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『アドルフ』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月 9日(金)16時03分6秒
返信・引用
   加葉田さん発表お疲れさまでした。
 『クレーヴの奥方』ほどではないにしても、今回も古い小説でしたので、作者コンスタンの経歴を詳しく説明してもらうことで、作品の背景などが明らかになったかと思います。
 加葉田さんも言っていたように、小説があくまでアドルフの視点から描かれているのに対し、映画のほうは、一人称の語りがあるとはいえ、むしろエレノールの心理や苦しみを浮き彫りにしていまし。これは、映画が女優イザベル・アジャーニを中心に作られているという事情のせいもあるものの、もともと、小説では有効に機能する一人称の語りが、映画では必ずしも語り手の視点に限定するといった効果をもたらさず、アドルフの目に映る他の人物などについての視覚的な情報が豊かになり、むしろそちらのほうが強い印象を観客にあたえるという、メディアによる特徴の違いもあるかと思います。
 そうした意味では、映画では、言葉ではなく俳優の表情で複雑な心理描写を表現していたというのも、大事な指摘だったと思います。

 それにしても、アドルフのような男が主人公や語り手になる小説は、決して稀ではないと思うのですが、現実の社会生活においては、駄目な男として一蹴してしまえそうな人物が小説(あるいは映画)の主人公になるというのは、どうこことでしょうか? そうしたことも考えてみるとおもしろいかもしれません。
 
 

『クレーヴの奥方』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月 4日(日)23時46分19秒
返信・引用
   飯平さん、発表お疲れさまでした。
 小説のほうは、古い作品なので、時代背景や文学史での位置づけなども説明してくれたのはよかったと思います。「フランス文学の得意とする心理小説の祖」という紹介もありましたが、まさにそのとおりで、この種の小説がフランス小説の伝統になっていきます。実は、前の週に扱ってもらった『愛人 ラマン』もその一種と言える要素を持っているのですが、その一方で、ある意味では「アンチ心理小説」的な面を打ち出したものでもありました。そういった意味でも、『クレーヴの奥方』を読んでおくと、フランス文学について考えていくときの基盤のようなものができると言えるかもしれません。
 映画のほうは、飯平さんの説明にもあったように、小説とはかなり変えてありますが、骨組みはわりあい同じで、17世紀の物語が現代を舞台にしてもそれなりに成り立ってしまうのに、まずは驚かされます。その一方で、ヌムール公にあたるペドロ・アブルニョーザが独得で、その点にも別種の驚きを覚えます。オリヴェイラ監督は、高齢にもかかわらず、ずいぶんと大胆な試みを平気でやってしまうようなところがあり、そういう意味でもおもしろい人だと思っています。
 映画における音楽の使い方、クレーヴ夫人の心の動きに焦点を絞っってある点などについて言及してくれましたが、いずれもいい指摘だと思いました。
 ひとつだけ付け加えるなら、映画の原題はLa Lettreですので、そうしたタイトルに変えてある点についても考えみるとよかったかもしれません。
 

愛人 ラマン

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 6月25日(金)15時28分21秒
返信・引用
   安藤君、発表お疲れさまでした。
 発表の最後の服装についての部分、なかなか聞きごたえがありました。しかも、たんに服装のことだけでなく、それが少女や青年に課せられている束縛との関係で論じられることで、非常に興味深い論点を出してくれました。むしろそうしたことについて、皆さんの意見を聞いてみたかった気もします。つまり、自分のことを振り返ってみた場合、自分が大人になっていくことと、服装の選び方などがどう関係していたのか、といったことですね。
 車とその窓ガラス、出会いの場としてのメコン河の意味、といったことも興味深かったのですが、最後の点に関しては、たしかに川は一種の境界であるわけですが、この小説の場合は自伝的なものであるだけに、川での出合いは実際に起きたことかもしれません。むろん、それでもメコン河が作品のなかで持つ意味や機能を考えてみることはできますが、「なぜメコン河の上で…」という問いの立て方とは少し違ってくるように思います。
 ところで、小説の作者デュラスはアノーによる映画化作品に満足できなかったわけですが、なぜそうなったのかというのをもう少し考えてもよかったかもしれません。そしてそれは、授業中に少し考えてみたデュラスの文体などとも関係しているように思います。そうしたデュラスの文体や小説の構成と、アノーによる映画化の特徴を比べてみると、両者の特性がさらにはっきりした部分もあるかと思います。ちなみに、デュラスは『愛人 ラマン』の執筆の動機を、存在しない一枚の写真としているのですが、そのことも関係してくるでしょう。
 いずれにしても、物語はほぼ同じでありながら、たんに文字と映像という違い以上に、小説と映画は異なってきているように思います。そのあたりは、これまで授業でとりあげきた例以上にはっきりしているので、まだ読んだり観たりしていない人は、ぜひ一度、両者を較べてみてください。
 

