和方面軍を率いる水野勝成は追撃を主張したが、後藤勢との戦いで多大な損害を被っていた諸大名は拒否した。

牢人衆の筆頭であり豊臣軍の精神的支柱でもあった後藤基次の死に衝撃を受けた豊臣軍の諸将は翌日、最後の戦いに挑むこととなる。後藤勢と戦った敵軍はあまりに甚大な被害を受けたため、この決戦ではほとんど動かなかった。後藤勢は結果的に豊臣軍に最後の勝機をもたらしたことになる。

後藤基次の活躍は味方だけでなく幕府方の諸将からも賞賛され、特に徳川家康や細川忠興は最大級の賛辞を贈っている。戦後、毛利家と肥後加藤家にそれぞれ仕えていた後藤基次の長男と次男は切腹させられたが、細川家に仕えていた四男は細川忠興が守り抜いた。
 

豊臣軍の武将「毛利勝永」とは

 投稿者:濃姫  投稿日:2015年 7月21日(火)22時53分36秒
返信・引用 編集済
  「毛利勝永」(1577~1615)とは、忠義と武勇に優れた豊臣秀頼配下の大坂方武将内での大名首朱功記録保持者であり、真田幸村と共に徳川家康を後一歩まで追い込み、豊臣秀頼最期の時まで付き従いながらも、後世の評価を全て真田幸村に持っていかれている為に「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」 と評される事に定評のある「もっと評価されるべき」真の戦国無双。

【勇士の栄光と流転】

豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子として尾張国にて生まれ、豊臣秀吉の九州征伐後に豊前国内に父・森勝信が10万石を拝領した際に、豊臣秀吉のはからいにより毛利輝元の許可をとった上で、森勝信父子は毛利姓へと改姓することになり、毛利勝永となった。

慶長の役に参加して明・朝鮮の連合軍を破り、関ヶ原の戦いにおいて西軍について伏見城攻略戦にて戦功をあげて毛利輝元や宇喜多秀家より感状を賜る等、武勇に優れた父・毛利勝信の血を受け継いだ勇将ぶりを発揮した毛利勝永だったが、関ヶ原の戦いの決戦の際は、毛利秀元隊の指揮下にいた為、吉川広家の邪魔により戦いに参加することが出来ずに撤退することとなり、城を黒田孝高に引き渡した豊前小倉毛利家は改易され、毛利勝永は父・毛利勝信と共にその身柄を、加藤清正そして山内一豊といった父の旧知で親交もあった大名家に預けられた。

決戦に参加していない事もあったが徳川家康旗下の最古参の一人であり、伏見城主だった鳥居元忠が落城と共に自害した事から、感状を発行される程の活躍をした毛利勝永に対して死罪の可能性もあったが、豊臣秀吉の存命中に命令された伏見城の普請にて木材が足りなくて困っていた徳川家康を、奉行を務めていた父・毛利勝信が裏から手を回して助けた事から死罪は免れたのだった。

そして山内一豊の元に送られた毛利勝永と父・毛利勝信は、山内一豊より1000石を与えられ、弟は山内姓を与えられて山内吉近を名のるなど罪人の身には恐れ多い厚遇を受けた。

【忠義の士・大坂へ】

父・毛利勝信が死去した後も土佐で暮らしていた毛利勝永に豊臣秀頼からの召集をうけると、毛利勝永は妻に対して、自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう。と一度は大坂入りに難色を示したものの、妻より君の御為の働くは家の名誉です。残る者が心配ならば、私達はこの島の波に沈み一命を絶ちましょう。

とのエールを受けて子・毛利勝家と共に土佐から脱走して大坂に入城し、大坂に集まった諸将の信任を得た、真田信繁(真田幸村)長宗我部盛親 後藤基次(後藤又兵衛)明石全登らと共に大坂の五人衆と称され45000を預かる身となったが、大坂冬の陣においては真田信繁と共に出撃策を献じるも篭城策が選ばれた為、さしたる戦功を挙げる事なく豊臣秀頼と徳川家康は和睦した。