『モンド』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 6月18日(金)15時42分13秒
返信・引用
   宮野さん、発表お疲れさまでした。
 今回については、原作者ル=クレジオが映画化を許した唯一の監督というだけに、小説との違いをはらみつつも、幸福な形で映画になった例と言えそうです(もっとも、この『モンド』だけでなく、今回発表で取り上げてもらうものは、おおむね映画化がうまくいっている例だとぼく自身は思っているのですが)。
 そのなかで、小説と映画の違いとして、色の問題に注目してくれたのはおもしろかったですね。もちろん、小説においても色は重要で、当然ながら記述はあるわけですが、やはり視覚的に受け取る場合とでは印象が違います。とくに、赤の扱いの違いといのは興味深いですが、やはり実際に眼で知覚すると、赤から受け取る感覚が異なってくるということもあるのだと思います。
 また、「黄金」についての説明がありましたが、ある特定の人間のものなのか、皆にとっての恵みなのかという問題は、ル・クレジオの自然観にもつながるように思いますし、そうした自然との関係のなかで人間がどのように生きていくのかというテーマにもつながっていくでしょう。

 今回のル・クレジオやトニー・ガトリフは、いずれもいわゆるヨーロッパ的なものから逸脱し、非ヨーロッパ的な文化に向かうというところがありますが、それが彼らの作品に他にはあまりない魅力をもたらしています。それでいて、そうした作品はあくまでヨーロッパの文脈で観ることができるものでもあります。そのあたりの関係もおもしろいと思いますし、グローバリズムが問題視され、エコロジーが推進される世界の現状のなかで彼らの作品を読んだり見たりすると、いろいろと考えさせられるところがあります。そうした作品を、少年の物語として書いてしまうあたりがル・クレジオの才能だということになるのかもしれません。
 

『知られざる傑作』/『美しき諍い女』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 6月13日(日)23時32分59秒
返信・引用
   馬本さん、発表お疲れさまでした。気がつくとすでに日曜日ですが、遅ればせながら、感想など書いておきます。
 『美しき諍い女』は、『知られざる傑作』の映画化というよりは、翻案と言ったほうがよく、大きく違っているので、較べるといろいろとおもしろいと思います。(前回の『ピクニック』のように、大きな違いがない場合は、逆に小さな違いを見つけ出し、その違いの意味を考えるおもしろさがありますが。)
 違いのなかでも大きなものは、馬本さんも指摘してくれたように、『知られざる傑作』の場合は、美に憧れ、追い求める芸術家(それも男性の芸術家)が主体となっているのに対し、『美しき諍い女』では、モデルとなるマリアンヌやフレンホーフェルの妻リズの存在が大きくなっていることでしょうね。これによって、作品の視点のようなものはだいぶ変わっています。
 それとも関係することですが、『知られざる傑作』では、ジレットが実際にモデルになる部分はばっさりと省かれているのに対し、『美しき諍い女』では、マリアンヌがモデルをするシーンが延々と続きます。そのことによって、画家とモデルというテーマが出てきているといえるでしょう。しかも二人の関係は、必ずしも画家が優位に立つというかたちばかりではなく、ある意味で二人が拮抗しあうというか、まるで決闘しあうように向き合い、そのときマリアンヌにはある種のたくましさすら感じられます。
 それと同時に、マリアンヌがモデルをし、フレンホーフェルとが描くという場面が省略をあまりせずに描かれることで、絵画という結果ではなく、それに至るプロセスが描かれています。小説でもこうしたプロセスは描けないことはないですが、やはり映画のほうがその表現には向いています。そうしたプロセスに徹したことで、この映画はおもしろくなっているとぼくは思っています。
 さらに、これは馬本さんが的確に指摘してくれたことですが、デッサンを描くときのペンの音などがなまなましく入ることで、絵画制作のプロセスが観る者に迫ってきます。これもまた映画独得の表現といえるでしょう。
 こうした具体的なプロセスの表現に対して、『知られざる傑作』のほうはある意味でもっと観念的な部分が前面に押し出されていました。そこらが小説と映画の違いとも言えるかもしれません。
 

『ピクニック』

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 6月 4日(金)14時49分30秒
返信・引用
   渡辺さん、発表お疲れさまでした。遅くなりましたが、感想めいたことを書いておきましょう。
 モーパッサンの短編小説とそれを原作としたルノワールの映画について、よく調べてくれましたし、両者の特徴、共通点、相違点を的確にまとめてくれていたと思います。
 ルノワールの映画の撮影は、天候に恵まれずに苦労したとのエピソードが紹介されましたが、映画の後半で降る雨は、そういう意味では、天候のせいで入れられた要素なのかもしれません。しかし、雨も水ですから、川の水との親和性のようなものも生じていると言えるでしょう。同時に、人間を翻弄する自然といった側面もつけ加わった気がします。
 そのこととも少し関係しますが、同じように水のテーマにこだわってはいても、モーパッサンとルノワールでは、水のはたす役割やもたらす効果のようなものが、微妙に異なるようにも思います。ルノワールの場合は、人間を翻弄しつつも官能性を生じさせ、モーパッサンの場合は、官能性もあるのですが、どこか普段と違う精神状態、一種の狂気のようなものに結びついている気がします。そのあたりは、もっとほかの作品で確かめる必要がありますが。

 ところで、この物語では、パリの人間が郊外にピクニックに来るわけですが、そうした習慣がいつごろからできたのだろか、と考えてみるのもおもしろいように思います。わざわざ郊外までピクニックに行くということは、パリが近代都市として成立してはじめて起こる事態だと考えるからです。前に別の授業で、都市のテーマを扱ったとき、都市の特徴は公園があること、と言った学生がいました。ぼくとしては、やや虚を突かれたところがあったのですが、その学生が言うには、田舎には公園などない、そこらじゅうが公園みたいなものなのだから、ということなのです。言われてみればたしかにそのとおりで、パリの人間が郊外にピクニックするようになったのも、パリのなかにピクニックできるような場所がなくなったからではないか、そして、わざわざパリにない自然を求めて遠出する趣味や余裕が生まれたからではないか、という気がするのです。
 そうした点についても話しあったりできるとおもしろかったと思うのですが、その時間がなく、少し残念でした。
 残念という意味では、授業の最後のほうで、小説と映画ではどちらのほうが男目線か、という話になったのですが、これもおもしろいテーマです。小説や映画での女性の描かれ方という問題もからんできますし、ある意味では、ジェンダー・スタディーとも関係してきます。この点についても、みなさんにもう少し話し合ってもらうとよかったのですが…。
 せっかく掲示板を作りましたので、こうした積み残した問題やテーマなどについて、できたらこの場で考えを述べてもらいたいものです。
 

掲示板開設

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 5月 9日(日)19時54分36秒
返信・引用
  授業中だけでは時間が足りなかったりもしますので、この掲示板を使って話し合いましょう。
授業関係以外にも、意見や情報を交換する場として使ってもらってかまいません。
本名でなく、ハンドルネームでもいいので、気軽に書き込んでください。
 

teacup.掲示板 START!

 投稿者:teacup.運営  投稿日:2010年 5月 9日(日)19時47分45秒
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