【大坂夏の陣】

和睦は破られ、再度、豊臣秀頼と徳川家康がぶつかる大坂夏の陣がおきると、掘を埋められて防御力をそぎ落とされた大坂城に篭城せずに出撃する事となった。

道明寺の戦いでは、発生した濃霧により、真田信繁と共に後詰を務めた毛利勝永が間に合わなかった事から後藤基次らが討死し、真田信繁は毛利勝永に対して、濃霧のために味方を救えず、みすみす後藤基次らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。

遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない。と弱音を吐いて、討死を覚悟したが、毛利勝永は、ここで死んでも益はない。 願わくば秀頼様の馬前で華々しく死のうではないか。と言って真田信繁をなだめて退却の指揮をとり、無事に自軍を大坂城へと帰還させた。

【無双の士、駆ける】

徳川家康の軍との決戦となった天王寺の戦いに4000の兵を率いて出陣した毛利勝永は、大胆不敵にも徳川家康本陣の正面に布陣した。

そして天王寺の戦いが始まると、真田信繁と共に徳川方の陣につっこんだ毛利勝永は、ホンダムの次男で大坂冬の陣の際に酒がもとで失態を犯していた事から引かずに勇戦した上総大多喜5万石の本多忠朝を討ち取り、

本多忠朝・最期の言葉
「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」

続いて突撃した信濃松本8万石の小笠原秀政に、後の世の松本小笠原氏改易の際の助けとなる「父祖の勲功」となる重傷を負わせた。

※小笠原秀政はこの時の戦傷により戦場を離脱後すぐに亡くなった。

その後も突撃を続けて奮戦する毛利勝永は、浅野長重・秋田実季・榊原康勝・仙石忠政・酒井家次・諏訪忠恒らを次々と無双乱舞によって撃破し、真田信繁と共に徳川家康の本陣へと肉薄、徳川家康は切腹も考える事態にまで陥った。

【兵の跡】

徳川家康の首まで後一歩と迫った毛利勝永だったが、後に評価を独り占めする真田信繁の部隊が先に壊滅すると、四方より攻撃を受けはじめ、徳川家康の首に届かぬ事を見極めた毛利勝永は、反撃してきた藤堂高虎・井伊直孝・細川忠興の軍を打ち破って大坂城への撤収を完了した。

真田信繁が討死し、名実共に大坂方の一枚看板状態となった毛利勝永は、大坂落城の際に自害した豊臣秀頼の介錯を行い、自らも子・毛利勝家と共に自害して豊臣秀頼に殉じた。

【もっと評価されるべき】

大坂方の武将の中では、
三世代チートの例の一族出身で真田幸村効果で功績独り占め状態の真田信繁。
親父が四国最強のチート・長宗我部元親で逸話も多い長宗我部盛親。
主君・黒田長政との因縁により乞食にまで落ちぶれたエピソードに定評のある後藤基次。
みんな大好き中納言・宇喜多秀家の家臣であり、名前が読みづらいことに定評のある明石全登、といったネタ方面も含めてエピソードに恵まれずに影が薄いのが毛利勝永である。

しかし、彼の大坂城での活躍は真田信繁に劣ってはおらず、討死することなく何度戦い続けて徳川家康にも迫る等、将としての功績は一番ともいえるのだが、逆に大坂の陣の時のエピソードしかない為か各方面で評価されず完全に隠れた名将扱いであり、コーエーの「信長の野望」シリーズでも初出時の高能力がシリーズを重ねるごとに真田信繁と水を開けられ、「革新」でやっと再評価されたと思ったら、島津義弘や木村重成の様な「顔グラいじめ」にあうという状況である。

まさに毛利勝永こそ「もっと評価されるべき」戦国武将と言える。木村重成もね。
 

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